第164話:比較すると、わかるもの

 帰りに見てみると、郵便受けは、南京錠がかかっていた。各戸、自分で鍵を用意しているらしい。かかっていないところもあるし、みなバラバラだった。

 黒井の部屋番号のところには、四桁の数字を合わせるタイプの南京錠。とりあえず隙間からのぞいてもチラシくらいしか入っていなさそうだから、推理はもう少し後回しにしてもよさそうだった。

 下りの混んだ電車に乗って、サラリーマンに紛れるジーパン姿の違和感。ああ、ズル休みの一日が終わる。会社で何が起こったか知らないが、もう終わったものは終わったんだ。明日も休んじゃおうかなんて考えが一瞬よぎるけど、だめだめ、そんなことしたらもう行けなくなっちゃう。


 帰宅して、玄関とキッチンだけでなく部屋まで片づいていて、何だかおかしな錯覚。ああ、部屋の床に座れる。つ、疲れた・・・。

 十六夜メモをノートに貼り付け、迷ったけど書き殴りのメモも貼った。だんだん、証拠品一覧をすべてシートの上に並べて写真を撮り、ナンバーを割り振り、ひとつずつ密封できるビニール袋に丁寧にしまいたいという欲求に駆られる。保存、保存!そこに時間は流れない。証拠品は倉庫にしまわれ、裁判はいつまでも過去の事件の有様を再構成し続ける。やっぱり、僕は過去に生きているんだ。だからいつも黒井に追いつかないって感じてた。変わりゆく現在を綱渡りのように冷や冷やしながら歩かないと、置いてかれる感じがしていた。ねえ、お前が人を振り回したくてそうしてるんじゃないって分かったわけだけど、僕が鈍くさいから遅いんじゃないってことも、分かってくれた?そして、僕が頑張って現在形で動こうとすると、リハーサル抜きの実況生中継になってしまって、指針となる台本がないから、ひょうたんから駒みたいな突飛なことになっちゃうんだ。僕はセーブを重ねて、攻略本を見ながらシナリオのあるゲームをやってるけど、お前はオンラインゲームで、常にアップデートしながら自由にクエストをこなしてるんだろう。

 僕は枕元に鍵が入っていたあの封筒と、それから新しい名刺を一枚置き、それらに書かれた<山根 弘史>の文字を眺めた。急に、すごくいい名前に見えてくる。そんなこと思ったことないのに、お前が書いてくれた僕の名前を、好きになってくる。何だか、生まれて良かったって、思った。両親にちょっとだけ、感謝した。<紹介したい人が・・・>という親孝行は出来ないけど。



・・・・・・・・・・・・・・



 木曜日。

 朝礼ぎりぎりにしれっとデスクについて、課長に一言すいませんと謝って、業務が始まった。後から「ちょっと」と呼ばれ、どきっとする。どうやら、昨日みんなに説明して、僕だけ聞いてなかったことがあるらしい。でも、説明してくれるのは佐山さんで、これから個人教授してくれるそうだから、ほっと一息ついた。

「えっと、何かですね、私が今までやってた取り込みとかの作業を、営業のみなさんが個人個人でやるっていう流れに、していくらしいんですよね」

「え、そうなんですか?」

 確か去年、そういう個人プレーをなくして、事務に集約するとか、そんなフローになったじゃないか。

「ええ、私もよくわかんないんですけど・・・その、もしかしたら切られるんじゃないかって、びくびくしてるんですけど」

「え、・・・それ、まさか派遣さんなくす方向ってこと?いや、無理でしょう、回らないって」

「それか、正社員になって、向こうのフロアに入れてもらえたりとか・・・しないですね。それに、定時じゃないときついし」

「うん・・・上の考えてることは、分かりませんね」

 契約書のコピーと保存とか、PDFがどうとかそういう流れを、ひととおり説明してもらった。このくらいの面倒が増えたって僕は構わないけど、これだけ人数がいれば絶対どこかで抜けが出るだろうし、どんなメリットがあるのやら。ゆくゆくは自分で契約から発注までさせる気?別にいいけど、割り振りを五分の一くらい減らしてよね。

 ふと、キーボードを叩く佐山さんの手を見ていて、銀色の指輪に気がついた。あれ、左手、薬指・・・。

「あれ、佐山さん、その、指輪」

「あ・・・気づきました?」

「け、結婚・・・」

「あ、いえ、その・・・婚約、しまして」

 佐山さんはその指輪を右手でちょっといとおしそうに撫でた。

「ああ、そうなんだ。それはどうも、おめでとうございます」

「あ、ありがとうございます・・・」

 ゆっくりお辞儀を返し、はにかんで笑う。ああ、幸せそうな人って、こういうことを言うんだな。たぶんこれがあるべき姿なんだ。これが、今年三十歳の人のまっとうな道だ。

 でも僕は、もうそれほどの戸惑いを覚えることもなく、ただ、指輪、羨ましいなあ、と思った。ずっとしていられるし、そんな風に、いとおしそうに撫でることが出来る。きっと裏側にはイニシャルとかが彫ってあるんだろう。僕たちなら、黒井と山根でK・Y?あ、でもふつう名字は変わっちゃうんだから、下の名前で、A・K?でも下の名前で呼び合うわけでもないし、僕たちは名字も変わらないんだから、黒犬と山猫で、やっぱりK・Yかな。はい、空気読まなくてすいません。妄想が突っ走りすぎ。


 説明のメモを整理して席に戻ると、「やっぱり具合悪かったん?」と、ああ、隣の関西人。適当に流して今の説明をメモしていると、「な、彼女とかいてるん?」と余計な一言。

「・・・別に」

「さっきから別に別にて、エリカ様かい!」

「・・・」

 首をかしげ、画面に向き直る。本当に知りたいなら、そうやって茶化してないでちゃんと訊けば答えるのに。そうじゃないってことは、ただその場のノリで盛り上がりたいだけでしょ?僕に彼女の話題なんて、そんなデリケートなこと、やめてよね。

 全身で、僕をいじっても面白くないというオーラを出してるのに、西沢はめげなかった。というか、関西人のくせに、笑いの空気読めないんじゃないの?

 西沢のせいで、横田とのいつものどんよりとした皮肉の言い合いも今ひとつはばかられるし、一緒にコーヒーに行く相手はいないし、ああ、今日が長い。

 

 昼になり、「なあ、どっかうまい店教えてや」と後ろから肩に手を置かれ、奥歯を噛み締めて前方を睨みつけ、「銀行行くんで」と断った。ほとんど同じことを半年前黒井にされた覚えがあるが、あの時は敬遠することもなく、居酒屋ランチの親子丼を食べたのだった。どうしてこんなにも違うのだろう。

「何や怖い顔して。そない睨みつけたらカワイイ顔が台無しやで?」

 どうせ童顔だが、頭一つ分見下ろされたら馬鹿にされているとしか思えない。

「・・・目が、悪いもんで。すいません」

「そうなん?視力いくつよ。いつも眼鏡?コンタクト?」

「・・・別に」

「でも山根君、眼鏡っぽい顔やもんね。俺ほら、顔が派手やから逆に似合わんのよ。分かるでしょ?そういうの」

 混んだエレベーターの中で、でかい声で喋り続けるの、本当にやめてほしい。黒井だったらもっと、「・・・お前、眼鏡、似合うかもね」とかつぶやいて、そしたらふと視線を合わせてきたりして、ああ、考えただけで胸がどきどきする。そう、何が違うかって、声と、話し方、っていうか、スピードだ。別に関西弁が嫌いとかそういうことじゃなくて、黒井の方がゆっくり話すんだ。僕はたぶん、聞いたことを言葉に変換して理解するのに少し時間がかかるから、早口でまくしたてられると、ついていけないんだろう。黒井は、行動は現在形だし気持ちの移り変わりも早いけど、なぜか話すのだけは、僕が落ち着くようなスピードなんだ・・・。

 エレベーターを降り、その上の方にある頭を見上げることなく言ってやった。

「・・・下の蕎麦屋の、鴨のやつが美味しいですよ」

「はあ、そうなん?若いのにこざっぱりしとるね!ほな早速行ってみるわ」

 軽く会釈して僕が出口に向かうと、後ろから「よう見えんのやったら、気いつけや!」と。余計なお世話だけど、でもまあ、比較することでまた黒井のことが分かったんだし、素直に感謝してもいいかもしれない。僕が振り向いて頭を下げようとすると、西沢はもう別の同僚を捕まえて地下へのエスカレーターへ消えていくところだった。



・・・・・・・・・・・・・・



 西沢との会話、というか一方的に話しかけられるうざったい時間は、しかし、黒井との対比を考えることで、二割ほど有意義なものとなった。しかし、悔しいことに西沢が言ったことが当たってきて、関西弁がうつりそうな瞬間が何度もあった。自分の思考だけなら別にいいんだけど、よりによって黒井の声が、勝手に変換されて頭に響く。「何や、お前、そんなこと気にしとったん?」「ねこは理屈屋やからね。もう、考えてないで、はよパフェ食べ行こ?」・・・違う違う!全然、違和感。こんなのあいつじゃない。だんだんイメージがぶれてきて、貴公子が和服の商売人みたいになってきて、だめだめ!

 あの写真を見て元に戻したいけど、ここで出すわけにはいかない。社内報の冊子だったら見てもおかしくはなかったんだけどな。ああ、どうせいらないだろうから横田からもらっておけばよかったか。ん、っていうか今もその引き出しとか、入ってる?

 っていうか、写真は西沢に見せるわけにいかないって思ったけど、別に、大阪支社にだって同じ社内報が配られていたわけか。いや、大阪に限らず全国に配られてるのか。あの、黒井の顔が、全国の社員に見られてるの?東京支社にはこんなイケメンがいますって、触れ回ってしまったわけ?今更ながらちょっと微妙な気持ちになるけど、でも、これがなければ僕と黒井の写真なんて一枚もないんだし、まあいいか・・・。

 

 気分は散漫なまま、ちょっとだけ西沢のあしらい方にも慣れ、合間に横田とも話せる感じになって、何となく一日が終わろうとしていた。こんなどうでもいいことしてるなら、今日も休んだってよかったんじゃない?いや、それはだめか。二日も休んだら絶対来れなくなる。黒井の部屋の誘惑と戦いながら、何とか課長の「ぼちぼち上がってくださーい」までこぎつけた。

「それじゃ、お先に失礼します」

 何だか訳知り顔で課長と話している西沢が「ああ、お疲れ、気いつけて帰りー」と顔を上げる。その気はないのかもしれないし、関西的な言い回しや距離感なのかもしれないけど、こういう微妙な上から目線にいちいち腹が立った。さっきは単純に心配してくれたんだと思えたけど、課長やみんなの前で言われて、何か、すっかり四課で西沢の子分というか子飼いみたいな扱い・・・。

 ・・・。

 いや、そんなことは、どうでもいいんだよ。

 子分でも弟子でも何でもいい。まったくもってどうだっていい。僕の人生で大事なことはもっと他にある。会社の課内での位置づけなんて、元々僕には興味もない話だ。会社での時間は今終わったんだから、ここからはそんなもの何も関係ない山猫だ。そう思うとスーツさえ脱ぎたいような気になって、エレベーターでネクタイだけ外した。



・・・・・・・・・・・・・・



 桜上水で降りて、すっかり歩き慣れた道。今日まではおにぎり以下略で過ごし、明日からはキッチンで何か作ることにしよう。

 鍵を開けて玄関に入った途端、黒井のうちの匂い。次に、電気をつけて目に入る、綺麗になって座れる床。そして、ドアを閉じて鍵をかけるその音と密閉の安心感で、僕はへなへなとその場に座り込んだ。く、クロ、帰ってきたよ、ただいま!

 雑巾掛けしたフローリングを撫でて、そのまま突っ伏して横になり、勝手に笑いがこみ上げる。しばらく止まらなくて、馬鹿みたいにずっと笑っていた。


 今日は風呂掃除と思っていたけど、笑い疲れて、何だか幸せに浸ってしまい、どうしても起きあがれなかった。涙すら出てきて、柄になく即興の歌など歌ってみる。適切な言葉を探すのが遅いから、意味も分からない単語の羅列。

「カレンダーと・・・貼れない、いつまでも・・・床のへこみが気になるよ・・・今日もカレンダーを貼れないよ・・・」

 黒井が雪の中で歌った、あの高音の一音を探しながら。あれはいったい何て歌なんだろう。

 天井を見つめながら、今日はゴミの分別とゴミ出しをして、もう終わることにした。なぜだか胸がいっぱいで、ふわふわしてしまっている。やるべきことはたくさんあるのに、何かしようとすると感情が溢れそうだ。何か、形のあるものを抱きしめたい衝動に駆られて仕方ない。

 ・・・明日、金曜日だから。

 徹夜でベッドにたどり着き、そこで寝るから。

 そう思ったら、今日は体力を温存し、早く帰って寝ることにした。会社に行くことすら、なぜかそれほど苦にならない。明日もきちんと会社に行って、西沢なんか軽くあしらって、颯爽とここに戻ってくるんだ!

 カレンダーに時間を書き込んで×をつけ、ああ、帰ってネットで世田谷区のゴミの分別方法を印刷してこないとまだ分別出来ないんだった。じゃあもう帰るしかない。急いで帰ろう。

「クロ、明日また来るから!週末だから、待ってて!」

 この玄関で、おやすみのキスをおでこにしてやったことを思い出して赤面しながら、鍵をかけた。

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