28章:キャビネ前の四人組と、黒井の“故郷”

(会社で、居心地の良いオアシスができた)

第207話:ワールドカップの話など

 木曜日。雨。

 黒井が朝から「昨日はよく寝た?」なんて席に来て、久しぶりに、コーヒーを汲みに行った。

 もう押すボタンはアイスコーヒーで、入れるのは砂糖とクリープじゃなくガムシロップとミルク。

 佐山さんとも、課長とも、西沢や横田や島津さんや、他の人とも、爽やかに挨拶なんかしちゃって、それは結局黒井のおかげだ。

 ゆうべ、またもや言えなかった僕は、お前を裏切ってるのかもしれないけど。

 もしかして、万が一、お前はそれに気づいているかもしれないけど。

 でも、そうやって、もうわだかまりのない笑顔を向けてくれるんだ。

 「しばらく女はもういいや」って、はは、嬉しいけど、男もだめだよ?


 そして僕は、電車で座って、万が一にも落としたりしないよう、鞄の中でそっと小さな袋を撫でてみる。

 ごつごつと鋭角に尖って、硬い。

 みぞおちのあたりが、ぐうと締まって、熱くなった。

 だってこれは、僕の魔法の石だ。

 黒井にそんなこと言ったわけもないのに、あいつはこれをくれた。

 偶然の奇跡とか、信じたくなってしまう。

 もちろん、あの時の石とは色も形も違うし、今度のは僕が自分で掘り出したんじゃなく、唐突にもらったものだ。

 でも、そうだって思うし、もういいよ、とにかく嬉しいんだ。

 ・・・あいつのことが、好きでしょうがない!

 今度こそ耳鳴りがしたらあいつに優しくしてもらおうなんて、呆れて声も出ない。

 でも妄想は止まらなくて、「クロ、お願い、ねえ、痛いよ、ゆっくり・・・」なんて、膝に置いた鞄をずり上げ、しばらく降りれないね。馬鹿じゃない?


 四課の進捗は横ばいで伸び悩み、しかしぎりぎり下降もしてなくて、なぜか来月には僅かに上がりそうな見込みだった。

 それから、新人たちが<Z>の発掘をやっていて、いくつか浮上しそうだとのこと。ふむ、その辺のリスト整理も僕がやらなきゃな。

 ZというのはZランクの顧客ということで、つまり、音信不通の休眠客だ。

 とっくに他社のシステムに乗り換えたか、会社自体が潰れているか、あるいはアップデートもせず細々とDos版を使い続けているか・・・。

 新人たちがダメ元でローラー作戦をかけるわけだが、そういえば僕も一社拾い上げたことがあったっけ。確か日本・・・鳩・・・協会?出向いてみたら団地の一室だった記憶が今蘇ったが、いったいどこから何の収入があって存続してるのか分からないけど、世の中には実に様々な団体があるものだと感心したのを覚えている。あれはちょっと楽しかったな。本当に会社か?って路地裏や、離れの一区画や、プレハブを回ったりして、ちょっとした非日常体験だった。気分は通報があった警らの巡査またはFBIで、なぜ突然そこに業務用冷蔵庫があるのかって、中を覗きたくてうずうずしてたっけ・・・。

 ・・・はやく、アトミクを、やりたいな。

 何らかの形で世の中に貢献しようなどとはこれっぽっちも思ってないけど、鳩だかカピバラだかの団体が活動していけるなら、僕たちもせめてマンションの一室で活動していけないかな。もちろんお前の顔を会報なんかに載せちゃえばファンクラブが出来ちゃいそうだけど、だめだめ、そういう不埒なのは禁止だよ。僕なんか並んで写ったってマネージャーにしか見られないだろうけど、いつか、ちゃんと二人で、写真にだって収まりたい。

 ・・・いつか本当に、セルンだって見に行こうよ。

 有給消化なんかじゃなく、れっきとした取材旅行で、経費使って、カメラ片手に。

 お前のドイツ語だけが頼りだよ。僕は海外ドラマの英語だってついていけないし、発音なんてもってのほかだし、英語字幕でぼんやり雰囲気を読めるくらいだ。うん、フランス語は完全に無理だろうが英語だけでも、もう少し慣れておくか。また何かドラマを観始めようかな。

 体力も、つけようか。

 課長にひょろいなんて言われていられない。

 まあ鍛えたってムキムキになる気もしないけど、せめて、すぐ足がつらないくらいには・・・。

 黒井とするとき、つるのは困るしね・・・って、ああ、頭のネジがまた馬鹿になってるね。


 帰り、雨は上がって満月が見えた。昨日だったら黒井と見れたのに、と思った。



・・・・・・・・・・・・・・・


 

 週末。

 ようやく晴れたので洗濯物を干し、家事をいろいろ済ませた。

 通販で圧力鍋を買おうとしてクレジットカードの番号を入力し、ローマ字表記がまだ「HIROFUMI」だったことに気がついた。アマゾンだと登録しっぱなしだからそのまま頼んじゃうけど、新しいサイトだと一から入力するから、ようやく気づいた・・・。

 変更手続きが面倒だなあ、と思った、が。

 今僕の手元には、ヒロフミ名義のクレジットカード、旧給与口座のキャッシュカード、他もろもろのポイントカードや会員カード、そして、コウジ名義のみずほ銀行キャッシュカードが一枚。

 これって、何だか、まずいんじゃないだろうか。

 ほんの、会社の名刺とログイン画面だけ、芸名感覚で変えてみたかっただけなんだけど。

 犯罪というわけじゃないだろうが、ポイントカードとかはともかく銀行口座はまずいような気がした。振り込め詐欺とかもあるし、一人で違う名前の口座をいくつも持ってるなんて、怪しまれるかも。

 変更の際に妙に勘ぐられるより、いっそみずほで統一しちゃおうか。

 このカードにクレジット機能もつけて、一本化。

 ああ、そしたら、家賃と水道光熱費、ネット代、携帯代もそこからの引き落としにしなくちゃだめか。

 もろもろのポイントカードはフリガナ表記があるものだけ捨てちゃって、よく使うツタヤだけ、更新のときにまた書かされるから、作り直そう。

 ああ、あとは会社のストックオプションだとかの証券口座もあるんだけど、配当なんかありそうもないし、ええっと、あとは年金手帳とか?それは会社でやってくれたのかな。パスポートは最初から持ってないから問題なし。住民票は、前何かで取ったやつを見たらフリガナがついてなかったから助かった。

 名前が変わるって、面倒だな・・・!

 結婚したら、女の人はこんだけやらなきゃいけないのか。

 さて、いったいどこから手をつけたものか。まずは旧口座から全額みずほに移して、ああ、定期預金も満期じゃないけど解約して、それから不動産管理会社に連絡して・・・。



・・・・・・・・・・・・・・・



 結果的に、婚姻による氏の変更より、改名などという手続きの方がよほど面倒なのかと痛感した。

 会社の人事の人は、もしかして僕を占いにはまったアブない人などと思ってるんじゃなく、思いっきり面倒をかけやがっていったい何なんだ、と怒っていたのかもしれない。

 厄介だったのは不動産管理会社で、小さい会社だったから頭の固いジイさんがいつまでも「はあ?」とつっこんできて、挙句、「ヒロフミからコウジに口座変更?あのね、男同士の同棲は遠慮してもらってるんだけど!」などと言われ、もう引っ越してやろうかと思った。だから、「もうそんなことなら更新しませんけど、しかもこっちは家賃をきちんと払いたくて申し出てるんですけど、振り込まれなくていいんですか!」とちょっと怒鳴ったら、しぶしぶ食い下がった。

 ・・・っていうか、男同士NG物件とかあるのか。危ない危ない。


 あとは平日、外回りがてら旧口座の窓口に出向いて全部解約するだけだ。解約だけならこんな面倒はないだろう。そして、またあのみずほに行って、クレジット機能を追加してもらう・・・。

 ・・・在籍確認、か。

 まあこれは別に大丈夫だろう。会社の誰も僕の下の名前の読みなんて気にしない、というか知らないだろうし、っていうかそもそも苗字しか知らないか。山根姓が二人いたら下の名前で区別されてただろうが、いなくてよかった。

 

 日曜の夜、<また水曜、本読みながら一緒に帰らない?>とメールが来て、小躍り。

 もう、そんなの、いくらでも。

 っていうか今までだってずっと、ずーっと、本は鞄に入ってたんだよ。

 いつまた続きを一緒に読めるかって、待ってたんだから。

 こんなに嬉しくてその場で足踏みするほどなのに、メールの返信は<そうだね、そうしよう>・・・、くそっ、もうちょっとないのかよ。


 昨日から始めたスクワット十回も颯爽とこなし、カレンダーに丸をつける。いや、十回ってのは序の口だよ。来週は十五回、再来週は二十回だ。来週は二十回と言わないところが僕であって、まあ、勢いより地道な継続だよね。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 六月十六日、月曜日。

 早朝に地震があって、少しだけ起きた。カラスが鳴いていて、黒井とマンガ喫茶で過ごした夜のことを思い出した。あれからもう一ヶ月以上経つのか。


 昨日からやけに騒がしいと思ってたけど、職場はサッカーの話題一色だった。

 日本戦が、あったらしい。ワールドカップ?ふうん、あっそう。

 キャビネの前で定例会議のごとく佐山さんと島津さんが集ったら、開口一番「山根さんはサッカーファンですか?」と。全然知らない、興味ないと答えると、島津さんに微笑まれ、また絆が深まった。男としてはどうかと思うけど、あんな球蹴ったって何が面白いんだか。いいよ、どうせ運痴の遠吠えだよ。

 ジュラルミンの内線が鳴って、またふらりと黒犬がついてきた。

 胸が高鳴ってにやけちゃうけど、「ねえサッカー見た?」と訊かれ、「見てない」と即答して目が据わる。しかし、「へへ、俺も」と微笑まれ、するのは好きだけど見るのはどうでもいいとのこと。っていうかお前んちテレビないじゃないか。そしてそれから、するのは好きでもやりたくはないと。うん、何だそれ?

「だめなんだよねー、何か、突っ走っちゃって」

「え?」

「ほら、チームプレイとか、俺パスとか出さないで突っ込んじゃうからさ。あれ、サッカーも3on3くらいでいいのにね」

 ああ、つまり、サッカーという行為自体は好きだけど、実際イレブンではやりたくないと。

 バッティングは嫌いじゃないけど、野球に(も)興味がない僕みたいな?

 っていうか、当然かっこよくドリブルしてゴールなんか決めて、黄色い声援を浴びてきたんでしょうね。他にもきっと、バスケだろうが水泳だろうが、苦もなくお出来になったんでしょうね!思春期くらいの若い黒井少年の、「俺何でも出来るし!」って生意気な顔が浮かぶ気がした。そして、その水泳パンツとかを思い浮かべて、おい、おい、俺!そりゃ好きな人の子ども時代なんてちょっとドキドキで見てみたいものだけど、今、不純を通り越して猥褻という文字が通らなかったか?同性の黒井を好きという意味でジェンダー的にホモ・セクシュアルと分類されても仕方のない僕だけど(それでも黒井限定だから気持ち的には違うんだけど!)、しかし、断じてロリコンだの、ショタコン?だのそんな趣味はない!!

 ・・・。

 っていうか、別に「俺は違うから!」なんてわめいてみても、目くそ鼻くそだったりするか。ロリコンの人からすれば「おれはホモじゃないし!」って言いたいだろうし。

「・・・ってねえ聞いてる?」

「えっ、き、き、聞いてる、うそ聞いてない」

「まさか、聞こえてないわけじゃないよね」

「え・・・」

 前を歩いていた黒井が振り向いて立ち止まり、その左手を、すっと僕の右耳に軽くかざした。

 一瞬、ほんの一瞬、周りの音がなくなった気がして、でもすぐに朝の喧騒に包まれた。

 少し複雑な表情をして黒井は前に向き直り、僕もジュラルミンを持ってそれに続く。

 後ろめたさで、大丈夫だの、びっくりしただの、何も言えなかった。

 そのシャツの背中にすがりつきたくなるけど、結局、見てるだけ。

 でも、こんな間近でそれを見ていられるだけで、嬉しかった。

 そして、ここにいるのが黒井少年じゃなく、三十歳の黒井で、その背中で、よかったと思った。


 外回りだか銀行回りだか分からないことをして昼。

 マックでもそういえばワールドカップにちなんだメニューをやっていて、何一つ知らないけど、せっかくだからドイツのバーガーを選んだ。興味はないけど、黒井とドイツを応援するならちょっといい気がした。そして、あいつがパスも回さず突っ込んだ校庭が日本のそれじゃなくドイツだったらと思ったら、わけもなく緊張した。欧米というだけで無条件に出てくるひがみ根性というか、盲目的になるのもどうかと思うけどね。

 

 帰社して、西沢が何だか上から目線のコートジボワール戦解説をしてくるから、「僕はドイツが気になるので」と、ぴしゃりと言ってやった。いや、選手の一人も知らないけどさ。しかし西沢もそこまで詳しくはなかったらしく「へえ、なるほどねえ!」などと言って黙ったので助かった。まあ、明日にはにわか知識をかき集めて来られそうで嫌だけど。

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