第206話:八十点の自己分析
最初はおねえさんに不戦勝、などと思ったが、とんだ辛勝だった。
いや、まだか。もらった名刺を見ながら、「もう一回会ってちゃんと話そうかな」なんて、しかしもう説得するのが疲れた・・・!
「うそうそ、行かないよ。別に、今でも、勧誘だとか買わせるとか、そういうんじゃなかったと思うけどさ。でも、確かになんかおかしかったし、お前の言うとおりだったんだ」
改札を通って、黒井は、結婚詐欺じゃなかったけど、と笑った。
「だって、あなたは結婚しないでしょうねって会ってすぐ言われたんだ。そりゃそうですよって、ああ、それで俺最初から信じちゃったのかな」
「え、向いてない、とかじゃなくて?」
っていうかお前、結婚願望は薄いみたいだけど、「そりゃそうですよ」って何だよ・・・?
「ううん、はっきり、出来ないってさ」
「それはまたずいぶんと失礼だな。ああ、きっとまず、お前が怒りっぽい人間かどうかとか試したのか。それに結婚観とか育った家庭環境とか、いろいろ把握する手がかりになるし」
「ふうん。お前何でも知ってるね。詐欺師?」
「ぷっ、まったく人聞きの悪い。全部、培った知識の受け売りだよ、ミステリの」
尋問、裁判、カルト宗教、サイコキラー・・・その他ライトな庶民的ミステリだって、言葉一つで相手の心理を操作するのは見所の一つだ。まあ、読んでるだけのインドア派の僕は、こんな勧誘を受けてその知識を試す機会もなかったわけだけど。
電車に乗って、いろいろなことが頭をぐるぐる回って、うまく喋れなかった。
朝からいろんなことがあって、本当に、長い一日だ・・・。
桜上水で「それじゃ」と言われて、「俺も降りるよ」と降りてしまうくらい、僕はもういろいろと混乱している・・・。
「の、喉が、渇いてさ」
「買ってきてやるよ」
「ご、ごめん、ちょっと座らせて・・・」
黒井が買ってきたアクエリアスを一気に半分くらい飲んで、息をついた。頭の芯がまだぼうっとしている。検事も弁護士も向いてないようだ。やっぱり無口な鑑識が一番・・・。
「でも何か、楽しかったよ俺。どうなるか全然わかんなくて、怖かったけど、スリリングで」
「・・・あ、そう、よかったね・・・」
「お前も、何かかっこよかったし」
「・・・っ、はあ?」
「ねえ、これは、どうしたらいいの?」
黒井は薬局のビニールをぶらぶらさせ、にやにやと笑った。
「ど、どうって、使い方知ってるだろ」
「はは、そんで、お前に使えばいいの?」
「はっ?な、何が?」
「俺に、使ってほしくて買ったんでしょ?」
「いや、だから、・・・お前が、チャンスがどうとか、何事もチャレンジだとか、言ってたからだろ・・・!」
「ああ、まあね。全然なかったけど」
「うん、だから、取っとけって」
「俺あんまし好きじゃないんだけど」
「だ、だめだめ、こういうのはちゃんとしないと・・・って何の話だよまったく。・・・ああ、その、そういえば佐山さんのことだけど」
こんな話で思い出すのも失礼だが、言っておくべきことがまだあったんだった。
「・・・うん?」
「結婚は、しないかもしれない、みたいだから、そういうの、言わないように」
「え、そうなの?・・・ふうん、それがいいんじゃない?」
「な、何でそんなこと言うんだよ」
「だってそんなのしたって、きっと面白くない」
「お前はそうかもしれないけど、みんながみんなそうってわけじゃ」
「お前はしたいの?」
「・・・べ、別に、したいかどうかとか、以前の、話だ」
「じゃあさ、それなら俺と・・・」
そして、横に立っていた黒井が、僕の右隣に座った。
・・・な、何を、言い出すんだ。
しかし、後に続く「おなじだね」って一言は、<ぶうん>の音にかき消されて、よく聞こえなかった。
・・・・・・・・・・・・・
LED蛍光灯のはずなのに、去年つけたばかりなのに、キッチンの明かりがチラついて、視界がじらじらした。
昼も夜も食べてなくて、でも空腹で逆に、食べられなかった。
水道の水を一口含んで、吐き出す。
一瞬吐き気がこみ上げるけど、出すものなんかないはずだし。
無理やり何か食べようと思うけど、体は動かないし、口も受け付けなかった。
結局、歯を磨いて、布団に入った。
「泊まってけばいいじゃん」なんて、言われたのに。
ただその場のノリじゃなくて、そこにはどことなく、今日はそうしてほしいよって色が、あったのに。
ちょっと今日は寝たいから、って言ったら、「ん、俺とでしょ?」。
じゃ、じゃあ寝ない!って言ったら、「大丈夫、寝かさないよ」・・・。
何となく分かる。そんなふうにおどけるのは、別に本気なんかじゃないってこと。
どうにも人恋しくて、怖い夢を見た後みたいに、ちょっと一緒にいてほしかったってこと。
帰宅して、もう義務だと自分に課して、耳鳴りのことをネットで調べた。
ぱーっとスクロールして、目を逸らしながら、でも、有用なことはほとんど書いていなかった。ごくふつうのキーンとしたもの、あるいは静寂すぎて張り詰めているようなものの他に、意外とたくさんの種類があるようだったが、まさにこれだというものは見つからなかった。
ただ、寝入り端に大きな破裂音がして眠れないなんて記述があって、僕もキッチンや玄関で花瓶が落ちるような音はよくしてるから(花瓶なんてないし、宅配便の男が上がりこんでいるというリアルな気配つきだが)、ああ、あれはこれだったのかと思った。精神を病んでいるのでもないし、あの世や何とか界のビジョンでもないし、ただ脳みそやどこかの器官のちょっとした処理ズレだ。精神世界だとかスピリチュアルだなんて、ミステリの題材としては面白いけど、理屈と論理と科学捜査にどっぷりはまった僕には毛嫌いする敵でしかない。そうだ、僕は物理学だってかじってるんだ。まさに正反対、対極じゃないか。あいつだってそのはずなのに、元々理系の話がしたかったと言ってたのに、何であんな気持ち悪い理屈、いや理屈以前の当てずっぽうにとらわれてしまったのやら・・・。
・・・原子は、実在を疑わせる存在なのです、・・・か。
全宇宙をつつむブラックホールがあれば、その表面に記述されるホログラム・コードは、その内面のすべてを記したまさに宇宙のアカシック・レコードといえる・・・。
詭弁だ。
たとえ科学がそんなことを保証したって、「あなたのそれもまさに同じことで」なんて、聞きたくもない理屈をこねられる必要はない。見たい人だけで見たいものを見ててくれ。使いたい言葉を勝手に変換して選んでないで、本当に科学なら数式だけで言ってみろ。そんなものは誰の共感も得られなくて信者も集まらないだろうよ。結局は人の心をつかむかどうか、その先に金があるかどうかじゃないか。そんなの科学とは一切何の関係もない・・・。
・・・詭弁、だ。
結局は、人の心。
理屈以前の、問題。
どうしてまたしても、今度こそ、今耳鳴りがしたんだって、言えなかったのか・・・。
言い出すタイミングが・・・とか、言ったって何が出来るわけじゃないとか、そういう、問題じゃない。
あの時、ホームでのことを、思い出してみた。
最初は、雨風の音かなって、思ったんだ。
それで一瞬出遅れて、結局タイミングを逸した・・・。
・・・違う、か。
雨の音かって思ったのは、たぶん、ほんの一瞬後だ。
その前から分かってた。あの時とまったく同じ、震えるような音。USBで動く小型の扇風機みたいな、細長いふせんをぱらぱらっと速くめくったような感じ。
それが二秒くらい続く間、雨の音だって自分にごまかす前、僕は何を考えた・・・?
暗闇を見つめて、思い出す。
あの直前、まさか、「なら俺と、・・・結婚しよう」とか言われるんじゃないかって馬鹿な妄想でお花畑にいて、そしてお前の答えとともに<ぶうん>が来て、とっさに、隠さなきゃって思った・・・。
何で?
でも確かに僕は、自分にすらそれをごまかして、知らんぷりで、もみ消そうとした。
それはまるで、友達や女の子とちょっといい感じで喋れてるときに、親からの着信を「ううん、何でもない!」って電源を切ってしまうような。
・・・じゃあ、自分の不調より黒井と話すのを優先した?
黒井がちょっと、突発的出来事のおかげでふわふわと無防備で、僕にとって嬉しいせりふが聞けるんじゃないかって、その方が大事だった?
でも、会話を優先したってわけじゃ、ない気がした。
いちゃいちゃと触れ合ったり、もっと深い関係を望むなら、むしろ、僕はこれを利用することも出来た。
ここぞとばかりに甘えて、優しくしてほしいってねだって、今頃、あのベネトンの出番が来ていたかも。性懲りもなくそのイメージだけであれが上向くけど、でも、そういう気が回らなかった愚鈍な僕を責める気持ちにはならなかった。
黒井の甘いにおいを遮って、最初のイメージに立ち返る。
その瞬間の、最初の感情。
隠すって、何から、何を、何のために?
いや、理屈じゃない、感情を見るんだ。それは明るい?暗い?さみしい?恥ずかしい・・・?
・・・。
あえて言えば、それは、後ろぐらい、だった。
あの、ダンボールで指をすぱっと切ったときと、根は同じ。
こんなもの見られちゃいけない、悟られちゃいけない、隠さなきゃ・・・。
汚い、と、思ってる?
いや、血は汚いかもしれないけど、耳鳴りは外から見えないし、汚い、はちょっと違うだろう。
こいつ病気だ、エンガチョ!ってされるって、恐れてる?
でも指を切って病気ってことはないし、ああ、でも血から感染するって思われる?いったい僕はどんな病気持ちって設定なんだ?
でも、どちらにしても、別に病気でいじめられたトラウマなんかないし、そもそもいつも我慢してたからみんなに気づかれる頻度だって少なかった・・・。
・・・我慢してた?
いったいいつから?何を?
わからない。
別に、病院に通ってたことなんかないし、処方箋を飲んでたこともない。
入院とかももちろんないし、大きな怪我だってしたことない・・・。
あるとしたら、せいぜい頭痛とか、風邪とか?
急に鼻血が出たりとか、でも子どものときはたまにあるものだろう。
そういえば夏、校庭で朝礼中に熱射病で倒れることはあった。今は<熱中症>っていうけど、あの頃はまだ、そういう子はひ弱な子で、水を飲むなんて休み時間まで我慢しなさいという風潮だった・・・。
僕はどちらかといえば、ひ弱な子だったな。
体育も苦手で、ちょうど今日課長にも言われたように、ひょろくて。
背ばっかり早めに伸びたから、余計そういう印象で。
子どもの頃大きくなって、今もずっとそのままという感じだ。中学の途中からどんどん追いつかれ、追い越されていって、そういうやつらの方ががらっと印象が変わって、何ていうか、そいつらは男になって、大人になっていった。僕はちょっと早熟で最初から冷めていて、ああ、みんなを見下してたのは小学一年の時からか。馬鹿な男子にもなじめず、だからって女の子にも話しかけられず、結局暗めで大人しそうなやつとつるむしかなかった。いや、向こうだってそう思ってただろうけどさ。
高校の、途中からだろう。
そういえば何でかな、誰ともつるまなくても、別によくなったんだ。
いや、表面的には、もちろんあの藤井みたいに強くはなくて、孤高になりきれたりはしなかったけど。
ただ、どこかで吹っ切れたというか、何かがあって・・・。
ああ、きっとミステリにすっ転んだからだ。
それまでも読書は好きだったけど、好きな作家やジャンルが決まってるわけでもなく、ゲームの合間に読むくらいだった。
でも確か高二くらいから急激にはまって、友達や勉強や、他のことはわりとどうでもよくなったんだ。本を買ったレシートを溜めていて、二日か三日に一冊は買ってたからすぐ百枚くらいいったりして。今思えば大半はブームに任せた薄い内容だったかもしれないけど、夏休みなんかも毎日夜中まで読んでたっけ・・・。
・・・何の話だ?
・・・だから、どうして耳鳴りを隠したのかって。
え、そんなの、みんなと違うって思われたら、仲間に入れてもらえなくなるからじゃないの?
・・・違うか。
僕の中身なんか気持ち悪いから、皆様にお見せするなんて憚られるって話でしょ?
・・・そうなの?
それらは限りなく真実の中心に近い気はするけど、上から見ればほとんど円の真ん中くらいに突き刺さってるんだけど、でも横から見たらそれは漏斗の形で、真ん中は地下深く潜ってるから実は位置が全然違う。それはブラックホールの特異点みたいな異次元具合で、たぶん、僕が僕に頑なに隠してる何かは、「はあ?」というような真実なんだろう。
黒井のことが好きだと気づいた時みたいな。
黒井とヤりたい自分を認めた時みたいな。
眠りに落ちる前の最後のまともな思考で出した結論は、無難な八十点の答えで、一、黒井に嫌われたくなかった(言わない方が嫌われると分かっていても)、二、それ以上の自己欺瞞があるが今は見たくないらしい、以上、だった。
その後のゆらゆらした、まともでない思考が紡ぎ出したのは、まあいつものように、醜悪な死体だった。
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