第162話:二日目にして、もう休む

 うちの三課・四課とよく分からない枠組みで合併?するらしい、本社のビジネスオペレーション何たら部の人が来ていた。それでまとめて第二部とか言われても、だから?って感じだ。でもまあ、こういう四月ならではのばたばたで、本格的な仕事が始まらずに過ごせるのは助かった。今も、ミーティングルームが取れるとか取れないとかで、宙ぶらりんの時間。もう帰っていいですかね?

 無理やり横田に話す話題を作って西沢を避け、結局第二部とやらの集まりには課長とグループ長だけが行って、夕方になった。


 適当なところで切り上げ、紙袋を持って、いざ、桜上水。

 何だか大阪のおかしな空気にあてられたせいで雰囲気ぶち壊しだけど、気分を切り替えるしかない。俺の貴公子の館へ、貴公子のゴミ屋敷へ、いざ参らん・・・。うーん・・・。

 調子が戻らないままマンションにたどり着く。またおにぎりとサンドイッチと烏龍茶。コンビニでもらったペットボトルの段ボールを二つ組み立てて、・・・いや、置くとこがないよ。


 まずは玄関を片付けるべく、靴を下駄箱にしまおうとして、早くもつまづいた。

 ・・・。

 靴を・・・磨きたい。

 本来なら靴磨きは<2、掃除>の項目か、あるいは最後の仕上げくらいの工程なんだけど、いや、ちょっとの汚れならいったんしまっちゃうんだけど、・・・何で靴ひもにとうもろこしの粒が埋もれてるわけ?この染みはコーンスープなの?こんなの急いで拭かなきゃ取れなくなっちゃうよ。もう手遅れかもしれないけど、でも、このままとりあえずしまっとくなんて・・・。

 でも、コーンの例外を認めてしまえば、こっちの靴の中に入ってるびりびりに破かれた紙片は?とか、靴の裏に張り付いてるビニールの切れ端は?とか、あと他にも何があるか、全部出した上での審議委員会が必要になってくる。更にその上で、これを玄関のみのルールにするか、全体の工程に組み込んでいくのか、いやいや、臨機応変にその時々で適当にやっつけるとか嫌だからね。みんなでやるなら諦めるけど、僕が一人で任されてるんだから、一から十まできっちり僕のやり方でやるからね!

 ひとまず靴を全部しまっちゃおうという、何ということもない簡単そうな企みは早速暗礁に乗り上げ、僕はスカスカの下駄箱を前に一足も靴をしまえないまま、玄関ドアと向かい合ってノートを開いた。そしてドアの内側の郵便受けの中身にちょっと気を取られ、開けるか開けないか迷い、きりきりとした。くう、もう、全ての工程をルーチンワークというか、パターン化というか、分刻みで決めてしまいたい!お店のトイレとかに貼ってあるような、掃除の項目と時間と、そこにボールペンで確信に満ちたレ点を跳ねかして、最後にシヤチハタを(表が小さければ訂正印用のを)押して、やるべきことを<済>にしていきたい!!

 欲求に拳を震わせて、ドアを睨んで、うん、スケジュールだ。カレンダーだ。・・・カレンダーだ!!

 ドアに、カレンダーを貼ろう。

 そうすればあいつが帰るまでの日にちをバツで消していけるし、ふせんを貼ることだって出来る。そうとなれば早速買ってきたいけど、四月分だけだし、自分で書くか。

 スケジュール帳を見ながら、何かの資料のA4用紙に表を書く。膝の上でノートを台にして書くけど、うん、歪むし、七等分しにくいし、とりあえず書いてドアに当ててみるけれども、字が薄いし小さくて全然見えなかった。

 ・・・この距離で、見えないの?

 玄関の上がり框に腰掛けて、とりあえずふせんで貼り付けたその、数字も曜日も見えなかった。しばし腕を組んで、ため息。やっぱり、目が悪くなった?



・・・・・・・・・・・・



 進捗はさっぱりのまま帰宅。用意すべきものは増えていくけど、実際にはまだ手付かずに等しい。遅々として進まないプロジェクトは、しかし僕が無能なんじゃなくて、時間が取れないってだけの話だ。桜上水から往復二十五分、今日だって部屋にいたのは、いや、玄関に座っていたのは正味四十分くらいでしかない。明日の朝早く行く?それもきついなあ。会社でくだらない会議だか待ち時間だかを過ごしている間に、もっと出来ることもあるのに。隣に関西人がいなければ、机でもっとノートを広げて計画を練るのに。

 ・・・もう、会社なんか、休んじゃいたいな。そしたら丸一日、あの部屋で、どれだけ作業がはかどるか。どれだけレ点がつけれるか。たとえば早朝から、まずは駅前のカフェかなんかで予定を立てて、それから午前中片付けに費やし、それからスーパーで追加の買出しとお弁当かなんか買って来て、そして午後を頑張り、床が見えたらそこで夕飯にするんだ。本当はもちろんベッドを開拓したいけど、入り口から攻めるという戦略の方が下心に勝ったんだから仕方ない。うん、僕のやり方で制圧してこそ、僕のベッドだ。そのためにも明日、玄関から廊下、キッチンまで食い込みたいが、一日でどこまで行けるか・・・。

 ・・・。

 あ、別に、休めるわけじゃないか。

 ・・・休めないの?

 ・・・。

 休んじゃおうか。

 休んじゃわない?

 一日くらい、いいんじゃない?別に、外せない打ち合わせもないし、どうせ西沢に何か説明したり、微妙に始まらない会議を待ったり、するだけじゃない?次の日横田に聞けば事足りる、僕がいなくても支障のない、一日、じゃない?

 ・・・だめかな。

 でも、チャンスは今しかないんじゃない?ばたばたして忙しそうだけど、その実これといって何もしていない、そういう日って、今くらいじゃない?

 ・・・でも、だめかな。

 しかし一度思ってしまったことはどんどん膨らんで、休んだらこんなことが出来る、休まなかったらまた西沢の隣で一日を過ごす、と、天秤がどんどん休む方へ傾いていく。でも、休むなら課長に連絡して熱を出したとか嘘をつかなきゃならないし、そこにいれば一瞬で済んだ用事も後からだとすごく面倒になったりとか、手回ししなきゃなんないとか、余計な手間が増えるかも・・・。

 明日は、水曜日、か。

 もし休んだら、木、金、で土日になる。

 二日ぐらいなら、頑張れそう。でも、明日行くなら、あと三日。三日間も、耐えられる?耐えられないよね、休んじゃおうよ!

 僕は急に見たくなって、社内報のあの写真を取り出した。・・・ああ、クロ!思わず頬が緩む。僕の貴公子!かっこよすぎる!引き伸ばして、ポスターにして貼っちゃいたい!そんで、その唇にキスしたい!!

 ・・・。

 ・・・休もう。

 僕が明日どこで何をしていようと、世界にそれほどの支障はあるまい。

 と、とにかくもう寝よう。早く起きて、それから決めたっていいんだし。

 僕は枕の上の、二つ並んだコーヒーの缶の前に写真を置いて、何だかまるでお供え物みたいだと思いながら、でもそれを心ゆくまで眺めて、布団にもぐりこんだ。

 ねえクロ、お前は今何してる?

 お前がいない日を、一日過ごしたよ。・・・たったの一日か。もう半月くらい頑張った気でいたんだけど、一日か。

 一日で、明日もうリタイアしようとしてる?・・・だって、しょうがない!

 とにかく寝るよ、おやすみ。せめて、夢で会いたい。出てきて、くれないかな・・・。



・・・・・・・・・・・・・



 早めの目覚ましが鳴って、布団の中で、まだうじうじと考える。心はほとんど休む方に傾いてるのに、未練たらしく、様子見ながら早退とか、いや、ノー残が復活してるならむしろ行くべきかとか、考えながら時間だけが過ぎていく。・・・どっちにしても桜上水までは出るわけだから、出る準備だけしたら?うーん、うーん、どうしよう・・・。

 散々悩んで、ちょっと確信犯的にいつもの起きる時間が過ぎ、うちを出る時間が過ぎるのを、ぐずぐずしながら見ていた。時計の長針が、いつもの「あ、やばい」って場所を、ちょっとずつ、通り過ぎていく。布団に入ったまま、それを眺め続けた。・・・いや、これはもう、間に合わないんだから。休むしか、ないでしょう・・・。

 僕は布団からむくりと起き上がって、トイレを済ませ、いつも見ないような長針の位置を見て、思わず「やっほー!!」と声を上げて掛け布団にダイブした。や、休んだ!休んじゃった!!ここから僕の、僕だけの時間だ!僕だけの一日だ!!

 足をばたばたさせ、「あはははっ!」と笑い転げた。カーテンを開け、写真の黒井に「やったよ!」と下手くそなウインクを投げる。まあ、まだ別に何もしてないし、まずかったかなって不安は残ってるけど、もう、知るもんか!

 

 汚れてもいいジーパンとシャツで、<本番>の時と同じナップザックにノートや諸々を詰め込んで、意気揚々と出発した。黒井が半分幻想的な海や湖に出かけていくのとはどうにもイメージが違うけど、僕にとってはこういうのが冒険なんだろうか。・・・ゴミ屋敷の片づけが?まあ、でも、ファンタジー世界の美しい風景よりは、薄暗い犯行現場で這いつくばって髪の毛を捜している方がたぶん僕に似合っている。

 

 平日の朝に私服でいつもの電車に乗り、何だかにやにやが止まらない。か、会社を休んで黒井のうちで一日過ごすんだ・・・。うわ、何かそれって、ちょっとどうなの?もしかして大胆すぎることしちゃってる?でも、尻の財布に手を当てて、あの笑顔を思い出せば、もう!人生の最優先はあいつなんだから、会社なんか二の次だよ。

 早足が駆け足になって、桜上水から黒井のうちに着く。ああ、封筒から出してもってきた鍵を、やっぱり何とかしないとな。キーホルダーなり、携帯につけるなり、うん、もう、ピアノ線で背骨にでも巻きつけておきたいんだけど。

 玄関に入って明かりをつけ、深呼吸。ああ、薄いけど、黒井のうちの匂いがする。これだけ散らかしてくれて、そして鍵を預けてくれて、本当にありがとう。お前がいなくてもとりあえず二日目を乗り切れそう。

 携帯を見ると九時前で、慌てて会社に電話。緊張しながら呼び出し音を聞くとすぐに課長が直接出て、「ど、どうしても体調が悪くて・・・」と告げると、「お大事に」と言ってくれた。まあ、別に社員一人が年に一回休んだくらい、いいよね、やっぱり?

 ・・・。

 大きく息をつく。

 ほ、本当にこれで、正式に、会社を休んだ・・・。

「や、やった」

 玄関先でじっと立ったままでは「やっほー!」とまでは声が出なくて、控えめにガッツポーズをした。ああ、ちょっと、安心で腰が抜けそう。でも時間は有限だから、ぼうっとしてる場合じゃない。さあ、楽しい作業の始まりだ!!



・・・・・・・・・・・・・・・



 結局玄関の靴問題は、磨くことはせず、ただ異物だけは取り除くという大筋が定められ、その通り遂行された。やはり、まともで納得のいく方針であれば、細かい判断にいちいち気を取られることなく、きちんと沿えるものである。

 下駄箱を開け、不本意ではあるが、箱があるものについてはいったん箱にしまった。磨きもしないまま白くて柔らかい紙の塊を詰めておくなんて許せないけど、後で、後でやるから、目をつぶっていったんしまうだけだ。

 さて、ここに入らない、足首まであるごついアウトドア風の靴は、上の棚か。

 しかし、棚を開けるとあらかた片付いた玄関にスニーカーと靴磨きセット一式がスプレー缶とともに降って来た。もういや。

 上にはあの編み上げのブーツと、古い折り畳み傘とか雑巾とか、まあ雑多なものが雑多に入っていた。もう、背が高いんだから、ちゃんと奥から入れてよ。手前に適当に放り込むから、開けたとき落ちてくるんじゃん。

 ・・・ここを片付けたい欲求を奥歯を噛み締めてこらえ、降って来たものをノートにメモし、アウトドアシューズとともに元に戻した。背伸びするとまた足の裏がつりそうだったから、ほどほどに。どうせ後から綺麗にするから、今は放り込むだけ!!

 

 そのようにして徐々に玄関から進攻し、廊下を攻めていく。キッチンはひとまず無視して、床だけ。ここはあらかたゴミであり、ゴミ袋にどんどん投げ込んでいくのは気持ちがいい。ゴミでないものは段ボールに入れていくが、乾電池とか、袋を開けてないプラスチックフォークとかもそこに入れるけど、まあどうせゴミになるだろう。

 その中に、丸めた手書きのメモがあった。

 広げてみると、どこかの信金の粗品っぽいメモパッドに、電話番号らしき数字。

 仕事のメモかな。念のため、取っておくか。でも丸めてあるならいらないかな。

 そして、それに重なって二枚目があった。


<本気でいったの?

 いくべき?

 ちゃんと話したい

 でもなんか、話す感じじゃない!


 自分で決めるしかないだろ!>


 ボールペンの、殴り書き。

 急に、心臓がぎゅうと押されたように速くなる。

 最後の一行は、ほとんど紙が破れるかというほどの筆圧。

 僕は何だか胸騒ぎがして、一枚目の番号に電話をかけてみようかと思ったけど、何だか怖くて、携帯のネットで検索をかけた。するとやはり、芸能事務所のホームページが引っかかる。たぶん、会社の顧客じゃ、ない・・・。

 これ、僕のこと、か。役者でもやればって、あのことか。

 いや、もしかしたら全然違うことかもしれない。

 オーディションとやらで、担当者か誰かに言われたことに対するメモかも。

 それとも、例えば課長とか、人事の松山とか、別の人かも。

 分からない。それは分からないけど・・・。

 僕はメモのしわを丁寧に伸ばし、両の手のひらではさんだ。

 ・・・そうだよね。ただ、散らかし屋だからってだけで、ここまでなるもんか。

 今僕が片付けてるこれは、お前が悩んで、苦しんで、イラついて、投げ出したくなるけどやめなかった、まさにその、それ自体なんだ。僕はプロジェクトにして、計画通り遂行しようと、お前のベッドや狼にたどりつこうと会社を休んで頑張ってるわけだけど、そもそもお前はここで、僕のあんな言葉に翻弄されながら、自分の将来とか、生き方とか、中身のこととかを、悩み抜いてたんだ。

 ・・・また、お前のこと見てなかったね。

 胸がずきんと痛んだ。目が熱くなってくる。

 手のひらで包んだそれを撫でながら、その場に、しゃがみこんだ。



・・・・・・・・・・・・・・



 <自分で決めるしかないだろ!>


 確かに、そうだ。

 僕が何を言おうと言うまいと、黒井が決めることだ。

 でも、それにしては、僕が言った言葉はあまりに軽すぎる。そう、本気なんかじゃない。お前のこと<友達>としてしか見てなかったから、軽々しくあんなこと言った。そうじゃなきゃ、あんな風に言うもんか!

 ・・・でも、ってことはさ、僕は<友達>であれば、それくらいのことを言う人間なんだね。自分のこと軽蔑しそう。お前のことを軽蔑するような資格はないよ。そんなつもりはなかったと思うんだけど、でも、もしこのメモが僕のことだとすれば、お前の観察眼は正しい。<本気でいった>んじゃないし、<話す感じじゃない>。だからきっとお前がそう感じたのなら、新人研修の、あの頃の僕は本当にお前を軽蔑していたんだろう。本当に見抜いていたかまでは分からないが、鼻で笑ったことは確かなんだろう。

 そんな僕が、鍵を預かって、ここを片付けている。

 何だか急に、申し訳なくて、こんな立場にいることに、ひどく罪悪感を感じた。

 ついさっきまで、はやくそのベッドにたどりつきたいって、あれやこれやの妄想もぼとりと音を立てて地に落ちる。何て恥ずかしい人間。そうだ、こないだだって、それを謝りに来たっていうのに、結局何も言わないまま停電に乗じて自分勝手な告白。ああ、呆れて言葉が出ない。

 まあ、でも謝るといってもあの時は軽蔑したこと自体覚えてなくて半信半疑だったんだから、そんな謝罪に意味はないか。今なら分かる。きっと黒井はそんな過去の行為を謝ってほしくなんかないだろうし、僕がそれに思い当たらないならなおさら何の意味もなかっただろう。電話で喧嘩した時もそうだったけど、その時僕がそうした理由さえ関係なくて、それが今現在のあいつにとってどういう意味を持つか、その事象が<今>にどう食い込んでくるか、それだけなんだ。大事なのは過去の清算なんかではなくて、今の、納得。

 ああ、あいつは言ってた。<俺の気が済めばいいんだよそれで!>・・・そういうことか。

 ・・・。

 なら、本当に相手のことを考えるなら、あの時のことを誠意をもって謝罪するとかじゃなく、今現在、あいつに何が出来るか、ってことか。そんなの過去を勝手に水に流すようで、「まあいいよね!」って反省もしないなんてそれは悪いことだとしか思えないんだけど、あいつのためなら、そうする、べきなの?

 ・・・まあ、どっちにしても今あいつはいないんだし、そしてどちらにせよこの部屋は片付けるべきなんだし、ひとまず作業を再開するか。


 僕は、ずっと手ではさんでいてあたたかくなった例のメモを頬にあて、「ごめん」とつぶやいて胸ポケットにしまい、片付けに戻った。

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