第170話:僕が、小説を、書く

 土曜日。

 黒井のうちのカレンダーに×をつけていき、部屋の主が帰るまでようやく二週間を切った。次の週末がくれば、もうすぐだ。

 片づけもあらかた終わって、かけられるものすべてにアイロンをかけてしまうと、やることもなかった。暇なのでコンビニでクロスワードパズルの本を買ってきて、一ページずつ進めた。


 情緒不安定が徐々に現れはじめ、黒井が帰ってきたら何をしようかと意気込む僕と、あと十日も生きていられるだろうかと目が据わる僕。電車の中でクロスワードパズルをやるようになったらちょっともうまずいかもしれないと思った午後にはそれをやっていて、もう、推理すらいらない写経でもしようかな。

 

 また<影>が言った地図のことを思ったり、人生の縮図としてのプロットのこととか、ブラックホールと<向こう側>のことを考えたりした。そして、小さな気づきがあるにしてもないにしても、それが何の役に立つんだ、と思って切り捨てた。そしてそもそもあいつだって、教えてほしい、じゃなくて、いつも言っている。「一緒にやって」と。

 ・・・電車の中でひゅうと腹が透け、あいつが今もそう思ってくれてるといいけど、と願う。ひとまわりも年下の後輩が、その若い感性で僕の座を奪っていませんように。サバサバして包容力のありそうな、人事の松山に取られていませんように・・・。


  

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 月曜日。帰ってまたしつこくプロット表を眺めながら、あいつの人生を救うとかいうおこがましいプロジェクトはやめて、自分の情緒不安定をどうにかしたらどうだ、と自分に言われた。

 ああでもないこうでもないと理屈をこねて、それにも飽きていったい自分は何をやってるんだろうとぼうっとし、また地図を眺めて、ふと、ああ、これはプロット表だ、と分かりきったことを思った。

 ・・・物語を、書くための地図だ。

 僕に出来るというなら映画を撮るでも舞台をやるでもなく、ただ紙やパソコンに向き合って小説を書くことだろう。

 ・・・小説を?

 ミス研時代や、ミステリを毎日読みあさっていた頃は、やれこのトリックは使えるだの、このどんでん返しはいいだの、そんなことを何となく思い描いた時期もあった。明確に自分がミステリ小説を書いてやろうという目標もなかったから形にはならなかったけど、まあ、映画や冒険旅行に比べれば慣れ親しんだ領域ではある。

 ・・・え?

 地図、を元に、・・・小説を書けっていうの??

 僕が?

 僕は驚いた顔で何秒か固まり、しかし、いやいや何おかしなこと言ってんだ、と切り捨てるにしては、胸がざわついていた。何の役にも立たないし理屈もないけれど、・・・いや、まさか、え、僕が?

 そして僕は<ロードマップ>を開いて、<臨戦態勢のライティング>という部分を読み始めた。



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 計算ずくでひねりだしたものよりも、思いもかけず出てきた、自分でもびっくりするほど突飛なアイディアの方が、往々にして意外としっくりきたりする。

 そして、主人公の名前は<ミドリ>だというのは、ただふと浮かんできた。たぶんネクタイの緑を見たせいだ。彼はたぶん少年で、そして彼の身に何が起こるかといえば・・・、当然、決まってる。

 死体を発見するんだ。

 それは血なまぐさい抗争で撃たれたヤクザなんかじゃなく、もっと幻想的な・・・未知の生物。いや、首長竜だの河童だのそういうファンタジーじゃなく、もっと実際的な死体だ。大人たちがそれをバイオテクノロジーに活用しようと争奪戦が始まるとかでもなくて、もっと静かで、現実的で・・・。

 僕は何だかわからない、しかし死んでいることだけは分かるその物体を部屋に持ち帰って、ピンセットや針や工作用の細いカッターなんかでそれを調べる手つきを思い浮かべた。そして、うっとりした。僕には死んで加工された鶏肉を切り刻むことくらいしかできないけど、ミドリならもっと全体的なことが出来る。横にタバコや一円玉を置いて写真を撮り、その身に深く突き刺さった何かを抜き取ってシャーレに置いたり、ルミノール反応を見たりする。スケッチをして細かい質感をメモしたり、においをかいだりする。

 ・・・何て素敵なんだろう!!

 出来れば地下室みたいなラボがほしいけど、そんなの持てるわけもないから、どこかの、狭い倉庫の中とか?スチールの棚と作業台と段ボールと折りたたみ椅子がある・・・ちょうど会社の発送部屋みたいなところだ。そこに死体を持ち込んで分析し、分類し、丁寧に保管する・・・。

 考えるだけでわくわくした。素晴らしい!延々とその作業の様子を克明に記録したものを読みたいし、映像化したものを静かなサントラとともに観てみたい。音楽。ああ、もちろん静かでゆったりとしたものが好ましい。その倉庫には場違いに高級なコンポが置いてあって、いつもとても静かに音楽がかかっている。クラシックのピアノ曲あたり?いや、リズムだけ延々かかっているトランス系とかでもいい。死体にはいつも何がしかのコードなり印なりが振られていて、それに合わせてCDを選ぶというのはどうだろう。あるいはコードを入力するとそのとおりに例の仮想少女がその場で歌ってくれるとか。

 イメージしたのは<世界の終り>の<僕>の静かな生活と、NDEの中のタイタニック号。それから海外ドラマ<FRINGE>の、毎回違うのに繋がりがありそうな異形の死体群だった。

 しかし、他にも入れられそうなアイディアはいくらでもあった。物理学も、ブラックホール性のある<向こう側>も、<本番>の建物も、そして、黒井に似た、いわくありげな人物も・・・。



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 火曜日。

 未知の生物の死体とはどんなものだろうと考えていると、それが僕の前に差し出された。もちろん僕がそういうものを探しに六本木の青山ブックセンターの二階へ上がったのであって、宇宙の何とかパワーがどうとかしたわけではない。人は見たいものを見るというだけだ。

 それにしても、と思った。

 その本を、中もろくに見ないまま購入した。ちょっと日ヤケすらした、古い本だ。いつもは見ることもないアート・哲学系の棚にあった薄い文庫本。妖怪絵巻や幻獣辞典にはさまって、その異形の生物は僕を待っていた。

 <鼻行類~新しく発見された哺乳類の構造と生活~>。

 ダーウィンフィンチのように太平洋の群島にしか棲息しないその生き物たちは、核実験によって島ごと絶滅させられてしまったらしい。そして、カンブリア期の気の狂ったような進化の産物のように、ごく控えめに言って、大変気持ちの悪いフォルムをしていた。

 

「山根君、本読むん?」

「・・・え、ああ」

「俺もね、最近遅ればせながら<永遠の0>読んだわ。いやあ、泣けた泣けた」

「そうですか」

「・・・山根君はどんなん読むの?」

「推理小説です」

「へえー、推理小説。赤川次郎とか?・・・東野圭吾とか?」

「・・・いえ」

 どうして誰に言ってもそれしか出てこないんだろう。っていうか、ミス研としてどうかとは思うけど、どちらも読んだことないです。

「ああ、ちょっと前、誰かに貸されて、あれや。<謎解きはディナーのあとで>」

「・・・いえ」

 そういうキャラクターノベルに興味はない。いや、読んだことないけど。

 そして、僕の微妙な好みやマイナーな作家の紹介も面倒なので、この一言で済ませる。

「<ダヴィンチ・コード>のシリーズが好きです」

「ああー、そうなんや」

 その割にはまだ新刊を読んでないんだけどね。

「休みの日は本ばっかり読んどるん?」

「・・・そうですね」

 確かに、黒井がいないと僕には読書しか残っていないようだ。

「へえ、本の虫なんや。自分で書いたりもすんの?」

「へっ?・・・な、何がですか」

「いや、何か、そんな風に見えるもん」

「はあ?」

 たまにベストセラーの文庫を読むくらいの人にとって、本の虫イコール作家志望なのか?本も読まずに遊び歩いているとそういう頭になっちゃうのか?何だかいろいろ、滔々と問いただしたい気持ちになるが、ぐっとこらえていると西沢はさっさと他の人と違う話題に移っていた。そしてしばらくしてから、ああ、まだ書いてはいないけど、僕も書き始めようとしてるのか、と思い至った。リア充の読みも案外正しいようだ。


 帰りの電車で、理系のノンフィクション特有の横書き、カンマとドットの文体に目を滑らせる。挿し絵というか、件の生き物のスケッチ画が出てくる度、思わず頭を後ろにのけぞった。眼鏡を外して胸ポケットに入れる。絶滅してよかったなと思えるほど、正視に耐えない哺乳類だ。

 というか、ちょっと、疑わしい。

 本当に、最近になって新しく発見された哺乳類なんているのか?細かい新種や亜種とかじゃなく?

 ハナススリハナアルキなる生き物のスケッチをさっさとめくって、少し考えた。

 ・・・ネズミを飲み込んだヘビをツチノコだと言い張るような感じか?

 どこかの部族にフィールドワークに行った民俗学者が先祖返りを体験して、すっかりそちら側の信奉者になってしまった感じ?

 如何せん、作者はスウェーデンの生物学者といわれてもどのくらいアカデミックな存在かぴんとこないし、在野の研究者が何とか伝説を追って、ここが邪馬台国だの蓬莱山だのと強引に結論づけているのとどれくらい大差ないのかよく分からなかった。ただ、生物学的な考察がやたらに詳しいことだけは確かだ。何とかハナアルキの鼻の骨がどう進化したとか、何の筋肉で飛び跳ねるとか、特に知りたくもないことが延々と書いてある。その先にはツチノコもあの世の存在も何もない。ただ、絶滅してしまったからもう知りようがないという、「だから何ですか?」といった風情があるだけだった。

 ・・・いったい、どこまでが本当のことなんだ?新しい哺乳類に関する全ての資料が島ごと失われて、ぎりぎり残ったものがかろうじてこの文庫本になっているって、ネットのない時代ならありうることなのか?

 失われた生物、失われた情報・・・。

 傾げた首が戻らないまま駅に着き、帰宅した。



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 水曜日。

 発送部屋で、鼻行類の進化系統樹をノートに一覧でまとめてみた。五秒に一回ほど首を傾げながら、自分でも何をやっているのかよく分からない。ただ、こんな狭く薄暗い部屋で、ミドリはこういう、手に持てるくらいのサイズの意味不明な死体を調査していたのだということを、実感してみたかったのだ。まあ、いわゆる、取材?

 

 ノー残の帰りにはブックファーストに寄って、次の資料を物色した。気分はすっかり作家だ。領収書でももらおうかな。

 生物学の棚を見ていると、新訳の<ビーグル号航海記>が出ていた。確か黒井が言ってたっけ、ダーウィンがガラパゴスに行ったのは二十五歳だとか?ぱらぱらめくると、どうやら本当のようだった。志願して無給の博物学者として五年間の航海に同行?GPSもない時代にこんな距離を、生物学の論文どころか、よくもまあ死なずに帰ってきたものだ。

 ポイントカードを出して、早速上下巻を購入。結構高いけど、いえ、これは資料ですから。

 何となくこれだと思ってためらいなく決める買い物ほど楽しいものはない。今日はこれを黒井のうちで読もう。ああ、部屋にいながら世界一周の冒険旅行!・・・黒井は実際に海へ行きたいだろうが、僕は本の中でも十分楽しめるみたいだ。いや、だから、インドア派なんだってば。



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 僕は、物理学合宿を終えて電話で話した大人の<何とか通信>の時の黒井と、想像の中で勝手に握手をした。

 ・・・お前の言うとおりだ。

 僕より年下で、どうしてこんなに博識なんだ?どうしてこんな命知らずな旅の中で、まともに調査が出来ているんだ?

 ダーウィン青年は悪天候や食糧難やインディアン狩りや、その他のあらゆる危険をすれすれで生き延びつつ、新世界の生物を観察し、記録した。生物だけではない、地層や天候や植物、文化人類学など、どれもトップレベルの知識を持っていたことは疑いない。もちろん航海を終えてイギリスできちんと推敲してから出版したのだろうが、それにしても、ただ知識があることと、それを文章にして読みやすく書き連ねることは、こんなにも比例する能力なのだろうか。当時(今も一部で)賛否両論を巻き起こした<進化論>のひげの西洋人というイメージはさっぱり崩れて、その青年は頑健でバイタリティと好奇心に溢れ、かつ冷静で現実的だった。

 そして、僕は<鼻行類>の怪しげな文庫本を取り出し、しかし、観察眼としてはまったく同じにおいを感じた。一方は世界史に残る偉人、一方は全くすべてがうさんくさいけれども、それでも、生き物に対する姿勢が同じだ。どんなに気色悪くともためらわず捕まえてきて解剖し、特に悪いとは思っていないけれども、「犠牲になってもらった」という感じで胃の内容物を調べる。たぶん、動物博愛の精神というのはごく最近のものなんだろう。まあとにかく両者とも、ただ「知りたい」というシンプルなものに、しかし強烈に突き動かされているようだ。

 しかしこの、その動物や何かについて知り得たことをひたすら惜しみなく、たたみかけるように綴る様子には、何だか妙に親近感を持った。知ることが楽しくて仕方ないという無邪気な様子と、とにかく表の空白を埋めるんだというコンプリート欲のような執着が同居して、たぶんその二つが重なるとこのような博識と行動力になるんではないか。


 僕はシーフードピラフもどきを食べながらベッドで南米を一周し、船から幻想的な夜光虫を見た。ミドリも、倉庫から連れ出して航海に出してやろう。ああ、読む本読む本に影響されそうだが、仕方ない。

 二時を越えて、いい加減眠くなってきたところで本を閉じ、電気を消した。クロの声で読み聞かせてもらったらどんなに幸せだろうと思いながら寝た。



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 木曜日。

 黒井が帰るまで一週間を切った。

 僕は読書と、その先の何かを書くという目標によって何とか正気を保っていた。寂しさというより、不在に慣れていくことに対する怖さはあった。

 ・・・黒井が帰ってくるのが、怖いのか。

 僕はほんのちらり三課を振り向き、その空席を視界に入れないうちに前に向き直った。西沢が、ん?という目で僕を見る。僕はしれっと少し首を振り、何でもないと示す。・・・ああ、この人にも慣れてしまった。

 ・・・あ、もしかして。

 黒井も、慣れてるのか。

 若人たちに囲まれて、もう全員の名前を覚えてる?大勢と暮らす合宿生活に慣れている?

 僕のこと、覚えてるかな・・・。

 早く会いたいという気持ちと、でも、今は何となくいつまでも先延ばししたいという気持ちの方が少し上回っているようだった。それは、一つしかない貴重な回復アイテムをラスボスまでとっておこうという備えの気持ちで、本当にどうしてもだめになるまではもったいなくて使えない。我慢できるところまでは自力で何とかしたい。

 

 しかし無情にもさっさと週末になり、こういう時ばかりやたら早く時が経つ。もう、最後の土日だ。どうしよう。

 朝から桜上水に出向き、買い物。

 リストアップしたものをひたすらかき集めていく。防虫剤、研ぎ石、消臭スプレー、ちょっといいハンガー、靴べら、小物入れ、替えの掃除用ブラシ、他諸々・・・。

 部屋の整理をしながらダーウィンの航海日誌を読みつつ、冷凍しておけるおかずをいくつか作っておこうと考えた。・・・しかし、いったいどこまで自分が出しゃばってもいいものか、若人に囲まれた黒井を思うと、何ともいえなかった。そして、千葉へ行った日の朝、あいつが僕の乳首を吸ったことを思い出して、まともに赤面した。

「も、もう・・・しちゃうからな!」

 昼間から布団に潜り込んでよからぬ妄想を始めたが、どうにも浮き足立ってしまい、やめた。せめて夜まで待とうか・・・はは。


 そして夜には、情緒不安定が戻ってきた。でも、いつもみたいに爆発しそうな苛立ちはなくて、主に戸惑い。

 読書だ、航海だ、と言い聞かせ、本を読みながら寝た。

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