第166話:サプライズに嬉し泣き
ベッドの下に座り込んで、そこに落ちていたスウェットに履き替えた。そしてちょうど宇宙人のジミーがいたあたりに座って、よく黒井がそうしていたように、ベッドに上半身だけ突っ伏して、やがてまぶたが閉じた。
最大限の譲歩だ。妥協だ。
ベッドに入らなかったんだから、セーフにしよう。秩序と未来は守られた。時間の止まった部屋でさらに一時停止ボタンを押すように、いったんセーブして明日から再開だ。今日のこれは大きなロスかもしれないけど、でも、こうして自分の一時の感情に勝って手前で止まれたんだから、やり直せる。・・・はは、クロ、お前なら逆かもしれないね。一時の感情のとおりに動いて花びらを奪うことで<自分の力>を感じたお前とは、うん、やってることは似てる気がするけど、方向は正反対だ。・・・それでもなぜか、何となく似てるって、何となく分かるって気がするのは、単なる思いこみ?
ねえ、またいろいろ、お前の話が聞きたいよ。今度はお前が腕枕してよ。俺、お前の声を聴きながら寝たい。すごく、好きなんだ。暗闇で聴くそれは、特に、好きだ・・・。
過去の倉庫から引っ張りだして、いくらでも再生できるから、・・・この脳みそも、捨てたもんじゃ、ないんだよ。こういう、眠りに落っこちる前の、夢と現実の境の時間は特に、鮮明に、驚くほどリアルに、そう、さっきの歌だって、お前の声で、再生できる・・・。<愛してるって、いくら言っても・・・想いが届くことはない・・・>
・・・・・・・・・・・・・・
翌日。
夜、いよいよ<詰まった>らしい風呂掃除にかかった。ゴム手袋に洗剤、ブラシ、ゴミ袋、Tシャツでパンツ一丁になり準備は万端。タオルでまた前髪を上げ、後ろできつく縛ったら戦闘開始だった。
風呂場の電気をつけ、扉を開ける。
・・・チラ、と、目の前を何かが掠めた。
狭い空間に目を走らせ、その何かが、壁にふととまる・・・。
・・・。
・・・む、む、虫がわいてるじゃないか!!!
「あ、あ、あり得ないあり得ない!!」
ほんの小さな羽虫が一匹、しかし見覚えのあるフォルム。よく夏に、生ゴミを放っとくと三角コーナーにたかっている、少し茶色くて丸っぽい、蚊みたいに手で叩きたくはない感じの、アレ・・・!
「ぐわあああっっ!!」
ちょ、ちょ、ちょっと、許せない許せない!まだ夏でもないのにこんなの、排水口の奥はどうなってんの!?もう、中性洗剤じゃなくてカビキラー!い、いや、詰まってるなら先にそれを何とかしないとひどいことになるか。あ、ああ、もうひどい。想像するだにひどい。そんな大惨事はあってはならない。もう、もう許せない許せない、こんなになるまで放っといたやつが許せない・・・。
必死で記憶をたぐり寄せる。この前僕がここを掃除したのはいつ?僕が最後にここに来たのはえーと、バレンタイン合宿?ああ、確か雪が降ってたし風呂にも入った。たぶん軽く風呂掃除もしたと思う。もしそれっきりだとすると、一ヶ月半?ふ、風呂場を、一ヶ月以上掃除しないまま使い続けた?あ、あ・・・そ、・・・ええ??
手が震えてくるし、頭の血管が切れそう。そういえば何か臭う?・・・排水口から、何か臭う??お、おい、風呂が詰まったとか、まさかこの状態であっても入ろうとした?あんなかっこいいスーツを着る前に、まさかここに入ろうとして諦めたとか、ないだろうね?それで僕の家に来たとか、いや、それなら感謝すべきなのか、え、えーと!もう泡を吹いて倒れそう!!
・・・・・・・・・・・・・・・
すがるように洗剤を握りしめ、穴が開くほどそれを見つめた。特に意味もなく成分表示などを目で追って、ふと、ああ、やっぱり全然減ってない。
そして、僕がこれを買ってきたとき、詰め替え用を買おうか迷ったことを思い出した。詰め替えるほど使ってないよ、ねえ!
あれは確か、温泉行った後くらいだろうか。スーパーの洗剤売場で値段と容量を見ながら迷っていた。そして、あの時、これを詰め替える頃にはどうなってるんだろうって、ああ、それで詰め替えは買わなかったんだ。これを使い切るであろう、そう、四月には、どうしてるかわかんないからって、それでやめた・・・。
ああ、こうなってるよ。
あいつはここにいないし、僕が一人で風呂を洗ってるよ。詰め替えはまだ必要なかった。読みが甘かったね。
でも、ぼんやり思っていたような最悪の事態にはなってないよ。そう、あいつが別の支社に行って、ここをもう引き払ってるような、そんなことにはならなかった。
・・・はあ。
ため息をついて、本当はマスクがほしいけど、浅く浅く息をしながらゴム手袋の手にビニール袋をかぶせた。排水口の表面の、髪の毛やらどろどろした何かを強引にかき集めてそのまま袋の口を閉じる。更にその丸いカバーを外して、その奥も同様に。もう一匹虫がふわりと上がってきて、殺意。絶対殺してやるから待ってろよくそったれ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
いよいよベッドに入ってしまおうかと思ったけど、もったいない、というより、まだそれだけの働きをしていないような気がして、ゴーサインは出なかった。
結局ベッドの下の、ラグの上で寝ることにした。掛け布団だけおろしてきて、小さく丸まって眠る。うん、まだまだ、これくらいでちょうどいい。
翌朝、目を開けて、ベッドの下に何かがいた。
宇宙人じゃなくて、・・・狼。
ああ、こんなとこに、いたのか。
埃まみれで、引っくり返った狼。僕は手を伸ばしてそれを取り、ベランダで埃をはたくと、ラグのベッドに戻って胸に抱いた。
「お前、・・・会いたかったよ」
ぎゅうと胸に押し付け、その頭と背を撫でる。ああ、そういえば僕のしろねこはどうしてる?黒井と一緒に・・・寝てるわけないか。
「おおかみ・・・お前、こんなとこにほったらかされて、かわいそうになあ。あとでもっとちゃんと綺麗にしてやるから」
ああ、僕、ぬいぐるみに話しかけちゃうような人だったっけ?
「気持ち悪い?ねえ、俺、気持ち悪い?はは、だってしょうがないじゃん。日曜の朝なんだもん・・・」
あくびをして、伸びをして、背中を掻いて、掛け布団に倒れこむ。
今何時なの?まだ眠い。でも、腹が減っていた。結局昨日、夕飯を食べそびれたんだ。
昼前、駅まで出て買い物。
何となく思考はまとまらなくて、でも掃除も大体ひと段落していたから、通りをあてもなくぶらぶらと歩いた。
何か、本でも読もうかな。
そう思った途端に、古本屋があった。ブックオフとかのチェーン店じゃなく、街の小さな古本屋。いや、きっとここの看板を無意識に見て、本でも読もうなんて思ったんだろう。
店先に<百円>と書かれた文庫本が並んでいて、目は勝手にミステリを探している。立ち止まって何冊か手に取ってみるけど、でもトリックだの密室だのそういう気分でもなかった。でも物理を勉強する気にはまだなれなくて、うん、ちょっとしたミステリ風味くらいの文庫本がちょうどいいかも。
読むとなればその気になってきて、背表紙のタイトルに目を走らせる。気になったものは片っ端からあらすじを読んで、ワゴンに戻す、戻す、戻す・・・。
最終的にワゴンの中の全てをチェックして、興味を惹かれた二つを買うことにした。タイトルは<航路>と<世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド>。前者は海外の女流SF作家で、後者は村上春樹。世界のムラカミは読んだことないけど、知名度じゃなく、あくまでタイトルとあらすじで選んだ。どちらも上下巻で、四冊で四百円。・・・と思ったらしっかり消費税三十二円を取られた。
部屋に帰り、早速文庫本片手にパスタを茹でる。まあ、レトルトのソースを買ってきたから、本当に茹でるだけ。ああ、でもふつうの小説を読むなんて久しぶりだ。あの<本番>の時少し本屋で読んだくらいで、その後は物理の本ばかりだったし、こんな風にエンターテイメントとして書かれた文章を読むのは、こう、ただ乗っかってるだけで楽というか、うん、でもちょっとくどいな。僕はわりと硬めの筆致が好きなんだけど、やっぱり女性の作家だからか、読みやすいけど人物が大げさでうざったいことこの上ない・・・あ、茹で時間計るの忘れてた。
うざったいけれどもつい目が離せなくて、シーフードのバジリコ・スパゲッティを食べながら読み続ける。そうそう、臨死体験というテーマが面白そうだったんだよ。しかもそれを科学的に検証しようという試みに興味を惹かれる。僕だって、金縛りに遭うなんて人に言うと「え、ちょっとやばくない?」なんて言われちゃうけど、入眠時幻覚だとか明晰夢だとかって脳みその状態があるって調べたから、ちっとも怖くないし科学的に納得している。
思いっきりまどろっこしく、回りくどいやりとりの末に、ようやく主人公の男女二人が出会った。ちょっとぎこちない会話と、探り合い。はあ、いいなあ、どうせ最後に結ばれるんでしょ?
食べ終わって、皿も鍋も洗わず、ベッドに寄りかかって続きを読んだ。
ああ、ようやく何だかそれらしい謎が出てきて、どんどん引き込まれる。ページをめくる手が、忘れていた喜びを感じている。自分の人生じゃないから、自分で考えなくていいのが笑っちゃうほどラクで楽しいし、そして、自分じゃない主人公の言動や思考や感性にいちいち刺激を受けて、そして謎を一緒に追いかけ、それを自分なりに考えるのが、これまた楽しい。色とりどりのフルーツが散りばめられたデザートを食べてるみたいだ。
まだ掃除の仕上げが残っているのにそっちのけで読み耽ってしまう。亡くなった急患が残した意味不明な数字の謎を考え続ける主人公とともに、ああ、僕だって意味不明な数字を抱えてるじゃないか。ノートを開き、貼った<十六夜メモ>をもう一度見る。主人公のジョアンナとともに、電話番号、車のナンバー、住所の番地などと照合していって・・・あ、ああ!住所だ!この<3187>はここの住所じゃないか!3丁目18番地7号、これで郵便受けが開く!
いても立ってもいられず、玄関から飛び出した。鍵だけはかけて、エレベーターを待つのももどかしく、階段を駆け降りる。ミステリの本の中の謎解きが、僕の現実に反映している。一段飛ばしで降りながら、ちょっと興奮した。
3、1、8、7・・・これで開く、と思わず唾を飲み込む、が、南京錠はカチャリといわなかった。あ、あれ?何で?これ以外絶対にない符合だと思ったのに、違うの?
あれ、やっぱり<十六夜>の16を何かしなきゃいけなかったのかな。十六夜、十六と、夜。よる、なら4と、・・・る、はどうにもならない。いざよい・・・1341?
1、3、4、1・・・カチャリ。
あ、開いた・・・。
その時、他の住人がやってきたので軽く会釈し、僕は中のチラシや請求書をそそくさとかき集めた。
あ、開いた。開いた・・・僕はまたしても、そう、<本番>の時と同じく、南京錠を開けたんだ。十六夜・・・16にとらわれてたけど、まさか語呂合わせだったとは。ん、しかし、それじゃあ3187は何だろう。・・・っていうかこの奥の袋は何だ?これも郵便物?
わざとチラシを落として、「ああ・・・」と拾って時間稼ぎ。郵便を取った女性がエレベーターに乗ってしまうのを待って、紺色のビニール袋を引っ張りだした。
重くは、ない。
な、何だこれ、まさか黒井のストーカーとか?え、そんなの俺以外にいるの?・・・って、そうじゃなくて、これ何だ。
郵便受けの隙間から入れた?どうかな、ちょっと入らないと思う。だとしたら、まさかこのナンバーを知ってるやつが他にもいる?
封とかはされてないけど、見てもいいものだろうか。いや、こういうものこそ、善管注意義務で確かめるべきか。危険物とかだったらまずいし、ストーカーなら絶対突き止めて何とでもしてくれる。
指紋を付けてしまったのを後悔しながら、おそるおそる、覗き込んだ。
・・・中には、丸まった布のような何かと、紙きれが一枚。
不用意に手を突っ込んでカミソリでも仕込まれていたら嫌だし、上に載った紙だけ指でつまんで取り上げた。裏返すと、見慣れた文字。
<ねこ、さんきゅ。
お礼ってほどじゃないけど>
・・・え。
もう手を突っ込んで、慌てて丸まった何かを取り出す。
するすると伸びた、鮮やかな、抹茶のような萌黄色。それは、あのプラムと似た、つややかなネクタイだった。
・・・・・・・・・・・・・・
・・・これ、を、俺に、・・・くれるの?
掃除の、お礼?
「べ、別に・・・いいのに」
ネクタイを握ったまま、動けない。何、これ。冷蔵庫に入っていた謎のメモで、郵便受けを開けたら、プレゼント?そもそもここの鍵だって突然送られてくる予定だったんだし、え、こんな謎かけ、僕のために?
ちょ、ちょっと、もう、どういうこと?・・・ネクタイでよかったよ、指輪なんか入ってた日にゃ、どんなにちゃちだって、今すぐパスポート作ってフランス行きだよ。ま、そんなわけないけどさ。
いい加減ここで突っ立ってるわけにもいかないから、丁寧にビニールにしまって、エレベーターに向かった。そして<▲>ボタンを押して、唐突に思いついた。ああ、<↑3187>は、屋上の鍵だ。十六夜とは関係なくて、ただ二行だっただけだ。<↑>は<〒>マークを示してたんじゃなく、<上>って意味だったんだ。
僕はエレベーターで<R>を押し、屋上で実際にそれを確かめた。なるほど、住人が覚えやすいようにナンバーは住所の番地に設定されてるのか。
夕日の落ちた屋上に出て、ひととおり見て回ったけどここには何もなかった。他の住人も使うんだし、これは、僕も屋上でひとり座って酒が飲めるように、教えてくれたってことなんだろうな。うん、それもいいかもしれない。
でも今はそれどころじゃないので、部屋にとって返した。郵便物の選別もそこそこに、ベッドの前に座って、あらためてネクタイを取り出す・・・。
つるつる、つやつやして、抹茶プリンみたい。いや、それより透明感があって、デザインチックな斜めのラインは黒井の声のイメージに似た深緑。
・・・。
泣きそう。
あいつが、選んでくれたんだろうか。それともただ二本買ったから、かな。掃除ばかりでガサガサになった指が引っ掛かるので、あまり触らないようにして、でも見ていたいのでテーブルの上に飾っておいた。間違ってもコーヒーなんかこぼさないよう、慎重に。
紙きれをもう一度見て、本当に僕宛てか確認する。一番最初にクッキーをあげたときと同じ、<ねこ、さんきゅ>。ちょっと下手なひらがな。・・・いいんだよね、僕が、もらって、いいんだよね?
一ヶ月部屋の鍵を預かって、掃除や、郵便をチェックしたりするお礼って、ふつうどれくらいだろう?勝手に、そんなの全部任されて、しかもお礼とかお金じゃない関係でそれをするような、そういう存在なんだって思っていた。だからお礼だなんて気を遣われるのは少しだけ他人行儀で距離を感じるけど、でも、こんなやり方でもらったら、・・・何だよ、俺のことわかってんじゃん。こんなことするのが好きで、まったく、今だってミステリを読みながらその内容と同調するように謎が解けて、こういう瞬間が好きなんだって、わかってるんじゃん。
「クローーっ!」
狼をつかんで、ベッドに仰向けに倒れ込み、高い高いをするように持ち上げる。
「何だよもう、こんなの、嬉しすぎるじゃん・・・バカ、泣いてないよ!泣いて、ないってば・・・」
・・・まさか俺、愛されてる?
お前に愛されちゃってる?
う、うるさいな。サプライズのプレゼントに感動して泣いたりとか、そんなの僕に限って、ないってば!
ただの、ネクタイだよ。サラリーマンならお礼やプレゼントに当たり前にもらうアイテムだよ。だから、ただの、お礼だってば・・・。
「ううっ・・・」
僕はベッドに倒れたまま、しばらく目を閉じていた。胸が、ずっと痺れたように、じーんとしていた。
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