第163話:愛してます

 お昼を過ぎて、玄関からキッチンまで歩けるようになってきた。メモを拾ってからはゴミと思ってポイポイ袋に突っ込んでいくことも出来なくなってしまい、一つ一つ噛み締めながら、ゆっくり袋に入れていった。

 僕だって三月、荒れてたし、自炊もしないで、掃除も滞っていた。靴下やシャツが散らかっていて、キレそうになったっけ。でも、ここまではならなかったよ。もちろん性格の違いだろうけど、うん、お前はこんな風になっちゃうんだね。こうして、なぜかまだ割ってもいない割り箸を二つに折っちゃったり、冷凍スパゲティのパッケージの中にちょっとエロめの週刊誌が丸めて突っ込んであったりする。

 こうやって、三月のお前を、僕に欠けてた部分を、取り戻していく。

 そう思ったらもう、清掃作業なんかじゃなく、僕の中身を完全に取り戻しながら、お前のことを理解していく大事な道のりだ。

 ・・・もう、何ていうか、・・・愛?

 そう、ですね。はい。

 愛してます。

 メモを入れた胸ポケットを押さえながら、苦笑。

 でも、そうなんだもん。今、そう感じてるんだもん。

 じゃあ、言っちゃおうか。声に出して、お前の部屋で、言っちゃおうか。

「・・・く、クロのこと、あ・・・愛して、ます」

 うわ、恥ずかしい!この人恥ずかしい!!

 思わず両手で顔を覆う。やだな、自分で言って、腹がひゅうと透けた。だ、だって、誰かのこと愛してるなんて声に出して言うの、生まれて初めてだもん。緊張、するし、でも・・・ちょっとだけ、快感。何とも言えない興奮。声に出すって言うのが、やっぱりこう、何かの現実感を伴うというか、生々しい感覚があって・・・。

 ・・・ん、もしかして。

 黒井は、誰かに愛してますなんて、もう言ったかな。

 でも、<彼女イナイ歴>だそうだから、好きだの愛してるだのは、言わなかったんじゃない?え、じゃあもしかして僕が初めて?・・・いや、そこ早とちりだよ。言われる予定は今のとこないよ。

 あ、それに、演劇部でそういうせりふがあったかもしれないか。ええ、舞台の上で、相手の女優っていうか部員の女の子に、そんなこと言っちゃうの?本番だけじゃなく、稽古とかでもずっと?たとえそんな相手じゃなくて、純粋にお芝居だったとしても、あの口で、あの声で、そのせりふが発せられたかと思うと、嫉妬。

 いや、まだ、そうと決まったわけじゃないし。

 そんなせりふなかったかもしれないし、それにもし、たとえあったとしても、舞台の本番じゃない本当の本番で言うのは僕が・・・、って、どうして言われる前提なんだ僕は!


 その後は更に手が止まりがちになり、作業はなかなか進まなかった。

 いったんお昼休みにして外に出て、体を少し動かしながらコンビニまで歩き、結局おにぎりとサンドイッチと以下略。ああ、もう冷蔵庫まで道が確保されたんだから、二リットルを入れとこう。もうちょっとした別宅気分で、いや、こんな贅沢他にないでしょう。好きな人の部屋に出入り出来て、プロジェクトの遂行が出来て、片付けながら黒井の心に想いを馳せることが出来て、片付けることで実際役に立つことも出来て、その上頑張ればご褒美にもありつけて、泊まることができたら会社にも近くて・・・。

 ふと目にした店の隅のガチャガチャで、何だか知らないが、爬虫類の携帯ストラップというのがあった。そうそう、こうして鍵をポケットに入れるんじゃなく、携帯にくっつけとかないとね。僕は三百円出して一回まわし、カプセルを覗くと、そこには壁に張り付いている格好のヤモリが入っていた。・・・黒井は、こういうのも好きだろうか。動物全般好きみたいだし、気持ち悪いとかはないのかもしれない。・・・いや、あげるわけじゃないし、どっちでもいいんだけど。

 万が一にもどこかへ落とすといやなので、この場で鍵にストラップをつけることはせず、カプセルごと家まで持ち帰った。

 カプセルに入っていた説明書、というかラインナップ紹介の小さな紙に、ヤモリというのは家を守ると書いて縁起がいいとか書いてあった。ああ、それなら鍵をつけるのにぴったりじゃないか!すごい偶然だ。・・・いや、待てよ、たとえカエルが出たってその時は<家に帰る>なんてぴったりじゃないか、とか言い出してたかな。うん、でも、まあいいんだ。

 


・・・・・・・・・・・・・・・・



 夕方にはキッチンに突入し、もらってきた二つ目の段ボールに、引越しよろしく食器類を全て入れた。シンクとガス台がようやく顔を出し、今日のところは玄関、廊下、キッチンについて、<2、掃除>まで済ませようと決めた。部屋全体の<1、仕分け>をやろうとしたらたぶん帰れなくなってしまうし、徹夜するなら週末がいい。明日の木曜を越えれば、金曜日の夜はここで徹夜で、そしたら土曜はあのベッドで寝れるかもしれない!


 雑巾とスポンジでこびりついた油汚れを落としていく。もっと固めのスポンジと、キッチンペーパーと新聞紙も欲しいところだが仕方がない。

 腕まくりをして持参したゴム手袋をし、たぶん洗ってあると思われるタオルを借りてラーメン屋みたいに頭に巻いた。バレンタイン以来切っていない前髪が邪魔だったのだ。

 しばらくは無心で作業に没頭した。つい夢中になって大掃除並みに頑張ってしまい、気がつくと夜だった。ああ、コンビニで夕飯も買ってくるんだった。まあ、夕飯といってもおにぎ・・・以下略だけど。

 シンクとガス台が綺麗になっても食器がまだだから料理は出来ないし、材料だってないはずだ。あ、っていうか冷蔵庫の中の掃除もあったか。こないだビールの紙ケースが溜まってたし、ああ、烏龍茶を入れるのも忘れてた・・・。

 ゴム手袋を外していったん手を洗い、頭のタオルで拭いて、冷蔵庫を開けた。

 そして、その真ん中に、紙切れ。

 たぶんA4の用紙を手で半分にちぎったような紙。


<〒 十六夜

 ↑ 3187 >


 黒井の手書きだった。何だこれ、暗号?

 郵便が、十六夜?そしてそれが、3187?

 何かのメモ?どうして冷蔵庫に入ってるんだ?

 こないだは、なかった。ビールが入ってただけで、こんな手前に、わざわざ見えるように、こんな紙・・・。

 まさか、僕への、メッセージか?

 走り書きとかではなく、わざわざ紙の真ん中に、いかにもな感じで書いてある。何だろう、わかんないけど、どきどきした。暗号を解くなんて僕の大好物、投げて寄越してくれるの?またあの<本番>みたいに、お前の影を追えるの?いや、今でも十分そうしてるけど、でもこんな風にわざわざ僕に対して暗号メッセージを残してくれるなんて、ちょっと嬉しすぎる。そわそわして、思わず笑みが漏れた。部屋にひらりと落ちていたら<保留>の段ボールに入れてしまうところだけど、ここなら、そうじゃないって分かる。

 開けっ放しだった冷蔵庫を閉め、<十六夜>の文字を眺めた。特に<夜>という字。その筆遣いから、深い藍と、月と、黒井の横顔が目に浮かぶ。ドイツの森の前に立って、狼の耳としっぽなんか生やして、でもその瞳は澄んでいる。少し哀愁を帯びた寂しげな表情で月を見上げ、ちょっと眉根を寄せ、僅か微笑む・・・。

 ・・・我に返って、紙をたたんでまた胸ポケットにしまった。謎解きの愉しみは、洗い物の後だ。僕はまたゴム手袋をして、段ボールから食器を出した。



・・・・・・・・・・・・・



 使いにくい携帯のネットで、四月の十六夜を調べる。その日に何か郵便が届くということ?それを見ろってことだろうか?

 雑巾で拭いた床に座り込んで、食器棚から出てきた焼きソバUFOを勝手に食べる。烏龍茶で流し込んで、ああ、労働の後のカップ麺はうまい!本当はビールを頂きたいが、何となくやめておいた。今日は帰らなきゃいけないしね。

 ああ、そういえば郵便物のことを忘れていた。ドアの内側のあれもチラシ以外は仕分け箱に入れなきゃいけないし、下にもマンションの郵便受けがあったはず。チラシがいっぱいで入りきらなくなっても困るだろうし、もし何か大事な郵便でもあったら、送ってやらなきゃならない。

 ・・・ん?

 郵便受けって、たぶん、うちもそうだけど、鍵がついてる。

 うちのは金庫みたいな、右へ回して2、左へ回して8・・・ってやつだけど、ここはどうだろう?オートロックではないけど、だからこそ、そういうのがついていそうだ。

 帰りに見ていくか。部屋の鍵を預かる者として、隅々まで、民法でいうところの善管注意義務、つまり善良な管理者として注意すべき義務を果たさなくてはね。そして、もしもの時はあのメールにあったとおり、黒井に電話して訊かなきゃいけないし・・・。

 ・・・電話、したいなあ。声が聞きたい。

 まだたった二日しか経ってなくて、元々二日くらい話さないことだってしょっちゅうあったのに、話せないとなっただけでこんなに焦がれている。でも今は、この<十六夜>って文字を見て、ほんの三日前これを書いていたお前を想うしかない。十六夜。いざよいって読むんだよな。何か、和風でかっこいい。温泉の時の、黒井の浴衣姿を思い出した。

 紙に目を落とし、<十六夜>とその下の<3187>を見比べる。数字がヒントなのかな、16と3187?16×3187だとか、緯度と経度?でも十六夜の16と数字の3187を同列に扱うのも何だか違う気がするし、とにかく十六夜というのが今月のいつなのか、調べてみるか。

 十六夜だから十六日って意味じゃないだろう、と思っていたのに、調べてみたら四月の十六夜は本当に十六日だった。もしこの日に何か届くという意味なら、二週間も待たなきゃいけない。それまでにはきっといっぱいになってしまっているだろう。どちらにしても開くのかどうか確かめなくては。

 

 まだまだやろうと思えばいくらでも掃除の余地はあったが、床に座ってしまったらだめだった。一日立ち仕事をしただけで、あちこち筋肉痛っぽく張っている。ストレッチをしながら、ノートを四枚破って並べ、下駄箱の上の棚から出てきたガムテープで留め、同じくそこから落ちてきたマジックペンでカレンダーを書いた。

 日にちの部分には滞在の時間を書き込むことにして、それ以外のことはふせんで貼り付けた。今日の書き込みは9:00ー21:00で、ふせんは<〒メモ発見、冷蔵庫>。ノートの間取り図にもこまごま書き込みをして、僕の<冒険>の記録だ。黒井は羽ペンの航海日誌が似合うかもしれないけど、僕のはどうしても、刑事のそれにすらならず、ゲームの攻略ノート程度か。もうちょっと何とかしたいけど、最新機材でも導入すればいいのかなあ。

 

 カレンダーをドアの内側に貼ろうとして、でもこの紙のガムテープだときれいに剥がれないかもしれないし、どうしたものか。貼って剥がせるタイプの両面テープを買うしかないか。

 明日の予定を立て、名残惜しいが帰ることにした。でも<本番>は一週間だったけど、今度は一ヶ月もあるんだから、まだまだいくらでも・・・って、はあ、長いよ。まだ二日だよ、二日。

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