第208話:キャビネ前、四人の幸せ
翌、火曜の未明、また地震があった。
怖いというよりは慣れてしまって、寝ぼけていたのか、これは毎日の決まりごとなんだ、とか思ってぼんやりした。
ただ、もし今すぐ逃げるなら何を持って行くかと考え、とにかくあの石だと思った。どうして鞄なんかに入ってるんだ?指輪、いや、ネックレスに、いや、そんなアクセサリーじゃなくて、もう胸の真ん中に埋め込まれていればよくないか?
自分が爬虫類人間になったような感覚で、うろこを撫でながら寝た。朝、目覚ましが鳴る前に起きて、あれ、ふつうの人間だったんだっけ、と思った。
佐山さんと島津さんと、「また地震ありましたね」と立ち話。何だか毎日井戸端会議だ。たぶん僕がこの雰囲気になじめるのはこの二人が、特に島津さんが大人の対応をして、だらだらだべらず踏み込みすぎず、の関係を保ってくれてるからじゃないだろうか。佐山さんの体調も気遣ってくれているし、本当に頼りになる。そして、「昨日、油揚げが半額で」なんて庶民的な話題で盛り上がり、僕はどうも女々しいというよりしみったれてるんだろうか。せっかく制服女子二人に囲まれているっていうのに、僕のせいで雰囲気はお洒落なバルから地元の駄菓子屋くらいにレベルダウンしていた。「ねえ、このシールの向きがさあ」なんて黒井がふらりと現れたら、そんな話題であってもすぐバルに戻るから、やっぱり僕のせいなんだ。
ちょっとだけ四人で立ち話して、「ああ、うんうん、そうだね」って別に何があるわけでもなく解散したけど、そのほんの一分は、近年稀に見る充実感だった。
・・・だって、黒井がいて、他に二人も女性がいて、でも、さっぱり、居心地がよかったんだ!
先に僕が二人と仲良くなっていたのがよかったんだろう。黒井と女性二人、という構図に僕がのこのこ入っていける気はしない。そして当然黒井の方は妙に女性を意識して注意を引いたり遠慮したりなんてのも皆無だし、「あ、そっか!」なんていつもどおり。うん、バルというより、山小屋で何かの野生動物を観察するグループみたいなイメージ?
これが、いつまでも続けばいいのに。
居心地のいい自分の居場所が、会社にあるだなんて。
黒井とのコーヒーとかももちろんそうではあるんだけど、でもやっぱり会社では、自分のそのような好意は気色の悪い劣情なんだと思えて仕方なくなる瞬間があるし、それに比べて今回のこの四人は、もっとごくふつうでまともで安心できる場所だった。
気張らなくてもよくて、話題についていこうと必死にならなくてよくて、ファイリングについての神経質なこだわりも理解してもらえて(佐山さんはぽかんと首をひねるけど、島津さんは合理的な理解を示してくれる)、数字だ案件だと身につまされることもない。二人が派遣だというのもいいのかもしれない。お互いちょっと他人事のドライな関係でいられるし、ここでの話が同期たちに広まるとか、何やら他の社員の人間関係まで考えなくて済む。
何ていうか、いいことづくめじゃないか。
いつの間にか奇跡的にそんな環境が出来ていて、そしてそれはもちろん課長が僕にこのポジションを振ってくれたからではあるんだけど、自惚れ気味に、自分だって努力してきた、と今までを振り返った。
いっぱい、改善、してきたし。
最初はクールでちょっとよそよそしかった島津さんがよく話すようになったのは、間違いなく僕の短縮処理フローのおかげだ。佐山さんのあの事情のおかげで秘密を共有しているというのも大きいけど、その前から下地は作ってきたつもりだ。黒井と話せないかって横目でじりじりにらみながら、効率化・合理化に勤しんできた。
努力が報われて、よかったなあ俺。
梅雨が明け、夏を越え、秋になったら、佐山さんがいなくなってしまうけど。
でも、その頃自分がどうなってるかなんてことも、わからないんだし。
とにかく、今日を頑張るか。
「行ってきます」「行ってらっしゃい」で佐山さんに見送られ、ドアを開けてふと見ると島津さんにも目だけでほんの一秒見送られ、はあ、後は先に出て行ったらしい黒井にロビーでチラッとでも会えたらなあ、なんて。
・・・・・・・・・・・・・・・
ノー残、水曜日。
朝の四人の歓談タイムが四分もあり、キャビネ前が僕の天国になった。納品書のシールを貼る時つい斜めにずれるという話で、黒井と佐山さんがどうでもよさそうに笑い、僕と島津さんが気にしていた。男女別、社員・派遣別、課別、神経質・楽観主義別と様々なクロスがあって、でも固定もしないしどちらがどちらでも「そっちはそうなんだね」と相手側にも話を振るので、誰も仲間はずれにならない気持ちのよいやり取り。ああ、これが大人ってやつか。得意な話題でついまくし立てそうになるのを自制しつつ、なるべく女性を優先しつつ、でもちょっとだけ黒井とは<俺たち>でいたい、とか・・・。
別れ際、肩を叩かれ「今日・・・ね」の含んだ笑みでもうダメで、「はい」と目を伏せて自席に戻った。まったく、不倫のOLか!
水曜のノー残業・アトミク読書・デー。外回り中に少し予習したくなるのをこらえ、何とか帰社すると、横田が「そろそろ考えときますか」と。
「え、何が?」
「歓迎会でしょうよ」
「あっ」
忘れていた。カレンダーを見ると、二週間後の金曜日にそれは迫っていた。まだ慌てなくてもいいけど、目処くらいは立てるべきか。
「まあ、今週中くらいに何となく決めて、予約ですかねえ」
「そんなとこか」
日にちは決まってるのだから、あとは人数を把握して店の予約。当然飲み放題がついた、出来れば最初から一人いくらと決まってるような居酒屋がいい。誰かが頼んだ、飲み放題に入らない高い酒の割り勘を食らうのはまっぴらだ。その上時間制とかならずるずる引っ張ることもないし、帰りやすくてよくない?
「ま、新人が主役っすからね。我々の好みとかは、ねえ」
「うっ」
そ、そうか、確かに。
でもまあ、それならそれでリクエストとかがあった方が決めやすいか。
「ちょっと、リサーチ、行こうか」
「行ってらっしゃい」
「お、お前も来てよ。俺、顔分かんないよ」
「そんなん俺だって」
嫌がる横田を引っ張っておそるおそる新人の島に近寄ると、「あ、あの二人」と横田が女子二人を示した。一人はパンツスーツ、一人は上着を脱いで、グレーのスカート。何だ、女子だけはしっかり覚えてるんじゃないか。
ちょうど連れだってどこかへ行こうとするので、まるでナンパよろしく捕まえる。・・・正直あまりぱっとしないし、しかも一人は少しぽっちゃり気味だし、うん、何というか、気兼ねしなくていいかもね。
自分のことを棚に上げた失礼な思考を振り払い、さりげない会釈で通り過ぎようとする二人に横田が手を振って、「ハーイ!」と声をかけた。
「いや、今時ハーイって」
「ないね、なかったね」
女子二人は顔を見合わせて「ええ?」とくすくす笑った。丸顔の方が戸惑った笑い、ぽっちゃりの方がアハハハとテレビの観覧席みたいな笑い。
・・・しょうがない、菅野みたいのが大アタリすぎたんだ。佐山さんも島津さんも失礼を承知で中の上、いや、上の下くらい。目の前のお二人は誠に残念ながら下の上というところだけど、僕らの周りで上の上の男子なんか黒井だけだから文句を言える立場ではない。
「あの、四課の山根と、横田ですけど、今ちょっとだけ大丈夫?」
「え、はい・・・」
「今度の飲み会、っていうか歓迎会のこと、聞いてる?」
「あ、飯塚君から、聞きました」
「っていうか来れる、よね?」
「い、一応・・・」
「よかった。あの、もし何か店のリクエストとか、希望とか、あったらと思って・・・」
二人は常に顔を見合わせてうなずきあい、「あ、どうぞどうぞ」と発言権を譲り合い、まあ初々しくて緊張してるのは分かるけど、あーかったるい。しかもどうせ最後には「特にないです」とか言うんでしょ?
「えっと、やっぱり野菜とか、いいよね」
「ヘルシーなのとか」
「豚しゃぶとか・・・」
「あと私、たばことかはちょっと・・・」
「お酒は飲めないし」
「私も・・・」
・・・あっそう。
「どうもありがとう。ちょっと検討してみるよ」
「あ、いえ・・・」
横田の腕をつついてさっさときびすを返す。二人で勝手に女子会でもやってくれ!
肩を落として四課に帰る途中、前から歩いてくる黒井を発見。横田の手前、にやけたり手を振ったりも出来ないし、まあ直前で気づいたという感じで、「お、お疲れ」とすれ違うか・・・。
しかし、少し前で黒井は立ち止まり、僕に「あ、あの、悪いけど今日俺、先に帰る」と。
「あ、う、うん」
頬の筋肉は勝手に動いて、口角を上げた。オッケー、別にそんなの、何でもないよ。じゃ、また今度。おつかれー。
・・・横田がいるから、「え・・・、何で?どうしたの?」って、失望と落胆と、それをごまかしたり必死にこらえたりするような、そんな表情をさらすわけにもいかず、もっと分厚い何かで隠すしかない。何一つ動揺していない、落ち込んでいない、気にしてもいないって顔で、「じゃ、お疲れー」、横田も続いて「お疲れーっす」で、「はあ、しかしさあ・・・」なんて話題を変えながら過ぎ去るしかない・・・。
自分への失望をも隠して、「あーもうそんな店あっかな!」とネットを開き、でも目は何も見ていない。適当な裏紙に<西新宿 野菜 ヘルシー 豚しゃぶ 禁煙 飲み放題 一人○円 時間制>と羅列して、筆に任せて<なんで?>と書いていた。その後ろにクエスチョンマークがつき続け、<なんで???????>・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・
別に残業代を請求する気もないから、ノー残だけどもう19時半。
どうしてこんなに一生懸命幹事をやってるんだ?
上がってねコールのついでに課長に見られ、何も言われてないのに「店を調べてるんですよ!」「女の子たちがこんなとこがいいって・・・!」と弁解口調。もう、この女子会プランでいい?安いよ、一人三千円!
・・・そんなに安いかな。三割引で三百円になったスーパーの弁当の夕飯十日分。それが二時間で消えていくって理不尽だよな。
・・・。
ああ、僕らは、女子会プランには申し込めないのか。
「おっ、幹事殿、どっかいいとこ見つけたか?」
「はは、この、女子会プランとか」
「はあー?」
「み、みんなで、女装して行きましょう・・・」
「・・・ど、どうしちゃったの、そ、そういう趣味?」
「へへ、だ、だって、安いから」
「ああ、まあ世の中何でも、レディースデーだの何だの、なあ」
「そ、そうですよね。ほら、それに、新人さんたちのお財布にも優しいかと・・・」
「い、いや、女子会プラン、予約できんの?」
「・・・いえ」
「・・・あ、あとねえ、一応、まあ、新人さんたちの分は、わたしが持ちますから。そこはケチらず、まあどーんと」
「えっ・・・じゃあ、どどーん!と?」
「・・・いや、・・・どんっ、くらいで」
ははは、頼むよ、おい!で呆れた声を出され、しかし僕は、三千円でも七人で二万一千円・・・そんなの新しいスーツか鞄か靴が買えてしまうじゃないか、と奥歯を噛んだ。一分一秒、一滴一ミリでも節約・合理化できないか推し進めてきた僕としては、大した意味のない親睦会にそこまでの予算をかける必要性は皆無に思われた。下のロビーで立ち話でもしたら?
いくつか候補をブックマークして、いい加減「お先です」と帰ることにした。ノー残でも18時に上がることは出来ず、新人の飲み代まで出すような課長職に、十分で適切な給与が与えられていますようにと祈った、というか、そうでなければやりきれないからそうであってくれ、と願った。
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