22章:そろそろ淋しくなってきた

(気づくと、黒井に似た男を物色しているマズい僕)

第167話:ちょっとまずい禁断症状

 月曜日。

 四月から割り振りが変わった分の、僕が担当だった分の引き継ぎリストの作成。西沢は課長、G長とミーティングなので、静かでいい。でもそのうち西沢に引き継ぐ分の同行が入るだろうから、気が重かった。あんな人に見下ろされながら一緒に歩きたくない。

 今週行く予定の客先に配る資料なんかを準備して、佐山さんとフロー変更についてひとしきり意見交換兼愚痴の言い合いをしていたら、夕方になった。

「おー、山根君。来はった、来はったで」

 隣から伸びてくる西沢の馴れ馴れしい手を払いのけて振り返ると、支社長席に向かう、薄いアイボリーのスーツのでっぷりしたじいさん。誰?・・・あ、社長か。いや、会長か。

「ここにはよく来るん?」

「いや・・・ほとんど見ませんけど」

「去年はボンがうちとこしばらくいはったで。いやー、あれは間違いなく、将来ああなるお墨付きやな。ご愁傷様や」

「・・・は?」

「光っとるやろ」

「・・・」

 ハゲ頭のことか。うん、まあ確かに、今の二代目社長の頭髪はまだまだ健在だが、将来は・・・。

「俺もしばらく前から父の日には養毛剤送っとんねん。親父が大丈夫なら俺も大丈夫や」

「そういう問題ですかね」

「山根君も・・・ちょっと危なそうやから、早めに準備するにこしたこたないで。そんなふにゃふにゃの猫っ毛やったら、手えつけられんよ。ああ、俺はね、あれや、渡辺謙みたいにするつもりやからええのよ」

「・・・そうですか」

 どうしていちいちそんなに失礼なんですかって問いたいけど、また黙ってパソコンを睨んだ。ええ?心配するには三十年早いでしょ?・・・たぶん。


 帰りの電車で本を読んでいたら不覚にも桜上水を乗り過ごしてしまい、仕方なくそのまま帰ることにした。

 ノートを出して簡単に今週の予定を書き出し、水曜のノー残を洗濯・アイロンデーと定めた。先週のように一刻も早く駆けつけたい気持ちは薄れて、今はある程度長く居たかった。

 帰宅して、まずはあのネクタイを眺め、破顔。ああ、これ、クロが僕にくれたんだ。今しているネクタイをはずして、ちょっとだけ鏡の前で当ててみる。しかし、何だか急に恥ずかしくなってすぐ目を逸らした。胸がきゅうと締め付けられる。こ、こんなの、できないかもしれない。一日中そわそわして、仕事にならないかも。もう一度とっくりと眺めて元のビニールに戻し、家事一式を済ますべく部屋着に着替えた。

 ビン・カンの仕分けをして明日出すゴミをまとめたら十二時を過ぎていて、苛立ちとため息。これが月曜というのだからやっていられない。


 火曜日。

 家に本を忘れてきてしまい、もうやる気が失せた。客先に出たついでに本屋で買ってしまおうと思ったが、本屋が見つからなくて、ようやく見つけても売っていなかった。腹立ち紛れにマンガや雑誌を立ち読みしてしばらくサボり、佐山さんからの留守電で冷や冷やした。「~さんのところに折り返しお願いします。番号は・・・」とのことでかけてみると、以前関口に頼まれて一緒に行ったところのお客さんだった。追加ソフトを検討中、今週中にでも来てほしいとのこと。確か西沢に振られたところで、しかも前行ったとき、担当者が変わらなければいい、みたいなこと言われたんだっけ。大変気まずいが同行して行くしかない。

 立ち読みをやめて帰社し、日程調整と、その顧客の前回の報告書などを印刷。

 ふいに、クロにキスをされる一瞬の白昼夢に襲われ、息を飲んで放心した。・・・唇の、感触。あの日の朝の、四ッ谷の空気の匂いまで。

<お前にキスしたいって、思ってるよ>・・・。

 たった、一週間前。

 もう、ずいぶん前のことみたい。

 クロが、黒井彰彦が、恋しかった。ジョアンナにはリチャードがいるのに、どうして僕は電話さえ出来ないんだ。三課のあの席を振り返りそうになり、左側に西沢がいてやめた。また何か、独り言だか僕に話しかけてるんだか分からないことをぐちゃぐちゃ言っている。うるさいなあ、クロのイメージがぶれるから、静かにしてほしい・・・。

「・・・や、そやなあ山根君」

「・・・さあ」

「え、違うの?これ、ここやで?」

「・・・さあ」

「ちょい、こっちくらい向き?さっきっから自分、ええ加減にせえよ?」

 西沢の声に苛立ちが混ざる。苛立ってるのはこっちなんですけど。

「・・・」

 ゆっくり目のあたりをこすり、「すいません」と、発音だけした。パソコンを見つめたまま、しかし焦点は合わず、何も見ていない。

「・・・山根君?・・・何や、もしかしてまた具合悪うなっとん?」

 声に苛立ちが消えたので、こちらも爆発せずじっとしていると、突然目の前が暗くなり、あたたかい何かが額と瞼に、触れる、瞬間。

「やめろよっ!!」

 思わず叫んで手を払いのけた。そして、その自分の声に驚いて、一瞬の間の後、謝った。

「ご、ごめんなさい、その、急に、びっくりして、ほ、本当にすいません!!申し訳ない。ぼうっとしてて、その」

 周りがしんとして、視線が集まる。冷や汗が出てきた。

「あ、あの、何でもないんですすいません。ほんとに、ちょっと、寝ぼけてて・・・」

「・・・おい、山根?大丈夫か?」

 課長が怪訝な顔、というより、鳩が豆鉄砲食らったような顔で見ていた。

「は、はい。すいません。ほんと、何でもないです。申し訳ありません・・・」

「え、西沢くん・・・ど、どしたの?」

「あ、いや、何や具合悪いんかと思うて・・・。いや、こっちこそすんまへん、お騒がせしてしもて」

「ああ、びっくりした。な、何でもないのね?・・・はあ、西沢くん知らないだろうけど、山根先生は前科持ちだからね、普段大人しいけど、あんまりつっつかない方がいいかもよ。はははっ」

「へえ?前科持ちって何です?」

「や、それはね・・・」

 課長と西沢が話しだして、場の緊張も解けたようだった。横田が「だ、大丈夫すか」と、テレビでも見てるような感想を漏らす。「そ、そうっすね」と答えると少し落ち着いた。

 課長が訳知り顔で「今いないけどね、三課のやつと喧嘩して、支社長まで担ぎ出す大騒ぎよ」といらぬ説明を垂れる。

「え、やっぱそうだったの?」と横田。年末にはいなかったが、噂にだけは聞いているらしい。

「さあ、何だったかな」

「あの、黒井さんと?」

「まあそんなような、そうじゃないような」

 横田との小声のやりとりを遮るように、西沢が「へえ、すごいやん!」とこちらを向いた。

「見かけによらんもんやね。ええよ、俺ジム通いでちょっとは鍛えとんねん。相手したるで!」

「結構ですすいません謝ったんだから許して下さい」

「何やの!遠慮せんと!」

 バシ、と腕を叩かれ、嫌悪感に眉根を寄せた。「ははっ!」と笑われ、その場はすっかり収まったが、おでこの冷や汗を拭って、思い至った。

 ああ、その、手のひらが嫌だったんだ。

 黒井以外の人間が、僕の目を覆うなんて死んでも許せない。あいつだけだ。俺の人生でただ一人、あいつだけ・・・。

 でも、ただ、それだけだ。西沢がどうこういう問題じゃなくて、黒井じゃなかったってだけだ。あくまでこれは僕の問題であって、西沢は関係ない。

「・・・西沢さん、ほんと、すいませんでした」

 ちゃんと目を見て謝ると、「そんな、ええよ。気にせんで?こっちこそちょっと気い足らんかったわ。堪忍な」と、膝に手をついて頭を下げられた。慌ててこちらも頭を下げる。

 ・・・関係ない人とのやりとりは楽だな、と思い、笑みが漏れた。本気で向き合う必要がないし、自分を偽っても何の支障もない。

「何やの、怒鳴ったり笑ったり、面白いな自分」

「はあ、そうですね、どうも。しかしその<自分>っていうの、誰のことなんですか」

「おお、何や、わからんの?関西弁講座開こか?」

「あ、いえ結構です。誰でもいいです」

「ははっ、ほんま面白いわ自分!」



・・・・・・・・・・・・・

 


 地下通路を歩きながら、無意識に黒井を探して、背格好の似た男を物色している自分がいた。歩きながらネクタイをはずし、ポケットにつっこむ。暑くもないのにボタンもはずして、背がちょうど同じくらいというだけで、横に並んで歩いてみたりする。顔をちらと見て、聞こえないよう舌打ち。まあ、あんなイケメン滅多にいないか。

 さっき、突然の白昼夢が途中でかき消されたせいか、腹から胸から、欲求不満がきりきりしていた。それでも今度は藤井を抱きたいとは思わなくて、・・・男に抱かれたかった。

 ・・・何それ。

 また、気持ちの悪い自分に気づいてため息。でも仕方ない。僕が今目で追っているのは男であって、いくら顔はぼやけて見えないとはいえ黒井じゃないと分かっているのに、抱かれたい、というか、もう、犯されたい。

 ・・・もう、どこかに連れ込まれて、縛られたり蹴られたりして、痛い痛いとわめきながら犯されたい。悲鳴を上げて、殴られたい。二人か三人相手でもいい。ボタンをもう一つはずして、二丁目界隈とかいう所に行けばそんな目に遭えるのかななんてうそぶいてみる。もう、どっかのゴミ箱に捨てるか、公衆トイレに流してしまいたい、こんな自分。

 たった、一週間だ。

 お前が居なくなって七日経って、抑止剤だった本を忘れたら、もうこれだよ。クロ、お前が東京においていった男はこんなやつだ。おいてったらまずかったんじゃない?

 しかも、このままお前のうちに行くつもりだよ。お前の部屋で、何かする気だよ。それ以外に今この情動をどうしたらいいか分からないんだ。

 電車で自分より背の高い、ちょっとカッコイイめのお兄さんの隣に寄っていって、何食わぬ顔で肩を触れ合ってみたりする。今だったら西沢でもいい。ああ、それがよかったか。ちょっとは気に入られてるみたいだし、泊めてもらえばよかった。シャツを脱いで、物欲しそうな目で見たらどうにかしてくれたかな。女好きみたいだけど、男もいけないかな。たぶん185センチを越えた背で、鍛えてるとか言ってたし、きっと腹筋とか割れてるんだろう。そんなところに興味はないけど、とにかく僕を押さえつけて、痛くしてくれればそれでいいんだ。優しく囁く必要なんてない。「自分、気持ち悪いねんな」と言われて、「すいません」って言いたい。そのデカい手のひらで、僕のをぐいとつかんでほしい・・・ひい!

 はっと我に返り、思わずつり革を離した。途端に揺れて、お兄さんに当たってしまう。

「すいません、どうも、すいません・・・」

 丁寧に謝ると「いえ」と会釈され、うわ、紳士だよ、ダンディーだよ。次の駅で手を引いて降りてくれないかな。

 クロ、早くしないと、お前の山猫はどっかの紳士か、どっかの乱暴者にめちゃくちゃにされちゃうよ。電話だけでもしたらどう?メールでひとこと、<待ってろ>って言っておけば?



・・・・・・・・・・・・・・



 ミニスカートの家出娘じゃあるまいし、ボタンなんかいくらはずしたって誰も僕に声をかけてこなかったし、色目も使ってこなかった。当たり前だ、外国じゃあるまいし、路地裏に連れ込まれてファックされて、なんてあるはずもない。今なら外人のお兄さんでもいいんだけど。うわ、デカそうかな、ちょっと無理かな、どうだろう。

 そう思ったら、あのホテルで黒井のそれを頬に押し当てられた熱を思い出し、歩きながら目を閉じた。俺のより少し大きかった?そうだったらいいな。どうしてあの時僕を犯してくれなかったの?

 

 桜上水のマンションに着いて、郵便を見ることもなく部屋に直行し、乱暴に鍵を開けた。ガチャリ、と内側から鍵を閉め、匂いを吸い込む。

 ・・・少しずつ、薄れてく気がする。お前の残り香さえなくなったら、俺はどうしたらいいの?メールやメモの文字じゃだめなんだよ。触感じゃなきゃ、感じないよ。ああ、録音した声とかないの?ほんの一言でいい、ああ、とか、なに?とか、そんなんでもいい。部屋をあてどなく見渡すけど、そんな装置はありそうにない。正月明けに土下座されて留守電を消しちゃったけど、本当にあれは、何だったの?

 はたと思いついて、洗濯機を開け、放り込んでおいた服の中から黒井のトランクスを引っ張りだした。でも、残念ながら洗濯機のにおいになってしまっている。どうしてこんなときのために、密封できる袋に入れておかなかったんだろう。禁断症状が出るって、思わなかったのか。

 ああ、もう!

 いても立ってもいられなくなって、でもそれに左手を伸ばす気にならないほど怒ってもいて、座り込んでテーブルをダンと叩いた。くそ、どうしてここにいないんだよ!何で「俺、お前に挿れちゃうよ」って言ってくれないんだ!

 鞄からノートを出して一枚破り、力任せに、殴り書きした。絶対に出さない、黒井への手紙。


<黒井彰彦様


 前略 お元気ですか。俺のことを覚えていますか。山根弘史です。

 お前が千葉に行って丸一週間が経ちました。四ッ谷の駅でキスをされたことをふいに思い出してしまい、ちょっとおかしくなりました。我慢が、出来そうにないんですが。

 四月から西沢という男が隣の席に来て、生理的に受け付けないのに、背が高いというそれだけで、欲情してしまいました。どうしてくれるんですか。男に抱かれたいなんて、この世界でお前だけのはずです。藤井を抱くのは別にいいと思うのですが(お前もそう思うでしょう?)、こっちはアウトです。お前の倫理感が一体どうなってるのか知る由もないですが、俺が他の男に抱かれたら、どう思うんでしょうか?せめてしっとして下さい。・・・嫉妬って書けなかった、恥ずかしい。

 嫉妬

 嫉妬

 嫉妬


 俺のことはもういいです。お前はどうしていますか?禁欲的な生活をしていますか?風呂は・・・まさか新人の男どもと一緒じゃないよね?そうなら、一人で夜中に水浴びでもして下さい。許せません。

 自分のことは棚に上げて、新人どもには嫉妬しています。お前は自分を慰めることもせずに頑張ってるの?あの白猫はどうしていますか。キスしてくれてますか?海には、連れて行ってくれてますか?いや、それはないか。お前は一人で行くんだよな。自分の力で、何かを取り戻すんだ。そこに、俺は、いらないね。

 ・・・いらないですか。

 いらないですか。いらない、ですか。

 俺は必要ないですか。そんなの、つらい。涙が出そうです。俺のこといらないなんて、どうか言わないで。お願い、何でもするから。

 涙が、出ました。よく見えません。


 メールも、でんわも、くれなくて、俺はさみしいです。ネクタイうれしかった。でもたりない。


 おまえの部屋にいるのに、クロ、おまえがいないから、


 あと何日?


 帰ってきても、俺のことを、今までみたいに、


 笑ったり、俺が飯を作ったり、手をつないだり、できますか。

 今までみたいな、それより深い、関係が続くって、保証はありますか。

 

 お前も同じこの思いを感じていてくれたなら、何とか生きていけそうです。

 でも、世界で一番大事な人に、こんなつらい思いをしてほしいなんて、俺は最低です。

 

 でも。

 それでも俺は、黒井彰彦のことを愛しています。

 どうか俺と結ばれて下さい。


 


 会いたい


 山根こうじ>



・・・・・・・・・・・・ 



 紙を破いてしまったら、疲れて、結局何も出来ずに寝た。携帯のアラームだけかけて、Tシャツにパンツでラグの上に丸まって。

 書くだけ書いたら、少し、気が晴れたようだった。メールとかじゃなく、手を動かして書いたから、身体がちょっとだけ納得したのかも。本音を全部、<王様の耳>のようにぶちまけたら、楽になるもんだ。気持ちの悪い自分にだんだん慣れていって、エスカレートすらしそう。

 とうとうここから着替えもせず出勤してしまうけど、とにかく寝よう。そして明日は自宅に帰って、本の続きをゆっくり読んで、落ち着こう。

 クロ、おやすみ。お前もきっと頑張ってるんだよね。俺も頑張るよ。せめて、夢で、会えたら、いいけど・・・。

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