第165話:指輪が欲しい僕は、空っぽ症候群

 金曜日。

 朝からメールで呼び出され、いつものコンビニ前。藤井がまた、音楽をくれるとのこと。あんなホワイトデーの後で少し気まずいかと思ったけど、藤井はいつもどおり、というかいつもより明るいくらいだった。

「春セレクション、なんです」

「そ、そうなんだ。くれるの?」

「はい、ちょっと徹夜で仕上げて、これぞって感じにいけたので、思わずメールしちゃいました。CD-Rでは収まらないので、これ、使い古しで悪いんですが」

「ん、何、これ」

「ipodナノです。あと、他に・・・」

 藤井はたぶんこないだ買ったジーパンでしゃがみこみ、鞄から何やらいろいろ引っ張りだし、ビニールにいろいろ詰めた。

「おばあちゃんとこから送ってきた餅が大量にあって、お裾分けのノルマなんで、ご協力お願いしております。それからえっとこれは保証書かな。あとは、雰囲気ぴったりの桃の飴と、えーと、まあ何でもいいか。ではそういうわけで、今年度もまたよろしくお願いします」

「は、はい。こちらこそ、よろしく。・・・っていうか、何か、いいことでもあった?」

「あれ、分かっちゃいます?・・・あのですね、新しく入った子が、もうあのなじり方が、姉様そっくりでやばいんです。あ、そういうキャラクターがいまして、まあとにかく、目が離せないんですよ。あとあの、菅野さんもブログ見たらすごくいい感じだし、・・・あ、それじゃ急ぎますので!」

「あ、あっそう・・・」

 僕はやっぱりあの時のことを今更もう一度謝りたかったけど、藤井もさっさと先に進んでいるみたいだった。まあ、藤井は藤井で僕どころではないのだろう。

 よく分からないけど、いい後輩が入ったということだろうか。そんな後輩ならいいだろうね、こっちは今日もゴテゴテ関西人の隣だよ。


「おう、俺今日も睨まれとんねや?山根君、いつ眼鏡かけてきてくれんの」

「・・・持ってないです」

「ええ?目え悪い言うたやん。コンタクトやなかったら、眼鏡やろ。眼鏡」

 <めがね>の<が>にイントネーションを置く発音が、<やまネ・くん>、と同じで、わざとらしくて耳障りだった。

「・・・はあ」

「今眼鏡なんてえろう安なってるで。俺こないだ久しぶりに見てびっくりしたもん。それに、すぐ出来るんやで。昔なんか、なあ。俺も十年前くらいに作った眼鏡あんねんけど、・・・ってあれ、十年じゃきかんか。おい、二十年前か?ははっ、笑えるわ」

 年に対する自嘲なのかもしれないけど、ことあるごとに「俺のが年上なんやからね」と牽制されてるようで、面倒くさい。「そうですか」と答え、また、黒井の自嘲とどこが違うんだろうと考えた。たぶん、あいつは良くも悪くも自分しか見ていないから、僕が年下だろうが年上だろうが、自分の位置づけによって相手をどうこうしようとは思ってないんじゃないだろうか。自分が中心の絶対評価であり、僕との間の相対評価はない。その帰結に、しかし疎外感は感じなかった。僕は、あいつの感じてる世界をあいつの言葉で聞くのが好きだし、だからいつまでもそのまま、深い森であってほしい。

 あーあー、それに比べてこのフロアにいる俗人たちの、何と浅はかなことか。自分が少しでも優位に立ちたいだとか、しかもそれを隠して<スムーズな人間関係の構築>だとか、もう世界が違うね。漆黒の馬にまたがる僕の貴公子とは土俵が違いすぎて、話にならない。何たって僕らはさ、夜っぴて物理学とか勉強しちゃったりするんだし、素粒子について話しちゃったりしてるんだし?

「山根君、ちょお近いよ!?」

「え?」

 気がつくと、だいぶ前のめりでPCの画面を見つめていた。

「あ、ああ・・・」

 椅子の、背もたれまでが遠い。あれ、やっぱり目、悪い?いや、今は読めなくて近づいたんじゃなく、ただぼうっとしてただけなんだけど・・・。

「何や、はやくツッコんでほしかったん?そないに仕込んで振らんでも・・・って、前振りなん?眼鏡デビューする前振りなん?」

「・・・はあ?」

 僕が、眼鏡をかける?

 考えたこともなかったけど、もしかして、本当にその必要性があるのだろうか。

 ・・・まあ、本格的にかけなくたって、パソコン用くらい用意、してみる?



・・・・・・・・・・・・・・・・



 顧客の割り振りが仮確定し、リストの再精査。三月も同じことしたじゃないか。コロコロ担当変えるなって、お客さんに何回言われればいいんだよ。まったく、ポリシーみたいにそこだけ貫徹するのは何でなんだろうね。


 西沢に捕まらないように昼に出て、ようやく、百円ショップで綺麗に剥がせる両面テープを買った。

 ロビーではまたフレッシャーズに囲まれ、「午後、何するんだっけ」「ほら、電話の、研修とかって。配られたやつに、詳しく書いてあるよ」「あー、それ、なくした。ってかもらってないっぽいんだよね」・・・って、何だか軽いんだか仰々しいんだか、聞いてる方が恥ずかしくなるような会話。別におかしなことは何も言ってないけど、やっぱり違う。着慣れないスーツを着て背伸びしてる緊張と、会って間もない同期との距離感とがその要因なんだろうけど、具体的にはそれがどんな所作に現れていて、どこからそれを感じ取っているんだろう。



・・・・・・・・・・・・・・・



 どうしてこう、仕事量のムラは激しく、先の見通しは立てては壊れて、無駄な作業ばかりが増えつつ実益に結びつかないという、・・・誰か偉い人、このサイクルを是正する気はないのかね。まあ、給料さえもらえれば、どうでもいいか。せいぜい実体のない残業代をもらわないように早く帰ろうかな。

「お、山根君帰るん?」

「はあ、何かありますか」

「別に・・・なあ、週末ヒマやったら、うちの引っ越し手伝う気ぃない?」

「・・・すいませんが用事があるので」

「うわっ、冷たっ。ははっ、毛嫌いせんと、なあ。もちろんタダ働きさせる気はないで?ちょっと顔出したって?土曜も日曜も空いとらんの?」

「はい」

「はあー、何か・・・何やったかな、何とかも何とかもないね。えー・・・」

「身も蓋もない?」

「・・・いや」

「とりつくしまもない」

「それや!」

「それじゃあお先に失礼します」

「うわー、ノリだけようなってきたね!うんうん、その調子やわ。ははっ、お疲れさん!」



・・・・・・・・・・・・・・



 藤井からもらったビニール袋を持って、今日は桜上水のスーパーへ。油も使わず、カレーのように鍋も汚さない、まあ、いつものスープ・リゾットを作るべく、カレー用野菜少量セットを購入。それから黒井の好きな青いパッケージのクリームチーズも買って、うん、アルコールは、全部片づいてからだろう。


 部屋に入って、お腹が空いたので早速料理。野菜を切って、沸かした鍋に突っ込んで、鶏肉とコンソメを入れるだけ。しかし、リゾットにしようとするも、米が見あたらなくて炊けなかった。ああ、明日買ってこなくちゃ。

 ぐつぐつ煮る間、玄関に座り込んでカレンダーを眺める。そして鞄と袋に気づき、ああ、ipodとやらを聴いてみようか。イヤホンを耳に入れると、ゆったりしたアコギの音。弾き語りのような女性のボーカル・・・しかし何か変な声だな。

 次の曲も、印象は違うけど同じ声?合成音声ぽい感じの、少女っぽい高い声。曲は藤井らしくないバラード調ラブソングばかりで、何かの心境の変化が選曲に表れているのだろうか。まあ、耳障りでもないし、まったりして気分もいいので・・・って、ああ、鍋!


 しーんとして食べるのも味気ないので、聴きながら夕飯。途中でふと、ああ、もしかしてこれがボーカロイドってやつか、と思い当たる。ふうん、もっとロボットぽいのかと思ってたけど、それほど違和感がないもんだ。

 食べながら、藤井からもらった袋を全部あけてみる。何やら雑多なものがいろいろ出てきて、新聞紙に包まれた丸餅、せんべいや飴やガム、説明書や曲名などのメモ、それから破られた雑誌の数ページ・・・。

 雑誌はつるつるの質感のページで、週刊誌とかではなく女性誌か何か?写真入りで、映画の特集みたいだった。

 何かのミステリの映画化かなと、ふと目を走らせる。藤井の私物が混ざったのか、僕に何か紹介しようと破ってきたのか。しかし、少し読み始めると、どうやら前者だったのではないかという、後ろめたい単語が並んでいる・・・。

 テーマは<女どうしの恋愛事情>で、そんな内容の映画の公開に伴った特集だった。それだけなら、何となくそのまま元通り折り畳んでいったん袋にしまうところだった。しかし一瞬目に入ってしまったのは、「わたしは妻とこの映画を見ました」と始まる、女性による記事だった。

 ・・・妻?

 自分のことはまったくさておいて、藤井の禁断の趣味ついては「ひい、そんな世界・・・!」という感想しか持ち得ないけれど、実際に女性と結婚したという女性によるその文章を、気づくと思わず目で追っていた。耳には、少女の声のボーカルが、<愛してる、愛してるって、いくら言っても足りないくらい・・・>と甘い声。


<・・・初恋の相手が女の子で、小学生ながら、これはいけないことなんだと分かっていた・・・、自分はレズビアンなんかじゃないと強く否定し、やがて自分ごと否定するようになった・・・、男性とも付き合ったけれど、やはり女性を求めていて、それは自分にとってごく自然なことだったが、それを自分で認められるまで、かなりの時間がかかった・・・。>

 現在では、同性婚が認められているフランスで結婚しているとのこと。仕事と並行して啓蒙活動のようなこともしているが、レズビアンを認めさせる活動と、自身が今まで<レズビアン>という言葉を嫌悪してきたという事実に、矛盾を感じながらの活動であるという・・・。


 スプーンを、口から出して、ゆっくりと置く。

 プラスチックの使い捨てではなくて、黒井のうちに元々あった、銀のスプーン。あいつがコーンスープやクリームチーズやレトルトのカレーなんかを食べてきたであろうそれを見つめたまま、少し、呼吸が浅くなった。

 複雑な、何ともいえない、ざわつく感じ。

 それはちょっとした、禁断のものを見てみたいという好奇心から始まり、生々しい共感と、それが理解できる自分、という優越感を経て、その後はなぜか、違和感と、嫌悪感。

 ・・・やがて、不安。それはどこにもたどりつかないことは分かっている。

 ・・・俺が男だから何だっていうの?

 無闇に怒ってみるけど、矛先はそこじゃない。

 性別の話じゃない。

 結局、恋愛の話だ。

 好きな人と結ばれて、その左手に指輪が光ってるかどうかって、そういう話だ。

 僕は結局過去を積み重ねて、その中に指輪を探している。モノであったり言葉だったり行為だったり、それを後から検証して、未来にわたって有効な証拠を手に入れたくて、後生大事に空き缶まで飾っている。

 ・・・ああ、そうか。

 僕がずっと感じてきたこと。

 それは、たとえ妄想が現実になって、抱き合ってもキスが出来ても、でもだから何だっていう、あの感じ。たとえキスの先までいったとしても、いつまでも満たされないであろう、飢餓感に近い何か。どれほどの永遠の確約を求めてるのかって、重すぎる自分に呆れるほど。

 ・・・それはたとえ、あの三文字を直接言われたってきっと、次の瞬間から不安が押し寄せる、次の日にはもう信じられなくなる、空っぽ症候群。

 今僕の耳に聴こえてるのは、<僕はきみのこと、ずっと想ってる・・・たとえきみに想われなくても、あきれるほど、きみだけを・・・>という、人ならぬ少女の、切ない声だった。



・・・・・・・・・・・・・・・



 きちんと、きちんとしたかったのに。

 ちゃんと片づけを終わらせて、綺麗にした風呂に入って、それからにしようって、そうでなきゃこんなご褒美は贅沢すぎるって、だから本当はいけないって分かってるのに。

 だめだ。

 だめだってば!

 感情にまかせて今までの努力の意味をなくす気か?我慢できないってだけで、秩序を乱して、本筋から外れて、ぐちゃぐちゃにするつもり?歯を食いしばったなら、その手で片づけに戻るんだ。自分の立てた計画に戻って、自分で百二十点つけられるまで、・・・取っておけよ、未来の楽しみを今食い散らかしたら、残骸だけが残って、虚無感で動けなくなるぞ。やめとけ、ここで引き返せ。会社だって、二日休めばダメになる。でも会社は存続してるからまた行けば働けるけど、自分が立てた計画は、自分がダメになったとき存続なんかしてないから、そしたら生き甲斐がなくなって、四月を乗り越えられなくなる。会社を休んで毎日ここで泣き暮らすような、そんな彼岸が見えてきてしまう・・・。

 僕は黒井のベッドに手をかけて、紙袋やら電卓やらティッシュの空箱やらを床に落とし、そこでかろうじて止まっていた。

 でも、だって、そうしたいんだ!

 お前のベッドにもぐりこんで、わけもなく泣いて、泣いて、疲れて眠りたいんだ。腹の底からわいてきて胸を満たし、今にも涙になって溢れそうなのは、不安、不安、やるせなさ、そして不安・・・!!

 鍵を持ってたって、長いメールをもらったって、今抱きしめてくれなきゃだめなんだ!そしてその今が永遠に続かなきゃ、次の一秒、怖くて息も出来ない!

 ・・・体が、勝手に、倒れ込もうとしている。泣いてわめいて、全部出してしまえばどこかに落ち着くって知っていて、膝から力が抜けていく。

 ・・・指輪、なんか。

 指輪なんか、できるわけ、ないだろ!

 フランスまで行って、結婚なんか、出来るわけないだろ!!

 そしてまたやっぱり、法的に結婚なんかしたところで、意味ないだろ!と続き、じゃあお前は何を求めてるんだ、キスしてセックスして結婚までして、それでも埋まらない不安って、お前穴でも開いてるんじゃないの?

 ・・・もしかして、<今>を生きられない人は、たとえ愛されたって、そうは思えないの?過去の証拠品ばかり眺めて、来月、来年のスケジュールを手帳に書き込みながら、その横で愛を囁かれても、そのそばからICレコーダーを取り出して証拠品置き場に駆け込むの?俺ってそんな不毛な人間!?水が染み込む豊かな大地じゃなくて・・・まるで発泡スチロールみたい!!

 お前が今を生きていて、ころころ気分が変わって明日にはまた違う顔ってのが不安の原因なんだって、そんなの濡れ衣だった。受け取れない僕が問題だったんだ。

 ・・・何だよ、こんなこと、気づく前は幸せだったのに。

 スープ作って、ノート見ながら計画練って、風呂掃除に励むつもりだったのに。

 でも、どうして幸せでいられたかって、ああ、それってたぶん、ここの時間が止まってるからだ。ここは過去の証拠品置き場で、僕は夢見心地でそれに浸り、いつまでも分類と分析を続けながらプロファイリングをする快感。そりゃあ、居心地がいいはずだ。お前を失ったわけでもなく、お前の過去がつまった部屋・・・というかまあ、お前の過去を生きられるんだ。お前の<今>についていくより、僕にはこっちの方が気が楽で、思う存分じっくり浸れて、自分の素の感覚とリズムで生きられる・・・。

 ・・・なら、いいじゃないか、そうすれば。

 どっちにしたって黒井が今帰ってくるわけじゃないんだし、四月はそれで僕が幸せに過ごせばいいじゃないか。竜宮城で過ごしたって、玉手箱を開けなければいいだけだ。それに、僕だって一ヶ月後にはもっとマシな人間になっていて、ごくふつうに「クロ、お帰り」って言ってるかもしれない。

 ・・・まあ、玉手箱を開けないってこと、ないだろうけどね。

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