第169話:それはただのプロット表
黒井の部屋に着くと、懐かしいような、切ないような気持ちになって、すぐベッドに入って寝てしまいたくなった。しかしやはりその壁は高く、少し片づけの続きをしたら持参した寝間着に着替えて、風呂にも入らずラグの上に丸まった。やたらに眠い・・・。
玄関のカレンダーに金曜まで×印をつけ、丸十一日が経った。それでも、まだまだだ。
初めはこの部屋と狼があれば大丈夫だと思っていたけど、全然だめみたいだ。泣いてしまいそう。別れたときの、「海行ってくる」と言った笑顔が浮かんで、膝を抱えた僕は本当にしょうがなくて、ちょっと笑いが漏れるほどだった。
そのまま逃げ込むように本を読んだ。ジョアンナは臨死体験の中でタイタニック号を訪れ、初めてリチャードとデートらしきことをして、しかしちっとも二人の仲は進展しない。せめてもの代替で、はやく二人が結ばれてほしい。分厚い上巻を読み終わった頃夜が白んで、太陽と入れ替わりに眠りについた。
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土曜日。起きたらひとまずタオルや下着類を洗濯して、屋上に干そうかと思ったが億劫で部屋干しした。食欲がなくて、スープだけで朝食兼昼食。コートやスーツなどいくつかクリーニングに出すものをまとめ、元僕のだったマフラーはどうしようか迷い、結局それも加えた。別に、黒井が僕のように、マフラーに顔をうずめてにおいをかいでいるわけもないだろう。
テレビもパソコンもなくて、充電器を忘れたから携帯も切れてしまうと、もうこの部屋は外部とは遮断されて、明日の天気さえ分からなかった。
日曜日。洗濯物をたたんで、とうとうクローゼットを開けた。見える範囲にはふつうの服しかない。しかも、たたんだとはいえないような、ハンガーにだってズレたまま掛かっているような、そんな状態の。
ふう、と短く息を吐き、全部を床に落とした。引き出しを開けて、下着類もすべて引っ張り出す。
全部、全部、たたみ直しだ!
自分のだってそこまでしないくせに、服屋の店先みたいにきちんとたたむ。どうして毎日スーツしか着ないのにこんなに私服が多いんだ。服なんかよりちゃんと食べ物に気を遣ってくれ。もうこのセーターも、防虫剤と一緒にしまわなきゃ。衣替えまで僕がやるの?
一番下の引き出しを開けて、<標準模型の宇宙>が見えて、慌てて閉じた。他にも本や何かが入っていたみたいだった。たぶん、<部分と全体>もここに入っていたんだろう。だとすれば、ここが唯一の、黒井の私物置き場・・・。
何秒か考えて、いや、考えるまでもない。見たりしないよ。見てもしょうがないし、見ていいはずもない。
他には、スーツがかけてあるハンガーの下にひとつ段ボールがあって、無造作に開いていたけれど、それも見ないようにして、かけてあるシャツにアイロンをかけ直した。
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月曜日。
今度は<世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド>を読みながら出社。<航路>とうってかわって、淡々として何も起こらない。主人公には名前すらない。いや、誰にも固有名詞がついていない。<世界の終り>という街にいる<僕>は、まるであのNDE(臨死体験=Near Death Experience)でお花畑にいるみたいに、突然ふとその街にいた。
短い章立てで、ファンタジー風の街の<僕>と現実社会の<私>が交互に語られていく二つの世界。会社と黒井のうちの二重生活を送る僕と何だか似ている。・・・ああ、まあそれがたぶん僕の趣味であり、僕に近いからだろう。あちら側とこちら側に分断されて、ああ、ブラックホールだって密室だってNDEだって、情報のやりとりが出来ない<向こう側>の出来事を解き明かすのが命題だ。僕はきっとそういう絶対的な断絶にどうしようもなく惹かれるんだろう。なぜかは分からないけれど。
火曜日。世界の終りの街の<僕>は、自分の心である<影>を切り離され、自分がどこから来た誰なのか、だんだん思い出せなくなっていった。
黒井のことを忘れ、思い出してもすぐに引き離され、あいつには電話もメールも出来ない僕みたいだ。僕の中身、つまり僕の<影>は黒井だ。そして本の中の<影>が<僕>に言う。地図を作れ。街の詳しい地図が要る。ここから一緒に出ていくんだ。こんなところは不自然だ。
何だか、この本を通して、クロからそう言われているかのような錯覚。
・・・地図、か。僕があいつに、地図を作る?地図のない冒険の旅に出たいと言ってたけど、そのために、旅に出るためには、何かを解き明かして、地図を作らなきゃならない・・・?
水曜日。替えのシャツと下着と靴下と、あのネクタイを持って出社した。
ノー残の一番乗りで会社を出て、黒井のうちへ。それはもはや片想いの相手のマンションというより、本の中で提示されるNDEの中のタイタニック号や、脳内の不思議な街みたいな<向こう側>の世界に思えた。
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金曜の夜、いったん自宅に帰ってきて、黒井が最後に泊まった夜のことを思い出し、それは<時間>にまつわる地図なんだとふいに思った。僕と黒井の時間の違い。今を生きている本の中の主人公と、その軌跡をたどるように読んで再構成する僕。
しかし、あまりに漠然として、ノートを前にしても何もまとまらない。物理学的な、空間とともに伸び縮みし、ブラックホールで凍る<時間>。そして、僕と黒井の、精神的な感じ方。
時間は常に未来に向かって流れる。割れたグラスがしゅるしゅると元に戻っていく時間などない。
同様に、物語もただその一点に向けて流れていく。主人公はそれについて、ほんの違和感から始まり、謎に取り囲まれ、やがて巻き込まれながらのめり込んでいく。そしてついに真実に行き当たったときにはもう遅い。あとは自分と向き合い、真実と対峙し、何かを決意し、覚悟し、決着をつけるしかない。
僕は、自分が黒井に会ってからの交流を書き記したのと同じように、それぞれの本で、いつ何が起きたかを簡単に書いてみることにした。あの忘年会の夜、黒井が桜上水で吐いて泊まりが確定した瞬間みたいに、主人公たちもいくつかの分岐点を経て謎に巻き込まれていく。そんな主要な場面をピックアップし、全体の何割くらいの地点でそれが起こったのかページ数で見ていくと、二冊ともほぼ似通った結果になった。電卓でパーセンテージを計算したって、ほとんど同じだ。
僕はもう一度ノートに書かれた数字を眺め、もう眠くてぼうっとする頭で、大きく<ブラックホール性を有している>と書いて寝た。
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起きて、シャワーを浴びて、冷凍のパンをトーストして食べてからノートを見ると、ああ、何だこれってただのプロット表じゃん、と思った。そうだよ、ミス研の時何度か戯れに自分でもミステリ小説を書いてみようとして、でも書き始めるどころか見本をちょっと分析して終わるだけだった。その時、小説の書き方みたいな本を図書館でちらりと見て、人物設定だの世界観だのと一緒に、プロットを立てるとかそんなことをまとめたんだった。活用されることはなかったけど。
それなら、何も僕が電卓叩いて解き明かさなくたって、こんなのは当たり前のパターンだったわけだ。こんな<地図>、いくらでも売ってる。
試しに<プロット>でネット検索すると、ほら、いくらでも出てきた。作家を目指す人のためのプロット講座、プロの脚本家が教えるプロット術・・・。
その中で目を引いたのは、<映画ライターズロードマップ~プロット構築・最前線の歩き方~>という、ハリウッド脚本家によるガイド本だった。マップ、という字に惹かれ、明日届くかな、とアマゾンで注文した。
そして、注文してだいぶ経ってから、脚本といえばあいつは演劇部で、<コペンハーゲン>の脚本がどうとかでもめて、って話をようやく頭が引っ張りだしてきた。
もしかして、こんなことは当然知ってた?
僕みたいに読む専門じゃなく、舞台を自分たちで組み立てていくわけで、知ってるというより使いこなして、とっくに体に染み込んでる?
・・・っていうか、まあ、たとえそれを横に置くとしても、この地図は一体ぜんたい、誰にとって、何の役に立つんだろう??
・・・。
とりつかれたような刺激が切れて、僕はノートを前に呆けた。確かに興味深いけど、・・・それだけだ。小説家や脚本家になるなら興味深い事例かもしれないが、それ以上の何の価値がある?それにこの、<ブラックホール性>とかいう意味不明な、しかも無駄に確信に満ちた走り書きは何だ。意味わかんない。もう、牛丼でも食べに行こう。
・・・・・・・・・・・・・・・
プロットの地図や<ブラックホール性>にいったい何の意味があるのか分からないけど、ジョアンナも<私>も最初は手探りで進んだんだ、と思い直した。ちょっとした手がかりから細い糸をたどって、とにもかくにも先に進むんだ。
まずは、新しいページに<ブラックホール性とは何か>と見出しを書き、順不同に箇条書きにした。
・暗い
・外から見えない
・外界から完全に隔絶されている
・時間が止まっている(中では流れている)
・一方通行で、決して帰ってこれない
・何かを飲み込むと、大きくなる
・中心に<何か>があり、それを覆う空間の中がその世界である
・<何か>は完全な未知である
・世界を形作る要素は限られている
・特殊な方法で、中の投影を読み込むことが出来る可能性
いくつかはNDEのタイタニックにも<世界の終り>の街にも共通している。まるで竜宮城だ。この世ならざる異界に時間はなく、一度行ったら帰れない・・・。
いや、むしろ、おとぎ話のような<向こう側>の条件を、物理的な存在であるブラックホールの方が兼ね備えているというべきか。ああ、だからこんなに惹かれたのか。暗黒を具現化したようなこの星に。
翌日、早速本が届いた。
そこには、僕が書いていた地図とほぼ同じ<プロット・ライン・グラフ>が事細かに解説されていた。プロの脚本家が何百本も映画を見て編み出したものと、僕が昨夜二冊の本から導いたものがほとんど似通っていることを、ふふんと誇りたくもなるけれど、まあそれは早計というものだろう。ドーナツを食べて、小麦粉と揚げ方に秘訣がありますね、と訳知り顔でうなずくようなものだ。
しかし、プロット運びのコツはともかくとして、重要なことはもっと別の所にあった。
本の要点はこうだった。つまり、物語というのは第一幕から第三幕で成り立っている。第一幕で主人公の古い主張が語られ、第二幕でそれが壊され、第三幕で生まれ変わる。主人公は<敵対者>(悪者という意味だけでなく、恋の相手とか戦争とか、主人公を振り回す対象すべてのこと)と何度も交戦し、対峙することで傷つき、やがて心的葛藤と本当に向き合うことになる。そして、それを乗り越える。
昨日の二冊にそれを当てはめ、どの場面がどれに当たり、敵対者とは誰で、主人公のトラウマがどのように引き出されたか、しかし考えていくうちに、僕は黒井のことを考えていた・・・。
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月曜日。せめてもの慰みに萌黄色のネクタイをして「おはようございます・・・」と早めに出社。「元気ないやん」と西沢に慰めてもらい、みんなが出社してその八方美人が始まるまでだけ、いくらか親しく会話した。
地図、のくせにその行く先もよく分からず、<向こう側>の先も見えないまま日々が過ぎた。いつの間にか早めに行くのが常となって、毎朝ほんの五分のやりとり。最初は「今朝は早いなあ」だったのが「おはようさん」だけになり、やがて、ほんのちょっとしたお菓子や何かを交換するようになった。<ヨーグレット>を食べていたので懐かしいと言ったら一つくれて、翌日ガムをあげたら、次の日にはのど飴という具合。やがて週末には個包装のクッキーをもらった。その赤いチェック柄を見て何かを思い出し、それを明確に頭が思い出すより前に息が止まった。
「・・・どしたん?」
「あ、い、いや。・・・どうも、いただきます」
「ええのええの。俺ね、このシリーズ結構好きやねん。それはショートブレッドで、他にチョコチップもうまいし、それに・・・」
三月の記憶を引っ張り出し、あの時もらったのは、チョコチップクッキーだった。菅野にお返しをあげるよう諭して僕の余りをあげたら、食べかけだったけど、確かに「あげる」と言われて、もらった・・・。あの時の僕は恋をしていなくて、まったく気にもかけなかったんだ。
い、いや、ただの成り行きというか、偶然だろう。ホワイトデーに、オランジェットのお返しのクッキーをもらってたとか、そんなこと・・・。でも、だったらまさか、両想い?
「そないに嬉しかったん?」
「・・・っ、そ、そう、ですね」
「ふうん、好きやの?」
「えっ」
「・・・そんな、恥ずかしいことないで。別に、男やからて、そんなん好きなもんは好きやろ」
「・・・え、えっと、いや、それはそうですけど」
「俺もね、いや、山根君やから言うけど、ほんまは好きやねん」
「そ、そうなんですか?に、西沢さん、も?でも、だっていつも、女の子の話・・・」
「うん?ああ、俺、女の子には言わんとくのよ。一応硬派で通ってるつもりやからさ、ははっ。あ、よかったら、今度そういうお店行かへん?男二人で・・・ってやっぱ入られへんか!」
「あ・・・、すいません、俺」
「うん?」
「・・・えっと、その、・・・決まった相手が、いますので」
「ええ?そういう相手おるの?男で?」
「・・・はい」
「それはええね!で、どこの店行くん?新宿の、この辺にもある?」
「・・・み、店とかって、あんま、よくわかんないですけど」
「え、ほんなら、どうすんの?まさか家で?ああ、自分で?そんな本格的な?」
「ほ、本格って、何ですか。まだそこまで・・・」
「ケーキとか焼くん?」
「・・・」
・・・な、何の、話だ?
「ああ、何か誰かがちらっとゆうてたな、山根君料理もするんやっけ。うわ、そんで、男だけでスイーツ同好会?あれやね、オトメンってやつ!」
「・・・おとめん?」
「あ、いや、スイーツ男子いうんかね。うわー、山根君そういう一面あったんや。今度クッキーとか焼いてきてや!」
こうしてよく分からないまま僕は甘いもの好きということにされてしまい、でも今更「決まった男の相手がいる」なんて部分を他の形に訂正できないから、何となく合わせるしかなかった。いやいや、黒井に誕生日ケーキとか、焼いたり、とか・・・、え?
それはちょっとナシじゃない?
うん?っていうか、誕生日、・・・プレゼント?
誕生日。そう、誕生日というものがあった・・・。
もし僕がスイーツ男子のオトメンでほんのちょっぴりオネエ系入ってる?みたいな感じだったら、「ねえこれ可愛く出来たから、クロに似合うと思って!」なんて、手作りの雑貨でも服でもお菓子でも、リボンをかけてプレゼントとかしちゃっても許されるんだろうか。・・・いや、そんなの僕じゃないです。っていうかその前に、・・・誕生日プレゼントなんて、友達にあげたことないんですけど。しかも今度三十歳になるって人に何をあげたらいいのかなんて、さっぱり思い浮かばないんですけど。
金曜日。三十二歳だという隣人にそれを質問し、「三十の時には親父殿からペリカンの万年筆をもらって嬉しかった。友達からは服や鞄、あとワインをもらったと思う」とのこと。
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