第231話:ミドリの船と、鉛筆
もう、あと一日だと踏ん張って、金曜日を終えた。
昨日、例の情報漏えい事件の犯人が逮捕され、下請けの男が名簿を業者に売っていたことが明らかになり、ニュースはそれ一色。でも、こんなこと、大手通販業者だろうが銀行だろうが携帯電話会社だろうが、いつものことじゃないの?
とにかく入れ子の件も行程表の件も、時が過ぎれば忘れ去られ、何でもなくなっていく、と信じた。今は例の請書が発覚しませんようにと願いながら、他のうっかりをやらないよう気をつけるだけだ。
明日から、連休だし。
すっかり暑くなって夏らしくなり、熱帯夜で眠れない。そうめんだけじゃ物足りないけど食べたいものもなくて、水をがぶ飲みしてぐったり汗をかきながら寝た。疲れていたらしい。
土曜日。
昨日食べきれなかったそうめんをすすり、洗濯機を回して昼過ぎ。
・・・電話、しちゃおうかな。
ミスの落ち込みや、ノー残で黒井がどこかへ行ってたことで自信がなくなったりもしてたけど、結局・・・。
あいつが、好きだ。
性懲りもなく、こんなどうしようもない僕なのに、あいつを好きでいる。情けなくてかっこ悪くて、会社でも堂々と話せないくらいなのに、それでも、好きなんだ。
受け止めてやるよ、なんて、言ってくれたから。
僕は先々週のそんな言葉にすがってるけど、お前はもう、すっかり先に行ってるかな。
「・・・はい」
「あ、もしもし?」
「う、うん。どしたの?」
「あ、ごめん。もしかして外?」
「うん、ちょっと、ね」
「・・・えっと、連休、会うとか言ってたからさ、どうするかなって、思って」
「うん。そう、だな、今日と明日はだめ、かも。月曜日は、きっと、大丈夫」
「・・・そ、っか。分かった。じゃあまた、月曜に」
「うん。またね」
「うん。それじゃ」
・・・ツー、ツー、ツー。
・・・。
何も考えられなくて、また寝た。本当に疲れていたのか、よく、寝た。
・・・・・・・・・・
胸焼けのような、また、吐き気のような。
もういいって思ったはずなのに、ミスのことも延々思い返したりして。どうしてればよくて、本当はどうであって、ここがこうだったらこうはならなかったのに、とか、検事と弁護士と被告人と裁判官でひたすらやりあって、起きてもまだ疲れていた。
起きあがって水を飲み、もう吐いてしまいたかったけど何も出てこない。腹が痛いのかとトイレに入っても、やっぱり何も出てこない。
結局どの件も、きっちり判決が言い渡されて一事不再理になってはくれなくて、胸や腹に溜まっていくだけみたいだった。
・・・何となく、抜くことも出来なくて。
どこからもそれは出て行かなくて、ただ気持ち悪かった。胸のつかえがだんだん痛みになってきて、ちょっと、こらえきれなくなった。
軽いパニックに陥り、薄暗い部屋をうろうろして、押入れをひったくってあの写真と、封筒を引っ張りだした。そして鞄から<魔法の石>を取り出す。それを握りしめ、手のひらに鋭い痛みを感じて、ようやく、道が見えた。
・・・また、泣きたかったんだ。
情けない自分が嫌で、こんななのにお前を好きでいることが恥ずかしくて、でも止められなくて、今日はお前は駆けつけてはくれないけど、一人で泣くよと思って、泣いた。
自分の声を聞くのが嫌で、コンポにイヤホンを繋ぎ、<リチウム>を大音量でかけた。
ほんとに、嫌だ。
自分が、どうしようもなく、恥ずかしい存在に思える。
こんな俺が、お前のことを好きだなんて、世界中の人間から後ろ指をさされそうだ。その通りだと思うし、そうされたらおとなしく穴蔵に引っ込むつもりではいる。だって、だって誰がこんな僕のことを?ねえ、いったい、世界中のいったい誰が??
支店の確認すら出来なくて、自分からダブルチェックしてくれとも言い出せなくて、つまらない自尊心で大橋にも噛みついたりして、そのくせ文句だけは後から後から出てくる。僕だって本当は、どれだけ理屈を積んだってデキるわけでもなくて、あんたみたいな小男でこそないけど、器なんか同じくらいちっちゃくて歪んでるんだ。
っていうか、背だって、こんなに伸びなくてよかったのに。
小学校の頃、ずっと、後ろから数えた方が早かった。
でも、体育は苦手だし、ただ走るだけの短距離走ならちょっと速かったけど、それもどんどん抜かされていって。
リレーの選手でもなくなって。
大きくて目立つのが嫌で、だんだん猫背になり、前髪も後ろから持ってきて、顔を隠すようになった。朝、母親に「うっとうしいわね」とかき上げられるのが死ぬほど嫌で、家を出た瞬間そうするようになった。
世界に、自分の存在を晒しているのが嫌で。
背と同じだけプライドも高くて、自分より小さいやつに抜かされるのが嫌で、でもそれを防ぐことは出来なくて。
いや、防ぐ努力も特にしなくて。
だから仕方ないんだ。仕方ない、仕方ない・・・。
薄暗くなった部屋で床に転がって、泣き疲れて、音量を少し絞った。僕の抜け殻の布団には僕の死体が転がっているような気がして、じいっと見ていたら黄昏にどんどん紛れていって、気持ちも落ち着いた。何も見えないのは落ち着く。死体があればなおさらに。
猛烈に、死体の出てくる上質な海外ドラマが見たくなって、でもツタヤまで行く気もしなくて、頭の中で勝手に上演した。コメディータッチでもサスペンスタッチでもなく、ただ淡々と、死体を見つけ、証拠を見つけ、もう犯人なんていなくたっていいんだ。爪の間の肉片をピンセットで取って、飛び出た骨の部位と鬱血の箇所から、落下の位置を推測して・・・。
・・・・・・・・・・・・・
「おい、おい、開けろ!」
野太い声が狭い廊下に反響する。苛立ちと軽蔑が混ざったそれは、威嚇するように張り上げられた。
「その首はいつものへんちくりんじゃねえぞ!どこのホトケか知らねえが、そんなもんとっとと返してこい!面倒になったらどうすんだ!!」
ドンドンドン、と扉が壊れそうな勢いで叩かれ、何人かが増えたような足音。ミドリは「人間の頭が半透明に消えますか!」と叫ぶが、音にかき消される。ガタガタと揺らされてずれてくる木箱の手前に樽を追加し、ああ、そんなことより早くスケッチしなくては。
それを持つ手は、やはり震えた。自分でああは言ったものの、やはりその重みが、首から下のない生首だという認識が、否応なく手を震えさせていた。
・・・いや、たぶん、本物の生首よりは、軽いんだ。
その違和感、というよりも、それを推し測ろうと想像をめぐらす行為によって、手の力が抜けそうだった。考えるな、いや、考えるだけなら消失は起こらない、考えろ、この生首然とした物体のアウトラインを想定し、あたりをつけて観察のポイントを絞り、観測時間を最小におさえるんだ。
銀色のバットにそれを載せ、秤で重さを計る。針は目盛りの赤い印でぴたりと止まった。やはりこれは生首なんかじゃない。何かの生き物の一部分じゃなく、元々この形の、この質量のモノなんだ。どこも欠損していない。再び扉を叩かれて針が揺れ、ミドリは秤からそれを降ろし、扉に向かった。
「人の首だと思うなら、まず先生を呼ぶべきでしょう!渡すなら先生に渡します!」
「お前の言うことを聞く義務はねえよ。ただ、何かあったらお前の責任だからな!」
最後にちょうどを顔のあたりをドン!と叩かれ、思わずのけぞり、ため息をついた。
・・・・・・・・・・・・・・
断片的なイメージだけで、第一幕も第二幕もないな、と苦笑い。こんな僕が本当に<コペンハーゲン>を作れるだろうか?
プロット会議のノートを開いて、黒井が描いた犬と猫の落書きが目に入り、胸がきゅうんとなった。あいつの演劇を観るとなるとこそばゆくてどうにも覚悟が決まらないけど、文字とか絵とか、そういうものならどんなものでも見てみたい。あいつの脳みそに浮かんだイメージが腕を伝い指とペンに伝い、そんなのってうっとりする。血管が浮いた手の甲と、いつも少し爪の長い指を思い出して、しかし、黒井はどんな風にペンを握るっけな、今度見ておかなくちゃ、と思った。
黒井が僕にくれた文字やカタチや石の立体なんかを眺めて、今日と明日は振られてしまったけど、それでも僕は幸せだった。泣いたことと、デスクトップにメモ帳を一つ増やしたことは僕をフラットに戻すことにおいて有効だったようだ。それが分かったことにも満足し、ベーコンと目玉焼きを焼いて食べた。
・・・・・・・・・・・・・・・・
七月二十日、日曜日。
昼間は買い物や家事を済ませ、チキンライスを食べた後は、ネットで手土産のことを検索して過ごした。これを買えば間違いはないというような、とらやの羊羹みたいなものはいくつかあったけれど、しかし、如何せん向こうのお宅の情報が少なすぎて、どれも決め手に欠けた。お母様の好みは?集まっているであろう親戚の人数は?
そういったことを黒井に訊こうかとも思ったけど、「クロは今日、何してるんだろね」とつぶやくにとどめた。こないだと違って気持ちがざわつくことはなく、ただ、黒井が幸せに過ごしていればいいと思った。
夕方、雲行きが怪しくなってきて、遠くでごろごろと雷鳴。暗くなってからはずっと空が切れかけの電球みたいにひかひかと瞬いていた。時折、鋭い稲妻も。
パスタを茹でていると、電話。
思わず頬がゆるんで、アルデンテなんかもうどうでもいい。クロ、好きだ、クロ!
「も、もしもし!」
「ああーー、ねこ?はは、ふられた」
「え?なに?」
電話の向こうの黒井はあはははと乾いた笑い。そして雨と雷の音。外で、歩いてるのか?
・・・っていうか、振られた?黒井が?まさか。
「あはは、こんなことになるとはね!ひどい目にあった!」
「ど、どうした?」
「派手にやられたよ、まったく!」
「え?なに?何が?」
「降るなんて言ってた?こんな、雷?」
「え?・・・あ、まあ、大気の状態が不安定とか」
「あっそう!ああ、それで、明日だけど・・・ひっ」
少しの時差で、低い轟音が響いた。都心はどしゃ降りなのか。黒井は「ひやあー」などとわめいて、しかしまあ楽しんでいるんだろう。本当にやばい時はこんな大太鼓みたいな音じゃなく、カリカリと乾いた、裂けるような音がする。
「こんちくしょー、パンツん中までずぶ濡れ!」
「お、おい、公道で破廉恥なことを叫ぶなよ。傘はないのか?どっかで雨宿りでも・・・」
「もういいよ、もうだめなの、おんなじ!あーあ、もったいない」
「・・・はあ?」
「いいの、何でもない!もうすぐうち着く。じゃあね!」
「え、あ、明日は?」
「ああ、俺の気が向いたときにお前んち行くから、出かけないで、鍵もかけないで!」
「は、はい!」
切れるかな、と思って電話を耳から離そうとしていると、沈黙、ガサガサいう音、「あ、どうも、こんばんは・・・」と、<振られた>ならぬ<降られた>黒井のちょっと自嘲気味の挨拶の声。何だか盗み聞きのようで妙にこそばゆい。
ほどなくして唐突に電話は切れた。
にやにやしてしまう顔を止めることも出来ないまま風呂に入るが、明日黒井が来るならもう少しマシな食料が要る、出かけられないなら買い物に行けないぞ、と、急いで上がって雨の中飛び出した。黒井と同じになるならそれもいい、と、雷の中を走った。
・・・・・・・・・・・・・・・
月曜日、祝日。
じりじりしながら、トイレや洗面台を掃除して髭を剃って部屋を片づけて、しまいには写経をして過ごした。そして、思い出して、昨日買ってきた鉛筆を削った。
スーパーの文房具売り場の、安っぽいスケッチブックと、箱入りの一ダースの鉛筆。
もうナイフはないけど、せめてカッターで削ろう。
会社のアスクルとかの軽いやつじゃなくて、いったいいつ買ったのか、年季の入った古いカッターだ。刃も全然替えてないのに、思い出せる限りこれ以外のカッターを使ったことがない。
カチカチカチ、と刃を出して、六角の鉛筆を少しずつ削る。表面のコーティング部分より木を削る方がやはり心地いい。六角なんだからうまいことコーティング部分を波模様に仕上げたいけど、全部のバランスを取るのは何だかルービックキューブみたいにあちらを立てればこちらが立たずで・・・。
「よう!!おい、来たよ!」
ドアが勢いよく開いて、出迎えに立ち上がるより先に黒井がさっさと入ってきた。カッターの刃をしまう一呼吸で、出遅れたのだ。
「あ、い、いらっしゃい」
「ああ暑い。え、何してんの?鉛筆?」
「う、うん」
「俺もやりたい」
ごく何でもない黒いTシャツにジッパーのたくさんついたワークパンツ、足は裸足だった。早速僕の向かいに座り、カッターをねだる。
・・・ああ、クロが、来たんだ。それだけで心臓は高鳴るし、部屋がもうさっきとは違う空間だった。
「ちょ、ちょっと待って。・・・ほら」
刃をしまい、くるりと反転させて差し出すと黒井がそれを取り、指が触れあって腹が透けた。
黒井はカチカチと刃を出したりしまったりもてあそんで、そして、「それ、変わんないね」と言った。
「え?」
「その、かっこいいんだか律儀なんだか、の、渡し方。あん時も、そうだった」
「え、何が?」
「俺にはさ、刃なんか出したまま突き出して、いいのに」
「は?危ないだろそんなの」
「・・・そういう話、なのに」
「え?」
目を伏せたまま軽く笑い、答える気はないらしい。鉛筆を握ってまるで竹槍でも作るみたいに削り始めるけど、何度も刃が刺さって突っかかり、「・・・これどうやんの?」と。
「え、その、俺は、だけど・・・」
僕は今までやっていたように手だけを動かして、「包丁で皮むきする時と逆の要領で」と説明した。「親指で刃を押すんだよ。いいナイフでもないし、たぶんそんな風に、木の枝尖らせて武器作るみたいにはいかない」
「・・・やって」
「うん」
刃が出たままのそれをゆっくりその手から取って、瞬間、少しぞくりとしながら、さっきの続きを削ってみせた。視線が注がれていることを意識すると、今自分が何をしているのか、一秒一秒過ぎていくことが分からなくなってしまうから、何も考えず黙って手を動かした。
削りかすがぱらぱら落ちていき、芯を削るときは金属がこすれるちょっと嫌な感じがし、そして、僕は黒井の言う<あん時>というのが、あの新人研修の、黒井が僕に嫌悪感を感じた、カッターがどうとかいう話ではないかと思い至った。
「ん、やってみる」
「・・・うん」
今度は刃をしまわず、そのまま半回転させて横向きに渡す。カッターや包丁なら怖いという気もわかないから、その刃が自分の皮膚を掠めても何とも思わなかった。
見ていて冷や冷やする手つきで黒井がカッターを握り、しかし手取り足取り「そうじゃない、こうだよ」なんてのもうざったいから、ただ眺めた。そして、自分がさっきキリキリするほど鋭く尖らせた芯の先端を人差し指の腹に刺しながら、どうしてそんなこと浮かんだのか、僕は「・・・今でも俺のこと嫌い?」と、訊いた。
黒井はカッターの手を止めることなく、そして、僕を見て、「・・・そう見える?」と硬い声で言った。
「・・・さあ」
「俺はたぶん、見たまんまだよ」
「・・・、そう」
今は好きだよ、なんて言ってほしかったのか、一方的に嫌われていたことへの何らかの当てつけなのか、あるいは、黒井と刃物とその対象物に対して無意識に感じた、腹の奥の興奮の発露かもしれなかった。
「お前はとがらせすぎ」
「え・・・そうかな」
「もっと丸くていいし、俺、2Bくらいが好きだな」
「・・・そっか。今度、揃えとく」
「うん、別にいいよ、Bでも」
「そう」
二人が削った二本の鉛筆は、それぞれの性格をよく表しているような気がした。
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