第209話:ベネトン未遂

 よくも毎日、という地下通路をいつものペースで足早に歩き、スピードを上げれば上げるほど雑念を追い払える気がしてごぼう抜き。別に、「ごめんね」で約束がなくなったくらい、何でもない、何でもない、何でもないって・・・!!

 とうとうこらえきれず携帯を出す。せめて「実は母親も死んで」とか書いてあったら何もかもを押し流して追悼の純粋性に溺れられるのに・・・って、いくら冗談でも不謹慎だ。あり得ない。もう俺が死ねばいいのに。

 スピードを緩め、もう、一瞬ですらそんな思考が浮かぶような僕は今日をお前と一緒に過ごす資格はないから、諦めて帰ることにした。

 ・・・僕と違ってあいつはきっと、電話で声を聞いたり、その存在を思い出すだけで苦虫を噛み潰したみたいにはならないだろうから、余所様のお母様に、しかも黒井を産んでくれたようなありがたい存在に、一瞬でもそんな侮辱を与えたなんて到底許せることじゃない。

 ・・・ごめんなさい。

 小学生並みの知性で謝って、自虐にもちょっと飽きて、また歩き出した。

 いいんだよ、頭の中は、脳みその中だけは、誰にも見られないんだから!


 逆ギレしながらやっぱり携帯を出して、どうせ何もないんだろ!とそれを開いた。

 メール、が、一件。

 ・・・どうせ、何かの広告メールだろ?

 件名なし、差出人、黒井彰彦・・・。

 ・・・ちょっと用事が出来ちゃって、とか、書いてあるだけだ、きっと。

 心拍数はどんどん上がり、足も速くなる。

 何だっていうんだ。お前が一緒に帰ろうって、お前が「今日、ね」なんて肩を叩くから、期待したんじゃないか。そんなのしょうがないだろ、お前が悪いんだ・・・!

 電車がちょうど行ってしまって、ホームの最前列に並び、息をつきながら、とうとうメールを開いた。


<俺の、うちに、来てくれる?>


 ・・・。

 受信時刻は、19:24。今は20時過ぎ。

 な、何だ、これ、どういうこと?

 っていうか、ノー残なのに四十分も返信がなくて、クロ、お前は今、どうしてる?

 まさか無視されたって、思ってる?

 俺が、お前のこと、そんなわけ・・・。でも、何だよ、どうしてなの?

 一刻も早く電車が来てほしいのになかなかこなくて、来たってなかなか発車しなくて、雑菌と誰かの皮脂にまみれてるって思いながらもドアに頭を押し付け、左右に振ってぐりぐりした。早く、早く、お願い。

 思い出して、鞄に手を突っ込んであの石を握る。ねえ、何なの?<来てくれる?>って何?こないだのおねえさんとやっぱり結婚でもするの?婚姻届の署名でも書かされるの?

 ・・・俺たち、もうやめようって、言われるの?

 早く、早く!

 カッターで自分を切り刻みたくなっちゃうよ。持ってないから出来ないよ!



・・・・・・・・・・・・・・・・・



 駅から走ったけど、マンションの前で息を整えるのに五分かかったら結局同じじゃないか。

 スクワットの効果がもう出るはずもないし。

 <来てくれる?>とメールされたら走って駆けつけちゃうような、お前のことが好きすぎる気持ち悪い俺・・・、なんていう、かわいらしい図式じゃないような気がした。

 気持ち悪い上に、何か、重いんだよな・・・。

 忘れた振りをしてるけど、先に帰ると言われて「あ、うん」なんて軽く答えてしまったことに、まだ罪悪感を感じている。人前だからってつい何でもない風を装ってしまって、お前を傷つけたんじゃないかってすごい自惚れ。でも、こうして両天秤で揺れながら、打開策を打ち立てるわけでなし、潔くどちらかに決めるわけでなし。お前のことを思い遣ると言いながらどうにも品位を疑うような不誠実さだし、やっぱり好きだなんて言葉はメッキじゃないの?これは、そんな恋や愛じゃなくて、ただの粘着ストーカーなんじゃ?

 ・・・カッターがないから、言葉で、理屈で、自分で自分を傷つけたら許されるとでも思ってる?

 でもどうしてこんなに自虐趣味なの?

 そもそもどうしてこんな、さほど根拠もない、ただ抱えたいだけの罪悪感抱えてんの?

 ・・・本当に、カウンセリングでも受けてみたら?

 黒井への想いは、病んだあなたの格好のはけ口なんですよって、言われるんじゃない?

 あなたはそれによって何か別のものを自分から隠していられるし、そこにとらわれて振り回されることで逆に安定を図ってるだけなんですよ。

 黒井さんはその思いを一身に受けて、無意識に、苦しんでるでしょうね。

 それでも彼はあなたのことが好きだから、自分にとってよくないと分かっていながら、受け止めてしまうんでしょうね・・・。

 ・・・はは、聞きたいこと勝手に付け加えてら。

 いいよもう。お前が来いっつったから来ただけだ。

 ピンポンして、「何?」って、言うだけだ・・・。


 ドアを開けた黒井はYシャツ姿で、やっぱり誰かいるのかって一瞬かしこまったけど、別にそういうわけではなかった。

 「いらっしゃい」でも、「おつかれー」でも、「急にごめん」でもなく、ただ通された。そういえば「分かった、今から行くよ」とも何も返事をしてなかったことに今気づく。駆けつける前に「今向かってるけど、何かあった?」くらい訊くのが重くない人間関係というものではないだろうか。

 靴を脱いで、ああ、そろそろにおいが気になる季節だななんて、実際的なことを思った。一足くらい靴下の替えを鞄に入れとくべきか。

「・・・あの、もう、帰ってた?」

「え?あ、ううん、ちょっと残ってたから、会社出て、メール、気づいて・・・」

 ここに最後に来たのは、四月の、終わりか。

 無意識に部屋中をちらちら見てしまい、片付けたはずの何かがまた取っ散らかってるなとか、何がなくなって何が増えたかなんて、ひと月入り浸ったからって僕の部屋じゃないんだぞ。干渉しない、干渉しない、干渉しない・・・。

 キッチンのシンクに軽く腰かけるように寄りかかり、黒井は何も言わず、目を伏せたまま。

 僕は、スーツで二人、部屋で突っ立っている違和感について、考えた。

 だだっ広いオフィスに慣れきって、こうしてマンションの一室に並んで立ったら妙に近い気がしてならない。遠近感の問題だ。天井高と、奥行き。蛍光灯の陰影と、音の反射や響き方・・・。スーツという服装がオフィスを引きずっているから、物理的な距離感も、精神的な距離感もちょっとつかみかねて、沈黙に耐えきれず「うん、おつかれ」なんて、つぶやいてしまう・・・。

 ・・・。

 ・・・何か、言ってよ。

 沈黙を埋めるってためだけに、また気持ち悪い理屈を延々ひねり出して、必要ない感情呼び起こして自己満足と自己嫌悪でどろどろになって、逆ギレしてそれをお前にぶつけそうだよ。それに対しても、お前が呼んだんだろなんてこじつけの屁理屈で、正当化の口実を与えてしまいそうだよ・・・。

「・・・あの、何か」

 これなら、風呂でも洗っていたほうがましだ。

 それに、物理的に綺麗になっていくものを見ていると、こっちまでそうなるみたいに、錯覚するしね。

 ・・・ああ、それでなのか。はは。

 お前にはだから必要ないんだね。這いつくばって神経質に排水口を掃除しなくても、わざわざ汚いものを見て顔をしかめながら自分の奥に共鳴するものを感じなくても、お前は元々綺麗なんだ。

「風呂でも、洗おうか」

「・・・えっ」

「あ、べ、別に何でもない。何か用事で、帰ったんだろ?わざわざ呼ぶなんて、また風呂でも、詰まったかなんて・・・」

 黒井は僕から顔を背けて斜め下を見つめ、ばつが悪そうに黙った。

 あ、もしかして、ほんとにそうだった?

 ・・・はは、何だ、そっか。

 電車じゃなく、お前の部屋で続きを読もうって、酒でも飲みながら肩を並べて同じ本を読もうって、そういう呼び出しじゃ、ないよね。

 何だよ、お前らしくないじゃん。

 「風呂がまた、詰まってさあ」って、いつものようにあっけらかんと言えばいいのに。

 僕じゃあるまいし、そこまで放っておいたことをそんなにじっとり恥じてないでさ・・・。

 ・・・。

 違う、か。

 何か、他にあるのか。

 風呂がどうとか言い出して、何も気づいてない僕に、信じられないって顔なのか。

 何だっけ、何だろう。さっきの不謹慎なひとことが漏れていた?「あ、うん」って軽い対応が不誠実だった?それとも何か、何か、他に・・・。

「あの、ごめん。何だっけ。俺何か、お前を怒らせるような・・・」

「ち、違う、よ」

「え、何、風呂のことなの?」

「・・・そ、それは、そうだけど」

「何だよ、それならそうと早く言えって・・・!」

 僕は鞄を置いて早速上着を脱ぎ、しかし黒井はうつむいたまま、か細い声を絞り出した。「・・・じぶんで、できなくて」、と。

 瞬間、どきんと心臓が跳ねて、体中の血が少し浮いた。

「い、いいんだよお前はそんなことしなくて。俺がやるから、お前は何もしなくていい。俺が、全部、やるから」

 袖のボタンを外して腕をまくり、ズボンを下ろして靴下も脱ぎ、風呂場に向かった。理屈じゃない。理屈なんてどうでもいい。たぶんお前に、あのバス停でスーツの裾をつかまれたときと同じ何かだ。

 頼られたから?

 必要とされたから?

 そんな、内面の何かを、見せてくれたから?

 だからもうそんなのどうでもいいんだ。沸き立った内側が熱い。もうそこには綺麗も汚いもない。

 風呂を、洗う、だけだ。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 ・・・自分でやろうとしていた、そうだ。

 結局僕は何もせず風呂場から出て、二人、キッチンの床に座り込んだ。

「でも、出来なくて・・・」

 土日から掃除や片づけをやろうと思っていたが、結局ずるずると出来なくて、しかし今日、ふいに僕をうちに呼ぼうと思ったらしい。

「その、返す本とかも、あるし」

 ああ、ビーグル号(下)を、置きっぱなしだったっけね。

 でも、掃除をしていないことを思い出し、一緒に帰る約束はなしにした。しかし、早く帰って掃除を済ませ、それから呼べばいいと思ったが、結局片づけられなかった。

 じゃあなぜ僕を呼んだかといえば、何だか要領を得なかった。結局僕にやらせようと思ったのかもしれない。さっきばつが悪そうにしていたのは、そのせいか。

 でも、どうしていつものように「やって」と言わなかったかといえば、先日の、<依存>のことがふいに気になったという。そして、それはただ気にするんじゃなく、お前らしい理由で。

「もうちょっとなのかもって。何か、そういうことも、あるかもって」

 ・・・もちろん、黒井が、失った何かを取り戻す話だ。

 常にそれが真ん中にあって、起こる出来事は、そこに何がしかの影響を与えるか与えないか、それだけなのだ。<依存>の意味も理屈も関係なくて、食事をした相手がインチキかどうかもどうでもよくて、黒井にとっては、その時感じていたもやもやに、少し引っかかったという話だった。

 目的ありきで、その場その場の読みとれた情報から都合よく事実を紡ぎだしていく相手側のやり口に対し(今回の相手側の目的は不明ではあるが)、黒井はそれを真に受けて翻弄されているかと思いきや、もしかして、一枚上手だったのかもしれない。こいつにとっては、何であろうと目の前のものはサイコロなのだ。

 ・・・もちろん、僕も、その一つに過ぎないんだろうけど。

 とにかく黒井は、ふいに訪れたサイコロによって、変数を変えてランダムな値をとり続けるという、予測も積み上げもないやり方で<その状態>への道を模索しているようだった。カラオケも、同窓会のような集まりと<送り狼>も、ミネラルフェアもおねえさんとの食事も、すべてはその一環・・・?

 ・・・だったら、ああ、インチキだろうが、そんなのどうでもいいわけか。相手が公正かどうかなんて、何の関係もないのか。

 ようやくその「どうでもいい」「関係ない」感じを、少しつかむことが出来た。僕は自分が正論で相手を論破したとちょっぴりほくそ笑んでいたけど、それも関係なかったんだ。その意味で、勝負は<辛勝>でもなく、黒井の一人勝ち・・・。

 ・・・じゃ、ないのか。

「自分で、やってきた、ことなのにさ。だってお前に会う前だって、俺はここで一人で住んでたんだ。そりゃお前にみたいには綺麗に出来ないけど、でも別に、出来るの出来ないのって意識するようなことでも、なかったはずなのに」

 出来ていたことがなぜか出来なくなっている感じと、<依存>というキーワードが手を取って回りだし、堂々巡りになってしまった。ほら、だから、根拠のないマイナスの感情にとらわれて動けなくなるなら、そんなのカウンセリングでも何でもない嫌がらせだ。たとえ額面通り真に受けてなくとも、お前の回路には合わないんだって・・・。

「だから、その依存ってのはさ・・・」

 僕の説明を遮って、黒井は「分かってる、だから」と言った。そしてまた顔を伏せ、「えっとね、だから・・・」と、ほんの少し苦笑いで、らしくないため息。

「あの・・・」

「何、どうしたの?」

「だから、俺・・・」

「うん」

「こ、これ・・・」

 ズボンのポケットから取り出したのは、・・・べ、ベネトンの、箱だった。

「え、えっと、それが、どうした・・・」

 分からない。お前の回路が分からない。

 黒井が立ち上がるから、僕も立った。急に下半身がパンツ一丁であることがまずい気がして、でもこのタイミングでそそくさとズボンを履くのも・・・っていうか、え、いったい何の話??

「その、お前がさ、証拠だって、くれた、じゃん」

 黒井はそう言って、カサ、とその箱を開けた。

 ・・・証拠。

 僕が黒井に対し何かを隠すのが、<依存>関係による不調の証拠だと言われ、しかしそれをひっくり返すべく開示した、不埒でセーフティな勝利の<証拠品>。

 そ、それを、でも、どうするっていうんだ・・・。

「・・・呼んだら、来たし。お前、脱ぎ出すし」

「え、ま、待てって。俺わかんないよ、ついてけてないよ!」

 掃除が出来なくて、僕にそれを頼むのも<依存>になってしまう気がして、でもそれを打ち消すアイテムがそれってこと?いや、まあ図式は分からないではないが、それを、まさか俺に使おうって・・・意味不明だよ!

 ・・・。

 勝手だ、自分勝手なやつだ、そう思った。

 でも、それでよかった。僕はそういうのが甘んじて受けたい。カッターで切り刻むより、お前に貫いてほしい・・・。

 ・・・いいよ、やっちゃって。

 ・・・じゅ、準備が、出来てないだろ!

 頭の中で走り回る僕をよそに、黒井は僕の腕を取って部屋に連れ込むと、ドアをバタンと閉じた。そして、部屋の明かりを、消した。



・・・・・・・・・・・・・・



 ついに、その時がきたのか。

 お願い、もう早くお前が欲しい。

 でも黒井はそれ以上触れてこなくて、ちょっと立ち尽くして「・・・ああ」と妙に明るい、そしてあまり色気のない声を出した。

「ね、星、見ようよ。一緒に見ようって、思ってた」

「へっ?」

 もう僕のそれはきりきりしてるのに、え、星?

 そんなの、曇ってて見えないって。それより早く、えっと、その・・・。

 黒井が電気をつけるから、僕は慌てて外に飛び出しズボンに足を突っ込んだ。馬鹿、バカバカバカ、こんなの、女の子相手ならビンタ食らってるぞ!もう、「黒井くんのばかぁっ!」って泣きながら玄関を飛び出したいけど、でも結局は出れない僕だ。

 ・・・。

 ・・・ビンタでは、ないのか?

 むしろ、ロマンティックな前戯への誘導だった・・・?

 でも、消した電気をつけちゃだめだろ。肩を抱いて暗いまま窓から星を見て、キミの方が素敵だ、とか何とか、それが正しいキザなイケメン・・・。

「ねえ、ねこ!これどうやんの?」

「は、はい!」

 駆けつけると、その手に持っていたのはあの、ホーム・プラネタリウムだった。


 黒井のサイコロ・パラメータは一分一秒更新されているらしく、今は、星の気分でいらっしゃるらしい。なるほど、過去の<勝利アイテム>より何より、今のひらめきや感情が最前面に配置されるわけね。もう、いいよ。好きなだけ振り回してくれ。

 ・・・でもまあ、僕と、見たいと言ってくれてるんだし。

 そ、それに、心と身体の準備だって出来てなかったし!

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