第232話:山猫をスケッチ

 黒井が残りをひたすら削っている間、ペンネを茹でて、ベーコン、玉ねぎ、ジャガイモと炒めた。仕上げはブラックペッパーとレモン汁。湿度のせいか食欲もなくて、あまり米を食べる気がしなかった。

 鉄板焼き的な雰囲気でフライパンごと持っていくと「熱々で、うまそ」と黒井が言った。まあ、皿洗いの省略の意味もあるけど。

「全部削ったの?」

「うん。何か、楽しくて」

「まあ、いいけどさ」

「で?鉛筆、どうすんの?」

「いや、描くのにいいかなって」

 僕がスケッチブックを出すと、黒井は喜んだ。何だか、こっちが恥ずかしくなるほど。

「・・・何か、こういうの、いいな。鉛筆と画用紙なんてさ、何年振りなんだろう。しかも自分で削って描くなんて、何か、もっといろいろ描きたくなってくる」

「別に、いいよ、何でも」

「そうだ、お前を描こう」

「・・・は?」

「デザインとか静物画よりさ、俺、人物の方が描きやすいよ。それも、石膏とかじゃなくて・・・」

 言うが早いか、ちらちらと僕を見ながら、もう鉛筆を動かしていた。ちょ、ちょっと待て。

「あ、あの、ちょ、やめてって。いやいや、俺とか、ないから」

「ちょっと、邪魔するなって!なに描いてもいいって言ったじゃん」

「い、いや、言ったけどさ。・・・いやいや、やめてやめて」

「別に、黙って食べててくれればいいよ。十分、いや、五分で描ける」

「・・・」

 ・・・たった五分、ポーズもとらずただじっとしていることくらいなら、出来る。お前のためにそのくらいは、出来る、けど・・・。

「・・・いやいや、やっぱり待って。その、それは、何のために必要なんだろう。手指を動かすのは健康とか脳にもいいって写経の本にも書いてあったけど、でもだからって・・・」

「じゃあそれ。俺の健康と脳のため。あれでしょ、何とかなんとかの活性化」

「・・・ま、まあ、そう、だけど」

 そして、カサカサ、サラサラと音がして、黒井は素早く手を動かした。Tシャツの柄くらいならいくらでも精密にスケッチしてくれていいけど、他ならぬ自分が、しかもこの顔が対象になってるかと思うと、カッターで首を切ってそれをくれてやり、体は窓から逃げ出したかった。

 ・・・十秒、二十秒。

 のんきにペンネなんか口に運べるか!

「も、もういい?」

「・・・まだ」

 最初はにこやかだったのがだんだん真剣な目つきになって、その目に見られた上に描き写されてると思うと気が気じゃなくて、いても立ってもいられなくなった。

「こ、こういうの、苦手なんだけど!」

「・・・もうちょっと」

「ほ、他のモノじゃだめなの?雑誌とかの、写真とか」

「・・・直接見ないと、影の感じとか、わかんない」

「何か、代わりを連れてこようか。近所の野良猫とか」

「うるさいな。・・・お前でないとだめ」

「・・・なんで」

「・・・今描いてるから」

「答えに、なってない」

「・・・ん、出来た!」

 嬉しそうにスケッチブックを僕に向け、僕は、黒井の描いた僕と対面した。

 その僕は目を伏せて、少し困った表情で斜め右下を向いていた。

 僕はその自分からも目を逸らし、首から下の、くたびれたTシャツの襟と、そこからのぞく鎖骨だけ見た。

「ね、どう?」

「・・・上手いと思います」

「ねえちゃんと見て?似てない?ほらこの辺とかさ・・・」

「似てると思います」

「・・・ったく、ほんと、しょうがないやつ」

「しょうがなくて結構。食わないなら片付ける」

「あ、ちょっと、まだ食べる!」

 黒井は紙と鉛筆を放り出して、冷めたペンネをフォークで突き刺した。

 それからしばらくして僕は、ミドリにスケッチされて、半透明になって消えていく死体たちの気持ちが分かるような気がして、残酷な話を書いたものだと少し反省した。



・・・・・・・・・・・・・



 食べて、ちょっと横になると言って結局黒井は寝てしまった。

 大丈夫だろうかこの人は、とちょっと思った。

 ワークパンツを脱ぎ散らかして、僕の布団で丸くなっている。

 現実がちょっと分からなくなって、また、この人は誰なんだろう、僕の部屋でいったい何をしているんだろう、と思った。まるで知らない人みたいにも見えるし、長年一緒にいる親友か兄弟みたいにも見えた。

 髪をひと撫でしたら胸が苦しくなって、腹まで痛くなって、トイレに駆け込んだ。


 しばらくうんうん唸ったけど便秘気味は治らなくて、今度トイレでの気晴らし用にクロスワードパズルの雑誌でも買ってこようと思った。あの削った鉛筆でやったらいい。ああ、後ろに消しゴムがついてるやつにすればよかった。

 黒井の寝顔を見ていてもおかしくなってしまうし、もう少し、もう少し、と頑張っていると、部屋の方でガサリと音がした。黒井が起きたのだろうか。スケッチを始めたかな、と少し頬が緩んだけど、ガタン、と押入れを開けるような音がして、考えるより先に身体が冷や汗をかいた。

 ・・・まずいって。

 あのノートの中身は確実にやばいし、写真はもう見られているとはいえ、それらが一緒にあるのが何だかとても、イケナイ感じがする。その上、あの封筒とあの石まで宝物みたいにしまってあって、いや、本当に僕にとっては宝物なわけだけど、それを目の当たりにしたらちょっと引くだろうな、それは絶対避けたいな、と思った。

 「何してんの!」と駆け込みたいところを抑えて、ちょうどトイレから出たところ、を装って、そう、黒井は寝てるから静かにしなきゃって前提を確認し、ゆっくりドアを開けた。

「・・・あ、あれ、起きてたんだ?」

「う、うん」

 黒井は、テーブルでスケッチブックに何かを描いていた。

 ・・・押入れは、開けっぱなしだけど。

「・・・あ、あの、何か、探してた?」

 僕はさりげなくその戸を閉じると、黒井は「え、いや、ううん、別に」と口ごもった。どうなんだろう、これはドン引き中?

「・・・ああ、そういえば、ビーグル号の上巻。ないの?」

「え?あ、ああ、それは、こっちに」

 僕は立ち上がって、クローゼットの上段に並べた本の中から分厚いそれを取った。実家を出るときに大量のミステリは処分してしまっていて、今は本棚とも呼べないクローゼットの一角に収まるほどしかない。それもDVDボックスに押され気味で、まったくミステリ好きの読書家が聞いて呆れる。

「はい、どうぞ、持って行って」

「あ、ありがと」

 しかし、それを受け取ってからも黒井はその本棚スペースをちらちら見上げていた。まるで何か探しているみたいに。

「・・・な、なに?」

「え、いや、お前、本あんだけ?何か、もっとずらっと持ってるかと」

「・・・うん、前はあったけどね」

「ふうん」

 それから黒井は少し神妙な顔をして、そして「甘いもの食べたい」と言い、買っておいたカップアイスを出してやるとひとしきりそれを食べ、スケッチの内容を説明してくれた。紙には何本かの黒い棒や丸がぐちゃぐちゃ描いてあって、自分で言うように、さっきの僕を描いたスケッチと違って、こっちのは本当にただの図というか、線だった。

「ここが、鉄の檻っていうか、鉄柱?あの、うんていとか登り棒みたいな円柱」

「うん」

 夢の、話だ。立体感がないのでストライプ柄かと思っていたが、どうやら鉄柱が何本も一直線に並んで立っているところらしい。

「で、これが鉄球。この檻の隙間を抜けれる」

「うん」

「で、回ってんの。メリーゴーランドみたいな?いや、回ってんのは本当はお前なんだけど」

「はあ?」

「お前が、誰か、誰だろう、昔の知り合いの女の子かなあ。ヨウコちゃんだったかな。まあいいや、そのヨウコちゃんと、腕組んだり、手繋いで、ぐるぐる回って踊ってんの。ああ、そう、二人でお経唱えながら!」

「・・・はあ?」

「そんで、その回った回転でさ、うん、別に直接関係はないんだけど、この鉄球が回る・・・いや、この檻が回る?まあとにかく、この球がこの柵の隙間をすり抜けるわけ」

「・・・はあ」

「何度も何度もすり抜けて、絶対ガキンって当たんないの。で、だんだんその残像が見えてきて・・・いや、それは円じゃないんだよね。わかんない、忘れちゃった」

「・・・二重スリット実験?」

「え?」

「球が隙間をすり抜けて残像を残すって、干渉縞(かんしょうじま)みたいに思えるけど」

「・・・ああ。ねえ、何でお前そんな頭いいの?あ、それとも俺の頭がいいの?」

「さあ、どっちでもいいよ。で、それから?」

「・・・ううん、そんだけ」

「そう。ふむ、さて、二重スリットの干渉縞と、この鉄柵と鉄球、回転してすり抜けるってキーワードを、どう組み立てるか・・・」

 僕はプロット・ノートを取り出して新しいページを開きながら、ようやくずっと思っていたことを言うことにした。いくら裾の長めのボクサーパンツだからって、目を逸らし続けるのにも疲れたんだよ。

「あのさ、クロ」

「なに?」

「・・・ズボン履いてくれる?」



・・・・・・・・・・・・・



 「なに、見苦しかった?」と黒井が拗ね、そうじゃなくて、と言っても聞かなかった。ジッパーの部分が座ると尻に食い込んで痛いとのことで、結局僕の寝間着の半ズボンを貸したが、黒井の機嫌は直らなかった。うん、自分の外見について<かっこいい>とかは意味ないんだと言いつつも、<かっこ悪い><似合わない>みたいなことを言うと意外と気にするんだ、こいつは。

 当てつけみたいにうつ伏せに寝転がって、スケッチブックに意味のない線を描きながら、手を伸ばしてコンポのボタンを押した。再生しても何も鳴らないよ、と思って放っておいたけど、何か微かに声が聴こえて、次の瞬間突然、大音量で音楽が鳴り響いた。

「わっ」

「なに!」

 それは、一昨日泣きながら聴いていた<リチウム>の冒頭、ちょうどピアノだけのアカペラみたいな部分が終わって、重低音の利いた演奏が始まるところだった。

 ああ、イヤホンを引っこ抜いたのか。

 僕は慌てて音量を下げ、しかし部屋の中に静かに流れるそれは何だか、高校生がかっこつけた洋楽を聴きながら友達と宿題してるみたいな雰囲気になった。いや、もちろん経験はないけど。

「ああ、びっくりした」

「・・・何かすごく、かっこいい」

「う、うん」

 そしてしばらくして曲が終わり、でも黒井が止める様子もないのでそのまま。別に僕が歌ってるわけでもないし選曲したのも藤井なわけだけど、私生活をのぞかれるようで妙に気恥ずかしかった。

 しかし二曲目が始まったとたん黒井は「あっ」と言って固まり、「エヴァネッセンスだったのか」とつぶやいた。

「・・・え、エヴァ、?」

「なに、知らないで聴いてんの?俺これ知ってる。何かの動画のBGMに使われてて、すっごい印象的だった。何か、絵画だよ。こう、次々スライドショーみたいに流れるだけの動画なんだけど、俺何度も何度も見た。お前が言ってた、タロットみたいな、不思議で、象徴的な絵だった・・・」

「・・・ふうん」

「こんなとこで聴くなんて。あれ、俺がパソコン持ってたんだから、ずいぶん前だ」

「そう、なんだ」

 黒井はスケッチに描こうとして「あれ?」と何度かそれを塗りつぶした。「俺には描けないタイプの絵だ」と言い訳をして笑い、しばらくしてふと目を上げ「え、これはドラゴンアッシュだ」と。

「え?」

「kjの声。大学の頃よく聴いてた」

「ふ、ふうん」

「それも知らないで、っていうかどういうコンピなのこれ?」

 名前も特定できないような洋楽とインストロメンタル、としか思ってなかったが、そうでもなかったらしい。しかし、<部分と全体>を読むために藤井に作ってもらったとも言いにくくて、「ちょっと、もらいもので」と濁し、「声だけでよく分かるね」と話を逸らした。

「うん、まあ、分かるよ。この曲は知らないけどさ、声・・・何となく、こういう感じ・・・」

 黒井は手をかざして宙を何となく示した。・・・え?

「ほ、ほら、この辺。こう、野菜でいえば、レタスみたいな。ちょっと硬いやつ」

「・・・はあ?」

 その時曲はまたエヴァネッセンス?に変わり、黒井は「ほら、こっちはこう、ボルシチみたいな、いや、もっとこう、火みたいな」と。・・・う、うん?



・・・・・・・・・・・・・



 表現力が豊かというべきか、あるいは、話に聞く<共感覚>というやつに近いのだろうか。色を見れば味がする、数字を見れば特定の感情がわく、というような・・・。

「俺は音楽のこととか全然わかんないけど、お前は、そんな風に感じてるの?」

「え?だってそうじゃない?お前はもうちょっと違く感じる?」

「・・・いや、レタスとか、ボルシチとかはわかんないよ。ただ低音が響くなとか、力強いなとか、そういう・・・」

 エヴァ某の女性ボーカルについては確かに印象的だが、ドラゴンアッシュとやらに関しては、名前だけは知っているが、この曲はインストロメンタルだと思っていて、声なんか聞こえてもいなかった。

「ふうん。また、俺とお前で違うの?」

 黒井が体を起こしてまっすぐ僕を見るので、僕は「そう、みたいだね」とうなずいて目を伏せた。黒井は感受性の足りない僕に失望するでもなく、自分が人と違うことに戸惑うでもなく、「そっか、そうなんだ」と満足したように微笑んだ。

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