第210話:電車に乗ろう!

 結局、設定や置く場所の確保で部屋の片づけをしている間に黒井の腹が鳴り、「やっぱお腹空いたね!」と、また<現在>が更新された。しかし、そのキッチンを使うなら当然シンクに溜まった洗い物をしてからで、「もう、今日は掃除でいいね・・・」と僕はため息をついた。まったく、いろいろ、お預けもいいとこだ!

 黒井にしてはめずらしく冷蔵庫がやや充実していて、僕は味付けカルビを焼き、カット済のパック野菜をチンして温野菜サラダにした。

 果汁が多いグレープフルーツのチューハイのロング缶を二人で空けて、僕は、手を付けなかった部屋の隅の分厚いハードカバー群をちらと見遣った。気づいた黒井は、「あの、また、今度ね」と少しはにかんだ。


 十時過ぎに部屋を辞して、いいと言ったのに、初めて黒井に駅まで送られた。二人で歩いていると妙に恥ずかしくなって、さっきのハプニングを思い出し、結局あれは何だったんだと一人で考えた。

 ・・・本気で、僕と、する気だった?

 いや、それはただの希望的観測による早とちりかもしれないか。別に、ゴムを出したところで、必ずしも僕に挿れるとは限らない・・・。

 ・・・他に、何があるっていうんだよ!

 しかし、意外と、考えれば考えられてしまうものだった。

 たとえば、「ねえ、使い方教えてよ!」とか。

 まさかとは思うが、「俺、つけたことないし」とか、あいつならあり得る??

 それから、「俺の中身、何cc?」とか・・・。時間のことを気にしてたけど、まさか僕と量比べをするとか言い出したり・・・なんて、あ、あるわけないか。

 つい笑いが漏れて、「なに?」と黒井が顔をのぞき込んでくるので、「何でもないって!」と手のひらをぶんぶん振った。お前の下半身に関する馬鹿な妄想だよ、気にすんな!

 別れ際、やっぱり離れたくなくなって、あと十時間くらいでまた会えるけど、胸が痛くなった。このまま「じゃあね」じゃなくて、何か、何か思いを伝えたい。

 週末、今度こそ、本を読んで、星を見ようよ。

 そう言いたいけど、たぶんお前の未来は固定できないから、その時にその更新がなされるのを願うしかない。

 僕が言えるのは今のところ、結局掃除のことだけだった。

「さっき、冷蔵庫を少し<強>寄りにしといたけど、この時期気を付けろよ。すぐ傷むから」

「・・・ふうん?」

「あの、湿気が高くてカビも出やすいし、こ、今度来てちゃんと風呂を洗うからな」

 言いながら、まるでお前に抱きつくか抱きつかれるかするみたいに、境界線を越えていく感じがして腹がひゅうと透けた。最後まで言い切るのに、その一語一語、発音するのが現実感を伴わず、それでも断定形で言い切った・・・。

「うん、・・・わかった」

 黒井がはにかんでうなずくので、僕はものすごく恥ずかしくなって、もう、そっぽを向いて、「ああ、うん」などと、鞄を持ちかえたり、定期を出したりしまったりして照れをしのいだ。いや、しのげてはいなかった。



・・・・・・・・・・・・・・



 逃げるように改札を通り、どちらのホームに着くか分からない電車の音で急ぐ振りをして、一度だけ軽く振り返ったらあとは走った。走って、下りが来ていたから飛び乗って、用もないのに車両を一番後ろまで歩いた。何か、動いていないと、心も身体も何一つ落ち着いていなくて、力を伝える当てのない歯車が意味もなく回り続けている。最後尾まで来て運転席の壁に寄りかかり、ようやく息をついた。

 あ、あ、あいつが・・・あわわわ。

 だめだ、言葉が変換できない。まともな単語が浮かばない。ごにゃごにゃぐにゃにゃ・・・猫語でどうぞ?

 ・・・と、と、とにかく。

 うちに、帰ろう。

 ようやく落ち着いた頃鞄の中でグーグーとバイブが鳴って、ひい、と携帯を見ると、メール。


<ねこ、さんきゅ>


 ・・・殺す気か。

 僕はもう、後ろに寄りかかったままずるずるとしゃがみこんで、携帯は握ったまま、しかし見ることは出来ず天井をぼうっと見上げた。周囲の、「え、何この人」って目が妙に心地いい。駅で人が出入りして、ぎょっとした顔をすぐに逸らされ、あはは、何か気持ちがいいや。もういいじゃないですか。こうしていたいんです。

 ・・・忘れたくても忘れないよ。

 お前が「お前はばあちゃんちの猫に似てる」って、クッキーを食べて残していったあのふせん。ちょっぴり下手なひらがなの、その文字は僕の頭に焼き付いている。

 電車を降りてようやく返信という行為を思い出し、僕は甘い海に浸って溺れそうになりながら、ようやく、<クロ、おやすみ>とそれだけ打った。返事は来なかったけど、何かが伝わったんじゃないかな、と思った。伝わってしまってもいいかな、と、思った。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 木曜日。

 朝の集会は三人で、黒井はちょっとだけ通りがかって行ってしまった。

 それでも僕と一瞬目を合わせてくれたから、それ以降のテンションが少し上がって、二人にバレてやしないかと少しひやひやした。気をつけよう。


 課長にちょっと呼ばれ、来週は課長が客先にかかりきりでちょっと留守になるとのこと。

 連絡係、ってわけじゃないけど、何かあったら頼むと言われ、少しだけ頼られたような、任されたような気分。普段見ないファイルの場所を教わり、本社の何とか部長から電話が来たらこれを参照して答えられることは答えておけと。あと、「七月からお前・・・いや、まだいいや」と言葉を濁され、ちょっと不安になった。

 

 金曜日。だらだらとした残業中、横田に親睦会の店の候補を見せた。

「もうこれでいいんじゃないっすか」

「え、ここ?でも人数的に、二十人も席なさそうじゃん」

「でも、ほら、この写真。こことここで押さえれば、まあふたグループでもよくない?新人はばらけさしてさ」

「ああ・・・まあ、ね。でもカジュアルすぎやしない?」

「食べ放題でしょ?行ったら行ったで、食って終わるって」

「うーん、まあねえ。とりあえずちょっと聞いてみる」

 席がなけりゃ候補から外れるし、と豚しゃぶ食べ放題の店に電話する。ホームページを見ながら、えーと、野菜としゃぶしゃぶが食べ放題で、酒かソフトドリンクの飲み放題が選べて、お一人いくらの時間制で、・・・って、ほぼほぼ希望を満たしてるんじゃない?

「あ、すみません、ちょっとお伺いしたいんですが・・・」

 僕は人数と、二つに分かれてもいい旨を告げ、それであれば、仕切りのない横並びの席でご案内できるとのこと。コースはいかがなさいますかと言われ、え、そこまで今決めちゃう?あ、まあ、細かいことは後から変えてもいいか。

「とりあえず二時間の食べ放題で、ええと、アルコール飲み放題つき・・・これって、お酒飲めない人だけソフトドリンク飲み放題のコースっていうのは・・・」

「基本的にはグループ皆様同じコースで承っているんですが・・・」

「女性が二人だけで、彼女たちだけ飲めないんですよ。新入社員の歓迎会で・・・」

 ごり押しするのは嫌いだけど、別に、ズルして回し飲みなんてしないし、ドリンクバーなんだから店員に迷惑もかけないし、実害はないだろ。

 何となく「だめなら他を当たるけど」って空気を読んで、店員は「それでは今回だけ特別に」と言ってくれた。別に、本当は特別でも何でもなくて、この程度の融通は利くんでしょ、なんて、ちょっと斜に構えすぎ?

「無理言ってすみません、じゃあとりあえずそれで。何か変更があればまたすぐ連絡します。はい、はい、わたくし山根と申します。番号は・・・」

 電話を切って、何となく気にして聞いていたであろう四課のおっさんたちに、「あの、新人の女の子たちのたってのご要望でですね、ヘルシーで、カジュアルなところになりましたから!」と先制して言い訳。もう、店なんて新宿に一種類しかなければいい。その日行ったらどのビルでも近いところから案内されて、メニューも金額もすべて一律、選ぶ余地など何もなければ誰も文句を言いようもない・・・。


 とりあえず幹事の仕事をこなしたことで、浮き足立ったり落ち着いたりして帰路に着いた。こうして会社っぽいモードになってしまうと、自分の世界に戻るのに一苦労だ。僕は会社の四課の山根でもあるけど、それ以外はクロとアトミクをやる山猫なんだから、幹事なんてくだらないことは頭から出て行け、出て行け・・・。



・・・・・・・・・・・・・・



 土曜は家事をして終わり、夜、部屋の掃除がてら、僕はあのノートを引っ張りだした。

 黒井とのあれこれの歴史を書いたノート。

 あの三月以降、見ていなかった。

 ちょっと怖かったけど、おそるおそる開いてみる。目を背けながら、ぱらぱらめくって・・・うっ、思わず天井を見上げるほど恥ずかしい。<キス>とかいう単語が自分の字で書いてあって、おいおいやめてくれ、もっと記号とか暗号とか・・・いや、それもちょっと気持ち悪いけどさ。

 しかし、素粒子の勉強をしながら<←今ここ>で終わっている記録を、きちんと更新したい自分もいた。でも、記録に残すのはハイリスクだと警鐘を鳴らされる。たとえばもしかして、明日黒井が突然来るかもしれないし・・・。

 そう思って僕はノートを閉じ、明日、何もなかったらこれを書いて自分を慰めようと思った。


 風呂を洗いに押し掛けると宣言したのだから、電話をして行っちゃおうかなあと思ったけれど、結局そんな勇気はなかった。僕はあの石をまた取り出して、飽くことなく眺めた。

 後は、スクワットをして寝た。一週間頑張った!



・・・・・・・・・・・・・・・



 日曜日、朝六時半。

 電話で起こされた。

 く、クロだ、クロだ、クロだよ!!

「も、もしもし・・・!」

「あ、ねこ?ねえ、電車に乗ろうよ」

「・・・は?」

「本読もう?」

「う、うん?」

「俺、結構、電車で読むの気に入っちゃったんだよね。何か気持ちいいじゃん?」

「ああ、そう、だね」

 誘われたのが嬉しかったから努めて明るい声を出したけど、実は、黒井が持っている本を横から見ていると、眼鏡のせいもあって、目が痛くて頭痛もしそうになるんだけど・・・。

 ・・・頭痛薬を先に飲んでいくか。

 いや、眠くなる?へろへろになる?

 でも断る選択肢なんかないんだから、とにかく黒井の気が変わらないうちにオーケーして約束しないと!


 とりあえずうちの駅まで来て、と言う黒井に即答して、適当な鞄に本と携帯と眼鏡を突っ込み、ジーパンとパーカーで家を飛び出した。日曜の早朝、雨は小降りで、しかし天気予報だと止むのは夕方になるとのこと。折りたたみも鞄に突っ込み、少し濡れながら駅まで走った。


 じりじりと、やっとアトミクを出来るという楽しみな気持ちが盛り上がってきたが、しかし桜上水に近づくにつれて、緊張がそれを上回って腹が痛くなってきた。

 頭痛もしそうなのに、腹痛まで?

 立ち上がって広告でも見て気を紛らわそうとしたら立ち眩みがして、え、貧血まで?

 まずいな、何とか体調を整えないと。

 とりあえず、あっちこっち歩き回るんじゃなくこのまま座って読むだけだからまだよかったか。・・・うう、もうすぐ着くな。乗ったときは遅い、まだかって思ってたのに、いざ着くとなったら心の準備なんか出来てなくて、どうしよう、本当にどきどきしてきた・・・。

 先頭車両のドアから、ホームを見る。

 い、いるかな、いないかな・・・。

 よかった、まだいなかった、と思った次の瞬間に、その見慣れたシルエットがふと目に飛び込んで、うそ、と思わず身をすくめた。いる、いるよ。僕を待ってる。車内を見て、僕を探してる・・・。

 すぐに「おーい!」と駆けつけたい気持ちと、逃げ出してしまいたいような恥ずかしさ。

 どうしよう、あいつ、あんな顔で、ホームを歩きながらこの電車には僕が乗ってるかって探してる。その視線の先に、僕を見つけたらどうなるの?

 そして電車は止まり、ドアが開いて、黒井は僕を見つけた。

 ぱっと顔を輝かせ、微笑んで、でも動かない。

 電車には乗ってこず、僕は一秒逡巡して、ホームに降り立った。

 ・・・電車で読むんじゃないの?

 ああ、新宿行きじゃなくて、下り電車で読みたいのかな?

 発車ベルが鳴り、ドアが閉じて、僕は動かない黒井の方へ、歩き出す。

 どうしよう、いいんだよね?間違ってない、黒井彰彦だ。

 ・・・そんな、見ないでくれって。

 一歩、また一歩足を出すのが、崖から足を踏み出すみたいにひゅうと怖い。暗闇で階段を降りるような、寝ている猛獣に近づくような・・・、いや、怖いというか、お前に面と向かって一歩ずつ近づいていくのが、は、恥ずかしいんだ。

 こらえきれず、三歩手前くらいで止まり、「おはよう」と声をかけた。

 機嫌はよさそうだったが、「うん」との返事。おはようは言わないんだったね。

 その黒っぽいジーパンの、すれた感じの膝を見ながら何も言えないでいると、黒井がすぐそばまで近寄って、「ねえ、これ」と。

 ・・・近いんですけど。

 並んで立ってるんですけど。ねえ、誰か見て!今ツーショットだから!僕の代わりに誰か見といて!

 そうして一瞬、うっすら黒井のにおいがして、もう心臓が速い、速い。

「な、なに?」

「お前に、返すもの」

「あ、ああ、本ね。そっか、こないだ忘れてたね」

 顔を見ることは出来ないまま受け取った袋をそのまま鞄に入れ、下り電車が来たのでそちらを向いたけど、「そっちじゃないよ」と肩に手を置かれた。ひい!

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