第168話:西沢が選んだ眼鏡を買う
水曜日、桜上水から出社。あっという間に新宿に着いて、ずいぶん早めに会社に来てしまった。そしたら西沢の方が早くて、パンを食べながらもう仕事をしていた。
「お、おはようございます」
「ああ、・・・おはようさん」
静かなフロアに少し眠たげな、方言らしい柔らかい響き。いつものやかましさはなくて、少し、緊張する。
鞄からスケジュール帳などを出し、トイレやコンビニに行こうかと迷うが、結局座った。まだ誰もいない島で、二人だけ。もう五分、十分で人が埋まり出すけれども、その間の静寂。その気まずさに耐えられなかったのは、たぶん西沢の方だった。
「・・・昨日はその、ほんま、ごめんな。俺も悪かってん」
「い、いえ、いいんです、こっちこそ」
「あんな、こう見えて俺、ナイーブやからね、結構気にすんのよ」
「は、はあ」
「図々しいくせに嫌われたくはないっちゅうね、・・・分かっとんねんけど」
「・・・はあ」
昨日あんなことを考えた自分をちょっと恥じた。男でもいけないかな、なんて、どれだけ無礼なんだって話。妄想の中とはいえ、謝っておこう。申し訳ない。
「・・・せやからね、ほんまはちょっと、昨日のこと聞いて、ま、何つうか、山根君のことリスペクトしてん」
「は、はあ?」
思わず隣を見ると、西沢と目が合い、先に向こうがさっと逸らした。もしかしてこの人、いわゆる外弁慶というやつ?・・・それじゃ、ベッドで殴りつけて痛くしてくれたりしないか。いや、だから違う違う。
「その、喧嘩した、ゆうてたやん。そんなん、口では言うてもなかなか、ほんまに殴り合うまではいかへんやろ」
「・・・」
実際にそんなことはしていないので、何ともいえない。ま、ホテルは殴られたけど・・・。しかし、その沈黙は複雑な心情の肯定と取られたようで、西沢は言葉を続けた。
「うん、いくら仲良くても、俺は会社の人は無理や。飲み屋で知らんヤツに絡まれたとかそんなんはええよ、いくらでもボコボコにしたるわ。でもな、どんなにムカっ腹立っても、会社の人、殴られへん」
「あ、いや、そういうわけじゃ・・・」
「・・・あれ、あらら、もしかして、ああ、喧嘩つうても殴られた方やねんな?」
「は、はあ、まあ」
「・・・いや、いやいや、まあ、それにしてもやで。だってその後も仲良うしてんのやろ?いやあ、俺やったらそっちも無理やわ。殴ってぎくしゃくするのも嫌やねんけど、殴られて許すんも、たぶん無理や」
「まあ別に、そんな・・・」
「せやから昨日、相手になるでーゆうたのも、あれ完全にジョークやで。勘違いせんといてな」
「し、しませんよ」
「はは、そらよかった。ああ、それはそうとこの申請書のことやけどな・・・あ、おはようございますー」
島に人が来始めて、西沢の声のトーンも上がった。ふつうの業務上の話をしているうちに朝礼が始まる。さっきの話などなかったかのように、「え、それ今日ですの?山根君ゆうてくれんかったやん!」「いや、昨日説明しました」といつものやりとり。
・・・何だかむずがゆくて、朝礼が終わってすぐコーヒーに立った。二人きりの時に少し本音を漏らされるような、そしてみんなが来たらふつうに戻るような、そういう人づきあいが、胸の内側を掻きむしりたくなるようなざわつき。寄りかかるのも寄りかかられるのも嫌だし、でも、たぶん今までも見ないようにしてきただけで、本当は僕は人と話したいんだ。笑いにしたり、ただ盛り上がったり、悪口をエスカレートさせていくんじゃない、ちゃんとした話。
西沢とだって、出来るんだと思う。たった一週間隣にいたってだけで、出来てしまいそうな雰囲気を、さっき確かに、感じてしまった。もちろん、西沢にとってここがアウェーであり、だから取り入りやすいというか、無意識に僕は一段高く、彼は一段低く、・・・だから、違う人種でも会話出来てしまう土壌はあった。
でも、それだけじゃない。そういう、<場>の空気ってだけじゃない。
それはきっと以前なら感じ取ることも出来なかった、<場>じゃなくて<人間>の話だ。黒井と話していると肌で感じる、あの、深い話をする直前の、自分の本音を探る空気とか、それを言葉にして相手に話そうとする<間>。
そういう経験を何度もしたせいで、反射的にそれをしてしまいそうになるのを、無意識にこらえていた。それで「はあ」とか「まあ」とかしか言わなかった。それでも、ああ、分かったんだ。そんなおざなりな相づちしかしなくても、僕のそれが「へえ、そっすか」ではなく、きちんと伝わっていたということを。西沢が言ったことを僕が理解した、ということを西沢が感じた、ってことを僕は分かってしまった。たった一週間のつきあいで、そして、たかが五分の会話で、そんなところまで!
さっきの会話の内容としては、西沢は<会社の人>にはそこまで踏み込めないし、感情と人間関係を天秤にかけたら後者の方が優先されるって話だった。そしてそれは、俺は山根君とも一線引いてるからねって牽制と、悪意のない軽蔑もほんの少しあったかもしれないけど、でも、そのことすら僕はたぶん<なるほど、理解しました>って顔で受け入れた・・・。
黒井としてきたことを他の人に応用して、たぶん、それは、有効だった。相手の言葉を額面通りに受け取るんじゃなく、その奥を、<本音と建前>って意味の本音じゃない、その更に奥の<その人自身>を理解しようと、無意識に努めている僕がいる。欠点だろうが何だろうがそのまま理解して、受け止めて、受け入れるっていう、そういうモードが僕の中に出来てしまって、・・・そして、それを僕の中に構築したのはクロなのに、他の人にも、そうしようとしてしまっている・・・。
コーヒーを持って席に戻ると、西沢が「それ、いつもどっから持って来るん?」と。
「ああ、あっちの奥に給茶機があって・・・」
「向こう、何があるんか、用もないからわからへんわ。・・・今度、連れてってな」
「あ、・・・はい」
・・・ほら、分かってしまう。
いつもなら上から目線の「連れてってや」か、下手に出た「連れてってな?」と言うところが、イントネーションが微妙に違う。関西弁なんか分からないけど、今朝のことで、僕に少し、気を、許している・・・。
ああ、西沢に対する嫌悪感の正体は関西弁のなれなれしい雰囲気じゃない。ふいに思い当たった。それは彼がとても<男>だからだ。黒井に感じるのとは違うあからさまな男らしさが、何だかいろんな角度から僕を刺激して、それが嫌悪感という名前になってるだけだ。僕は西沢を嫌いなんかじゃない。
・・・・・・・・・・・・・・
だから、ノー残の帰りに地下通路の眼鏡屋の前で西沢に声をかけられても、「そう、ですね」と大人しく言うことをきいた。やっぱり立って並ぶと見下ろされて自分が子どもみたいに感じるけど、今まで当てつけのように嫌っていたという罪悪感もあって、つい中にまで入ってしまった。
「おー、どれ、見してみ?・・・いやいや、こらあかん」
「そうですか」
「こっちやね、俺の見立てでは」
「はあ・・・」
西沢が指さしたのは、鼈甲みたいなつるつるの、少し小さめの黒縁眼鏡。
「・・・お、やっぱりこれやん?ノンフレームなら違和感ないってのは、何つうかもう迷信よ。むしろこんくらいの方が逆にええの」
「そ、そうかな」
鏡を見ると、やたら眼鏡が目立って、何だか<いかにも>って感じだった。
「自分の<眼鏡顔>は別の人や思い?この人がどっか外歩いてる誰かやったら、まあ、こういう人おるなって思うやろ?」
「ああ、まあ確かに」
「そやろ?デザイナーとか出版関係とか、いそうやろ。うん、ええやん。こんくらいにしとき」
「うう・・・何か、何ていうか、眼鏡屋の回し者ですか」
「ははっ、ちゃうよちゃうよ。こんなん好きなだけや」
僕は西沢が自分のサングラスを見ている隙に何種類か手当たり次第かけてみたが、悔しいけれど、西沢が勧めたものが確かに一番まともに見えた。研究者とか建築家とか、まあ貫禄あるプロではなくせいぜい大学院生レベルだけど、そういう人に見えなくもない。
やたらデカくてカッコつけた茶色いサングラスを取り去って、「でも別に、自分の気に入ったのが一番ええからね」と、ナイーブで内地蔵な一言を添える。黒井にはない<嫌われたくない>気遣いと、僕にない手際のよいフォロー。ちょっとした言動からサンプルの比較対照が浮かび上がる。やっぱり面白いな、背が高くて年上でなれなれしいのに、黒井と全然違うんだ。
「・・・これにします」
「え、もう決めるん?もうちょっと、いろいろ回れば」
もちろん週末に一人で見て回ってもいいが、西沢が見立てたようなのを選んでも選ばなくても何だか微妙だし、だったらこの場で買ってしまった方が、「おお、やっぱそっちにしたんや」とか言われなくて済む。それに・・・顔がはっきり見えれば男に変な気を起こさないだろう。それを思い知るのは早い方がいい。黒井ほどのイケメンはそうそう歩いてないんだから。
「まあ、眼鏡なんて、何本か持ってたらええんやしね。また気分に合わせても、それはそれで」
「ええ、これでいいです。俺、こういうセンスがないんで、スーツでも何でも、ただ無難なものしか選べないし」
「ああ、そらもったいないね。こういうの結構奥が深いで?俺なんか、シャツはシャツ専門店でしか買わんの。形状記憶とかもってのほか。ま、ちょっとしたこだわりやね」
「へえ」
黒井とブルックスブラザーズの紙袋。あいつにもそういうこだわりがあるんだろうか。いつもちゃんと似合ってるのに、何となくそのセンスの主張が感じ取れないのはどうしてだろう。西沢の趣味は分かりやすいのに。
店員が寄ってきて、こちらへどうぞとカウンターへ促した。視力を測ってレンズを選ぶんだとか。
「ほな、俺は帰るわ。これで睨まれんと済むね、ははっ。じゃあお先!」
「はい、どうも、お疲れさまです」
何かもうひとこと言いたげな顔で、しかしただちょっと手を上げただけで西沢は店を出ていった。
後からあらためてフレームをよく見たら、ただの黒縁じゃなくて、僅かに緑がかっていた。少しつやがあって、鼈甲のような模様というか濃淡がついていて、透明感がある濃い深緑。きっとあのネクタイにも合う。視力が0.4しかなかったのにはぎょっとしたし、誰かを買い物に付き合わせて決めたことに自分でも驚いているけれど、何となく、これでよかったんじゃないかと思った。一時間近く本屋で時間を潰して、出来上がった眼鏡をかけてそのまま帰った。馬鹿みたいに人も景色も隅々までクリアに見えて、リアルすぎて少し酔った。現実って何だ、と思いながら帰って、本の続きを少し読んだ。
・・・・・・・・・・・・
木曜日。
眼鏡をして、黒井からもらったネクタイを結んで出社した。みんなが一瞬「あれ」という顔をするが、別段声をかけてくるでもない。菅野がいれば「わあ、山根さんイメチェンですか!?」とか言っただろうけど、まあ、自分だって誰が眼鏡だろうがコンタクトに変えようが見ちゃいないのだ。横田が「あらら」と漏らした他は、西沢が何度か訳知り顔で頷いただけだった。
トイレで鏡を見て、眼鏡が妙に似合ってるような気がするけど、自分の顔がはっきりクリアに見え過ぎて鏡を見ていられないという自己矛盾。眼鏡を外したら眼鏡の顔が見えないわけだし、仕方ないからネクタイだけ整えてさっさと出た。
・・・でも、ちょっとだけ、もしかしてお洒落な人に見えなくも、ないか?
西沢の言うように、ぼんやりした顔とスーツに、この縁あり眼鏡と萌黄色のネクタイがアクセントになって映えている。
そして、これ、黒井が見たら何て言うだろう、と思った。髪を切ったときのように「似合ってるよ」なんてさらっと言ってのけるのかな。長い廊下を歩きながら、無意識にまたあのシルエットを目が求めている。
ネクタイをひと撫でして仕事に戻り、頭はもう週末を目指していた。
帰宅してまた冷凍の鶏肉を食べ、家事をひととおりやって、明日の準備をした。週末はまた泊まり込みで今度こそ洗濯とクリーニング関係を片づけなくては。
バッグに替えの下着や寝間着、歯ブラシなどのセットを詰め、借りっぱなしだったスキニーパンツなんかも入れたらパンパンになった。朝、いったん荷物を置いてから会社へ行こうか。
黒井への気持ち悪い手紙を破いて、西沢のことを勝手に許したら、何だか妙に落ち着いていた。まあ、こういう凪も情緒不安定の一環かもしれないけど。
明日着るシャツにアイロンをかけながら、ああ、黒井のうちにもアイロン台を買っておかなくては、と思った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「うわ、気持ち悪っ。トカゲのストラップとか、どういう趣味してんねん!」
「・・・トカゲじゃなくてヤモリです」
「そんなんどっちでもええわ!はよしまってくれる?あー、嫌や嫌や」
「そうですか」
同行の帰りにわめき散らされるけど、やっぱりそれほどの嫌悪感はなくて、見下ろされるのも慣れてきた。客先の女性担当者が関西出身で、西沢も近くに住んでいたことがあるらしく、何だかうまいこと話が進んだので僕もほっとした。同郷のよしみというのはなかなかどうして大きいものだ。そういえば黒井の実家はどこなんだろう。訛りなんか感じたことはないけど、正月に泊まりがけで帰省していたし、どこか地方だったりするんだろうか。
実家からの電話の件が頭をかすめたが、どうしても何かあるならまたかけてくるだろう、と先送りした。こうしてぐずぐずやり過ごしているから嫌悪感と罪悪感がつのるだけだと分かってはいるけど、突然何かのけじめをつけるべく行動する気も起きないから、やっぱり見て見ぬ振り。
一瞬、そういうものを全部さらけだして、全部この隣の男に聞いてもらいたいような衝動が駆け抜けるけど、「なあ、週末、合コンの予定とかないん?」と訊かれ、「・・・は?そういうの興味ないです」と思いきり冷たく切って捨てた。
帰社して残業して帰るまでの間、今までただうるさいとしか感じていなかった西沢の言動が、眼鏡で視界がはっきりしたのと同じような感覚で入ってきて、むしろ今までよりもうざったくて仕方なくなってしまった。すぐ人の話に入ってきて盛り上げたり妙なお節介を焼いたりするのも周りに気を遣ってのことであって、そしてひいては<嫌われたくない>それであると、今の僕にはすっかり伝わってしまっていた。
そして、同時に、距離が近くなったと思った途端、急に感じる疎外感。たぶん、僕の嫌悪がなくなったことが無意識に伝わって、それで西沢は安心したんだろう。隣の席の同僚に嫌われていないって事実に満足して、僕はその他大勢の一人になったのだ。
まだ慣れない眼鏡のせいで目と頭が痛くなり、はずしてケースにしまった。ぼんやりした視界にむしろ安心するけど、西沢が他の人と盛り上がってる声はそのままだから、また横目でちらと睨みつけ、ため息。横田に対してこんな風に感じないのは、ああ、こいつが僕に対し本音を話したり、必要以上に近づいたりは絶対しないからだな。その辺、全く揺るがない安心があって、逆にすごく信頼出来るのだった。
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