第211話:黒井少年が育った街を垣間見る

 田園都市線に乗りたいんだと言われた。

 え、わざわざそんな、電車の指定があるわけ?

 まあ、別に、京王線でも田園都市線でも、江ノ電でも湘南ライナーでも箱根登山鉄道だって僕は構わないけど・・・。

「ね、俺おやつ買って来た。クリームパンでしょ、カルピスの飴でしょ、トロピカーナのグァバジュースでしょ・・・」

「う、うん、美味しそうだね」

「あ、あと、やっぱりカロリーメイトも買おうとしたんだけどね・・・」

 コンビニの袋をがさがさ開けてみせるけど、僕は携帯で曖昧な路線検索をしていて、また電車が来るっていうしもうどっちを優先していいんだか。

 到着駅の指定は出来ても、どこからでもいいからその路線に乗りたいなんて、どう指定すればいいんだよ。

 外回りでもあまり田園都市線には乗らないから、どんな駅があるのかよく知らなかった。渋谷から出てるやつは、紫の半蔵門線・・・あれ、それが田園都市線でもあって、途中から名前が変わるだけか。

「とりあえず、明大前から渋谷に出ようか」

「え、ううん」

「ん?」

「隣。世田谷線に乗ろうと思って」

「へっ?」

 世田谷線?

 田園都市線はどうした。まさかもう気分が変わったのか?

 よく分からないまま携帯を閉じ、再び現れた上り電車に乗り込む。え、これに乗るなら、僕が乗ってきたやつにそのまま乗ればよかったんじゃ?

 しかし、ドアの上の路線案内図を見上げ、眼鏡をかけてよく見たら、ようやく分かった。

 桜上水の隣、下高井戸から世田谷線というのが出ていて、それは終点の三軒茶屋まで縦に走っている。そして、さっき乗ってきたのは急行で、下高井戸には停まらなかったのだ。

 三軒茶屋は、田園都市線か。 

 ・・・じゃあ、検索する前に言ってよ!

 ・・・。

 でも、世田谷線に乗り換えるために歩きながら、ふと携帯を見ていて、思った。黒井はさっきもしかして、僕が路線を調べているとは思わなかったのかもしれない。あのカラオケの時みたいに、鳴ったら出ようとするけど逆に興味がなければ何の関心もなくて、モノに頓着がないやつだ。さっきだって買ってきたおやつの披露に忙しく、むしろ、「ケータイなんか見てないでさ」みたいな雰囲気だった・・・。

 僕はまた、正確さとか計算とか、自分を優先してしまったかな。

 迷ったり、分からないってとこを見せたくなくて、お前に何も言わず、一緒にいるのにネットで調べ物。「どうやって行くの?」って素直に訊けばよかったか。・・・いや、どこからどう行って、何分かかるかなんて、経路に納得してもしょうがないね。お前といるときは行き先も目的も決めないんだって、また今思い出したよ。

 ただ、「楽しみだね」って、言えばよかったんだ。

 じゃあ、今、言う?

 まだ、言うのに遅くない?

 せりふを用意したらまるでカメラでも回されてるみたいに緊張して、たった一言、出てこない。「はい、リラックスして!」「自然な感じでね!」って頭の中で声がかかるけど、やめて、余計あがっちゃうから・・・。

「あ、あのさ」

「うん?・・・あ、パスモ、チャージしてある?」

「えっ、あ、ああ、俺オートチャージだから・・・」

 あ、まずい、それの引き落とし口座も変更しなくちゃ。

「何それ?あ、何か勝手にチャージされるってやつ?ずるい、俺もそうしてれば、前、飢えなくて済んだんだ」

「あ、ああ、そうだね。うん。あのさ」

「え?」

「あの・・・た、・・・たのしみだね」

 い、言った。相当な棒読みだけど、今、言いましたよ!

 黒井が当たり前だって顔で「うん!」と微笑み、ようやく頭の中で「はいカットー!」の声が響いた。



・・・・・・・・・・・・・・・



 世田谷線はたった二両しかなくて、何だこれっていう、いわゆるチンチン電車だった。

 黒井=世田谷=上流階級っていう僕のイメージとは、ちょっと違うような・・・。

 当たり前だけどホームも短くてちっちゃくて、途中の駅なんか無人駅みたいで、都会なんだか下町なんだかよく分からない。

「お前、初めて?」

「うん。何か、ずいぶんかわいらしいんだね、これ・・・」

「でも何かすごい新しくなった。俺もあんま乗ったことないんだけどさ、こんなんだったかなあ」

 バスみたいな一人掛けの席で縦に並んで、黒井が後ろを向いて話しかけてくる。何、もうこれ、デートなんじゃない?無言でジュースを渡されて回し飲みして、もう、恋人なんじゃない?

 すれ違う向かいの電車を窓から二人で見送って、何となく笑ったりして、今度は飴が回ってくる。桃のカルピス味とか、本当、甘すぎるよ。



・・・・・・・・・・・・・・・



 三軒茶屋で少し歩いて乗り換えて、地下鉄の田園都市線へ。あれ、そういえば地下鉄なんだっけ?イメージではその名の通り田園風景が車窓から広がってるって感じだけど。

「あのね、昔は新玉線だったんだー」

「しんたません?」

「地下鉄新玉川線。その昔は玉川線って路面電車だったらしいけど。で、渋谷からが半蔵門線、二子玉から向こうが田園都市線だったんだよね。ああ、二子玉だってさ、前は<二子玉川>じゃなくて<二子玉川園>って名前だったんだよ」

「ふうん、それっていつ頃の話?」

「・・・うっ、どうせ・・・二十年前の話だよ」

「へえ、そうなんだ。じゃあ、この辺に住んでたっていう・・・?」

「うん、この辺」

 言って、懐かしそうに目を遣るのは上を走る高速っぽい道路。ん?・・・っぽいも何も、首都高なのか。そしてその下の道路標示は<国道246号線>。カンナナだのカンパチだのニイヨンロクだのってやつ?

 しかし、そう言うと、黒井は真顔で驚いた。

「・・・これ、首都高だったの?」

「・・・それ以外何なんだよ」

「しゅとこうそくどうろ?首都高バトルの首都高?」

「・・・だろ?」

「高速、としか思ってなかった。え、いや、ただ上を走ってるやつ、としか・・・いやいや、そこにあるってだけで、それが何かなんて、そういえば考えたこともなかった。まとめて246としか思ってなかった」

 二十年前の黒井少年にとって、電車といえば地下鉄、道路といえば上下セットの三車線だったようだ。もう、ちょっと怖いもの見たさというか、好奇心を抑えきれず、「車でこの辺、走ってた?」と訊いてみた。まさか小学校もベンツで送り迎えとか・・・?

「え、送り迎えとかないって!えっとね、確かここにいた時は、そうそう、くさくて酔っちゃう黒のBM」

 ・・・。

 それってやっぱりBMW?

 しかも、<ここにいた時は>って、またすぐお乗り替え?

 あれ、もしかして僕は、ものすごく身分違いの恋をしてたのかな?あはは、これ以上は、もう怖くて訊けないや。


 しかし、黒井の育った街は、洗練された華やかな都会、というより、空気が悪そうで空も見えない、ちょっと殺伐とした街、というか大通り、でもなく、ただ日差しの遮られた暗い道路、という印象だった。

「うちは、もっとあっちだったよ」と指をさした渋谷方面も、ずっと暗い道路が続いていた。


 

・・・・・・・・・・・・・・・・



 地下鉄、つまり、田園都市線の旧<新玉川線>部分を走る間、黒井はクリームパンをちぎって食べながら、気まぐれに僕にもそれを寄越した。ほどなくして地上に出るとそこは二子玉川で、発車するとすぐ、広々とした多摩川の景色。ああ、字が違うけど多摩川なわけね。

 思わず二人でそれを眺め、その後、頃合いを見計らって僕は本を出した。

「どこまでいったっけ?」

「えっと、第一章まで」

「ん、じゃあ、こっからね」

「うん」

 僕はまた眼鏡をかけ、頭痛がしたってどうでもいいやと、横からそれを読んだ。夜の混んだ車内と違って、空いた日曜の朝、控えめな外の光で読んだら、少しはいい気がした。

 

 第二章は、アーネスト・ラザフォードという人物から始まったいた。時代的にはハイゼンベルクやアインシュタインより少し遡る。やや泥臭くて、しかし憎めない人物のようだ。

 途中、ウランをアルミホイルで何重にも包むという記述があって、僕は思わず下を向いた。あのぐるぐる巻きの不審なバースデイ・ラッピングを思い出したのだ。

「ん、何?」

「いや、ちょっと、思い出すことが」

「もしかしてアレ?」

「・・・う、うん」

 黒井もすぐ思い当たったらしく、「あれね」と笑った。

「だから、タイムマシンだって言ったじゃん。エキゾチック物質が包まれてんのかと思った」

「はあ?何だよ<えきぞちっくぶっしつ>って」

「ワームホールを支えとく、何か斥力の物質」

「え、本当の話?」

「理論上はね」

 それがいったい何であり、その呼称が固有名詞なのかそのような性質を持つ物質全般を指すのかも分からなかったが、まあ黒井先生がエキゾチックだと言えばエキゾチックなんだろう。

 それから、チャールズ・ダーウィンの名も引き合いに出され、放射線による時代測定と進化論の間接的な状況証拠が共鳴したようだった。しかし、えーと、時代的にはどうなってるんだ?

 訊くと、「えっと、何年とかわかんないけど、ダーウィンの孫がハイゼンベルクとかと一緒に物理学やってんだよ」とのこと。ふうむ、分かったような分からないような、しかしそれでも科学史としてはものすごい黄金時代のようだ。


 その後中心人物はあのボーアに移った。ハイゼンベルクの師のデンマーク人だ。泥臭いが頑健そうなラザフォード氏に比べ、柔和だがやや哲学的な・・・まあ今風に言えば天然とか不思議ちゃんっぽいにおいのする人物だった。

 理工書に出てくる、方程式を生み出した人物名として登場するそれと、<部分と全体>に出てくる個人の主観百パーセントのそれと、こうしてやや客観的に述べられるその人物像と、三つのライトが当たると何となく立ち位置というか、イメージがつかめてきた。

 そして、第二章は、この時代がやはり特別な、壮大な冒険に漕ぎ出すような輝きに満ちた時代であり、そこに幸運にも立ち会った人々は熱に浮かされながら原子の謎にのめり込んでいったのだと記していた。こうして、黒井というナビゲーターの先生を横に置いてその時代を追体験している僕も、一緒になってわくわくした。しかし黒井はやはり、少しだけ寂しそうな目で、僕を見守るみたいに微笑んでいた。



・・・・・・・・・・・・・・・・・



 多摩川を越えたんだから神奈川県で、だから南西へ向かってるんだろうが、この電車がいったいどこまで行くのか、それが自分のうちや桜上水なんかとどういう地理になっているのか、よく分からなかった。でもまあたぶん、<コ>の字を描いて移動しているんだろう。縦が世田谷線で、今は下の横棒を左へ向けて進んでいる。

 章が終わったタイミングで一度本を閉じ、ジュースを飲みながら、「理屈としては、ここを北上すればうちと桜上水の間くらいに着くと思う」と説明した。そして言ってから、ああ、別にここがどこだろうが帰りのルートがどうなろうが、どうでもいいんだった、と奥歯を噛んだ。なんて物覚えが悪いんだ!

「じゃあさ、車なら意外と近いの?」

「・・・たぶん、そうじゃないかな」

「ふうん、じゃあ車で帰ろっか」

「えっ、タクシー?」

「いや、レンタカーとか・・・って、返しに来なきゃなんないか、はは」

 そ、そうだよ、と曖昧に笑いながら、僕は黒井が運転する車の助手席に座っているところを思い浮かべた。いや、思い浮かべる前にくらくらして、今だって並んで座って乗り物に乗ってるじゃないか、とよく分からないフォローを入れた。ん、でも、今は僕が右側だから、黒井が助手席?似合わないって。

 ・・・いや、外車なら左ハンドル?

 そんな車の助手席に僕が?

 でも、女の子を乗っけてた話を聞きたくなくて、車の話はそれ以上突っ込まなかった。


 第三章は、ヴォルフガング・パウリから始まり、ハイゼンベルク、シュレディンガー、ディラックと、なじみの面々が勢ぞろいだった。エピソードも<部分と全体>からの参照だとすぐ分かるものも多く、次々と質問をしなくても何とかついていけた。

 しかし、少し遠ざかっていたせいで、量子論の基礎も覚束なくなってきてるな。

 スピンだの不確定だの単語は覚えているから分かっている気になっているけど、むしろそのせいで本当の理解をしないまま通り過ぎているような気もする。

 ・・・本当の理解?

 第一章に入る前から、この本は、原子についての本当の理解など本当に出来るのか?と、そう問いかけているのではなかったか?

 現代の、すべての答えはネットに載っているようなこの時代でも、原子のその秘密のベールはまだかかっているんだと、そう教えてくれているのか。

 おこがましいを通り越してるのは分かってるけど、僕は自分もその謎に挑む一人になったような気分になって、一人胸を熱くした。この天才たちと時代を越えて肩を並べた、なんて、でも別にいいじゃないか、ただそんな風に思うくらい、ねえ・・・。

 ねえ?

 肩を並べた黒井先生はいつの間にかうとうとしていて、髪の間からのぞくそのまぶたは確かに閉じていた。僕はそっと本をめくり続け、三章まで読み終わった。

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