第171話:煩悩と、ミドリの船

 週末。

 急激にえろい気持ちが沸き上がって、またあの、屋上で喧嘩した後みたいに、発狂しそうだった。今まで感じたあいつの体温が次々によみがえってくる。

 腹が透けて、身体が疼いた。

 ビーグル号の博物学者に割り当てられた船内のベッドのつもりが、いつの間にかもう、好きな人が寝起きしていたベッドにしか思えない。顔がうまく思い出せなくて、ただ、においとか、舌の感触とか、髪の感じとか・・・。

 ・・・。

 キスの回数を数える。口移しと花びらを取られたのも入れたら、7回・・・。

 そ、そんなに・・・。

 俺と黒井の唇が重なった回数が、7回。ひい!そんなのもう、偶然じゃないよね。そんなにしたら、確信犯だよね。俺もあいつの乳首が吸いたいよ。それから身体中舐め回したい。ああ、そういえば、暗くて何も見えなかったけど、あいつのあそこに、口づけちゃったんだっけ・・・。う・・・わ、ちょっとやばい。それちょっとまずい。どうしよう、はちきれそうだよ。止まんない。お前、舌もあそこもえろすぎる。でも自惚れを抜きにして、本当にどうしてあんな人が僕なんかとこんなあれこれをしてるんだろう。最初の研修で嫌な思いをさせたのは分かったし、だからこそ近寄ったというのも聞いたけど、それで何かに納得して終わるでもなく、復讐的なことをするでもなく、こうして僕は今この部屋にいる・・・。

 どうしよう、勘違いしちゃいそうだよ。やっぱりお前が俺のこと・・・、いや、だめだ、そんなこと言われても、不安になるだけだ。本当なのかな、いつまでなのかなって、一歩も動けなくなりそう。嫉妬に狂って鎖を繋いでしまいそう。でもそんなの間違ってるから、やっぱり僕も、お前からその言葉を聞いちゃいけない。その三文字を聞く瞬間をありのままに喜べない僕は、一秒ごとの不安に押し潰されちゃうよ。だから言わないで。でも、キスはしてほしい・・・。そして、その先も・・・。

 ああ、もう、まずいって!

 ・・・ごめん!



・・・・・・・・・・・・・・・・・


 

 ・・・我ながら、あられもない醜態だった。

 どれくらい、声を出しちゃっただろう。隣人に聞かれてないことを祈る。

 ちょっとだけ落ち着いて、冷水をかぶりたいような、じわじわと、あるいは猛烈な羞恥心。何とかしてこれを水に流してしまえないか?

 ちょっと痺れたような下半身に無理矢理ジーパンを履いて、外に出た。さすがに、自分でも今のはどうかと思う。いやいや、思い出すんじゃない。でも、ああ、だめだ、また視線が男の尻を追っている。あいつが帰ってきたらそれを、俺に・・・いやいや!だから、落ち着いてください!

 ・・・これはもう仏門にでも下るしかないな。あいつの顔も思い出せないまま、その身体だけ妄想するなんて最低だ。もうちょっと綺麗でまともな頭にすげ替えられないか。

 クリーニング屋で出していたコートを受け取り、結局また本屋に出向いた。興味をまた別に向けようと企んだのだが、何だか失敗だった。

 ・・・これ、何?

 文庫本コーナーの奥にライトノベルやアニメ系っぽいのが置いてあり、いつもは素通りなんだけど、ふと見た表紙のイラストが、どうみても男同士でラブラブな雰囲気。これがBLというやつ?何、アブナイ生徒会室?オレと奴隷の子猫ちゃん・・・?まるでAVみたいだな、こういうのを年端もいかぬ女の子が読むわけ?っていうか、男同士で、どこまで、してるわけ・・・?

 手にとってぱらぱらめくるような行為が出来るはずもなく、目をそらして足早に通り過ぎた。率直に言えば気持ち悪い。でも人のこと言えやしないから、やっぱり何とかしなくちゃ。

 そして徘徊の末にたどりついたのが、・・・写経だった。

 ああ、これがいい。

 脳トレコーナーの、ナンプレなんかの横で見つけた<般若心経ドリル>。うわ、これ、僕やるべきです。帰ってすぐ始めます。


 えんぴつでなぞるドリルだったけど、もうちょっと本格的にやった方がよさそうだったので、コンビニで筆ペンを買って帰った。

 飽かずにわき起こる煩悩を抑える目的だけど、ああ、これでも死体の第一発見者を目指しているんだし、「南無」なんてお弔いの一言でなく、般若心経くらいさらっと唱えられたらいいよね。そうそう、ミドリだって拾った死体をどうこうする前に、日本人なんだし、ちょっと手を合わせてお経くらい唱えないと。

 解説を読むのもそこそこに、書道家プロデュースの特製筆ペンとやらで、えんぴつ用の細い下書きの文字をなぞっていく。写経体というちょっと変な漢字だ。ああ、でも、丁寧になぞったらそれなりに見えるから、ちょっと気持ちがいい。意味は分からなくとも、漢字の形というか、ビジュアル的にデザインがいい。


 そうしてしばらく無心で、とはいえなくとも、夢中で写経をした。思ったよりもずっと清々しい。ネットもテレビも、時計すらない部屋で黙々と字を書いていると、身体の無常をぼんやり夢想するフラットな僕に戻っていくようだった。お経なんて説教臭いかと思ったけど、とんでもない。どことなく素粒子や量子力学を思わせる教えだ。ええと、二千年前?

 ・・・宇宙の極上ミステリ、やっぱり、やってみようか。

 僕にはとても無理だけど、ミドリくんになら任せられるかもしれない。僕はどこへも行けなくても、彼ならどこにでも行ける。船にも乗れるし、外国へも、海の中でも、大学院でも研究所でも、どこへだって。

 素粒子、量子力学、ブラックホール、それから一方通行の<向こう側>、投影される情報、色即是空・・・。

 何かを求めたいという気持ちがあった。

 知りたいし、気づきたいし、ああ、そうだったのか!と理解したい。そのためにはとにかく情報を集めたい。材料を箱いっぱいに集めて、夜中、部屋でそれをひとつずつ検分しながら推論を組み立てたい。それはきっとビーグル号のダーウィンであり、気色の悪いハナアルキたちを観察した(あるいは創造した?)生物学者たちとたぶん同じだった。僕は世界中、様々な体験を求めて渡り歩きたい気分にもなるけど、でも、こうして部屋で写経するだけだって今のところ十分だ。それに、どんなに世界を回っても量子をこの目で見ることは出来ないんだし。


 夕方になり、僕はひととおり部屋をもう一度点検し、片づけた。どうしてもどこにしまえばいいか分からない、あるいは捨ててもいいものか不明なものは段ボールにまとめてあって、それだけがいまいち汚いけど、仕方ない。

 寝間着や歯ブラシや、私物をすべてカバンに詰めて、黒井がいつ帰ってきてもいいようにした。最後に、冷蔵庫のハイネケンを一本頂戴して鍵を閉め、飲みながら帰った。



・・・・・・・・・・・



 月曜日。

 会社で朝の十分間の写経タイムを取りたいが、おもむろにそんなことを始めたら絶対に西沢がつっこんでくる。それが嫌で、だから、はじめからきちんと説明しておくことにした。これで、明日から朝の無駄なおしゃべりタイムを過ごさなくて済む。っていうか、ほら、黒井が見たら嫉妬するかもしれないし?・・・なんて、やっぱり写経しなきゃ。

「西沢さん、おはようございます」

「ああ、おはようさん」

「ちょっと話があります」

「え、なに?何やの朝からあらたまって。なになに?俺何かした?」

 西沢が椅子をこちらに向け、放り出していた長い足を引き寄せる。僕も座って向かい合わせになり、切り出した。さらっと言ってなあなあになるより、最初にガツンと言っておかないと。

「西沢さん」

「な、何や」

「僕はこれから写経をします」

「・・・へ?」

「毎朝やるつもりなので、未熟者ゆえ、邪心煩悩が入らないよう、何卒お気遣いいただけませんか」

「・・・ごめんやけど、いったい何をゆうとるの?」

「写経をすると言ってるんです」

「しゃきょうて何?射精?・・・あ、あかん、こらえらいこっちゃ」

「・・・」

「いやいや、そんなこと言うつもりなかったんよ!ほんまよ、俺そんな朝から下ネタかます人間やないよ?信じてえな!お願いやからその無表情やめて!ははっ!」

「・・・もういいですか?」

「はい、はい、もう嫌やわ。何でも始めたって?黙っとくから」

「よろしくお願いします」

 しかし、本と筆ペンを出して書き始めると「黙っとく」期間は終了したらしく、「うわ、どしたの山根君、何かあったの?」と来た。ああ、意味なかったか。

「だから言ったじゃないですか」

「そらそうやけど、何、身内に不幸でもあったん?坊さんならはるの?」

「・・・いえ」

「ちょお、何よそれ、いきなりどうしたん?心境の変化?何か、悩みでもあるんなら俺聞いたるよ?こう見えて結構聞き上手やから」

「・・・そうですか」

 聞き上手?もし本当にそうだとしても、今は何も訊かないでほしいんだけど。

 その後も質問と感想と独り言が続き、結局ろくに書けなかった。ああ、ヘッドホンでもした方がいいか。読経のCDとかあったよね。書きながら耳でも聴いたら更に効くんじゃない?よし、明日からそうしよう。

「あれ、もうやめてしまうの?全然書いてへんやない」

「・・・また明日にします」

 僕が引き出しに本をしまうと、一言、「明日休みよ」と。・・・あ、祝日か。



・・・・・・・・・・・・・・・・・



 祝日。

 ノートを見返して、インプットしたものをアウトプットしてみようと思った。

 僕はパソコンのメモ帳を立ち上げて、プロットが完成していないことに不安と罪悪感すら感じながら、それでも、思い描いた情景をそのまま文字にしていった。あの日暗闇でカチャンと音がして、思ったことがそのまま発音されて、好きだと告げそうになったあの時みたいに。こんなの絶対だめだ、辻褄が合わなくなるし、時系列も伏線もごちゃごちゃで、しかも自意識過剰な自己満足小説になる。

 でも、いいじゃないか、誰か人に見せるわけでなし、自己満足で十分だ。

 でも、設定はどうするんだ。形式は?文体は?

 いや、黒井に書いた手紙みたいに、すぐ破っちゃうんだから関係ない。ただの気まぐれだ。写経と同じ、ただ手を動かして無心になりたいだけ・・・。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 甲板に出ると小雨が降っていた。何日もこもりきりだったから、曇り空でさえ眩しく感じる。

「おい!ほら、突っ立ってねえで早く来い!」

 野太い声に振り向き、気の荒い乗組員の元へ急ぐ。滅菌した銀のバットを白衣の下から取り出して、その生き物を、・・・かつて生きていたと考えられるものを受け取った。

「・・・これで全部ですか?」

「ああ?」

「あの、この辺りの肉が剥がれてるし、ここはどう見ても途中で折れている。どこかにその、破片が落ちていたりとか」

「うるせえなあ、こっちはそれどこじゃないんだよ。こんなもん捨てっちまえばいいものを、船長が言うから届けてやってるだけだ。文句垂れる暇があったら網の整備でもしてろ」

 届けてもらってはいない、取りに来てるんだ、と頭の中で反論するが、もちろん口には出さない。

「分かったか?」

「はい」

「・・・ああ、そういえばそれ、さっきまでちょっと光ってたぞ」

「そ、それは何色?あ、今言わないで・・・」

「さあ、他の魚と同じだよ。緑っぽい光だ」

 しまった、つい訊いてしまった。好奇心に負けた。ため息。でもどうせ後から訊くと「さあね、覚えてない」しか返ってこないし、それならもう覚えているうちに話してもらおう。

「緑って、もっと具体的に言うと?さっきまでって、いつ頃?それならどうしてもっと早く・・・」

「ちっ、さっさと引っ込めこの頭でっかちのタダ飯食らい!邪魔だ、邪魔!」

 ミドリはバットに半透明の蓋をはめて腕にはさみ、器用に片手で梯子を降りた。生物発光と決めつけるにはまだ早い。発光性のプランクトンが付着しただけかも。あるいはただの見間違い・・・、しかしここの乗組員たちが、頭は悪くとも目がいいってことだけは確かだ。狭い廊下を歩きながらミドリは眼鏡をずり上げる。

 割り当てられている半分倉庫のような船室にたどり着き、樽や木箱を避けて、まずはバットを秤に載せた。少し揺れた後、針は目盛りの赤い印より僅か手前で止まる。やはりいくらか欠けてるんだ。

 ここからは時間との勝負だった。この一連の奇妙な死体たちは、<観測>に耐えられない。蓋をして見ないように保存すれば腐ることもなくそこにいるけれども、計ったり調べたり、情報を取り出すことで、何もせずとも消えていく。物理的な刺激を一切与えていないのに、ナメクジに塩をかけるように溶けていって、跡形もなくなってしまうのだ。

 質量を計った後は、バットに刻んだ目盛りで全長を測る。ナイフで鋭く尖らせた鉛筆で、粗い紙にそれらを記録した。早くスケッチして名前をつけないと、失われていってしまう・・・。

 写真機を使わないのは、現像が大変だからではない。精密な記録はそれだけ消失を早めるからだ。イメージ重視のラフスケッチなら損傷は浅いし、想像力でそれを補うことは許されている。写実主義の本能をこらえてデフォルメするのは苦痛を伴うが、大きな特徴だけを残してあとはばっさり切り捨てる。こいつの場合、やはり熱帯魚のツノダシのように飛び出したツノだ・・・。

「楽しいものを入荷した?」

「うわっ、お、おどかさないで」

 振り向くと、木箱の上に腕を組んでその上に頭を乗せ、にこにこと微笑む二人目の白衣。仕事もないのにタダ飯食らいとは罵られない、お医者先生だ。

「い、今、仕事中なので」

「見てるだけだよ」

「だから、観察したら・・・」

「分かってる、大丈夫だ。ここから見えるのはお前の顔だけだから」

 この船の連中はやたら丈夫で、怪我もしないし、脱水も貧血も滅多に起こさない。栄養と睡眠と太陽の光が足りない死体学者だけが、時折この男の世話になっていた。

「あの、先生、お願いだから、気が散るので・・・」

「邪魔しないって。お前は見てても消えないでしょ?」

「それは、そうですが」

「俺だって仕事に来たんだよ」

「え、何ですか?」

「さっき浮いてたの、拾ってもらった。たぶんね、果物。椰子の実の仲間じゃない?お前が持ってる錐みたいので穴開けたら、美味しいジュースが飲める、かも」

「・・・それが、仕事?」

「健康管理、ね」

「ああ。・・・有り難いんですが、もうちょっと待ってて下さい」

「だから、待ってるってば」

 誰かマストから落ちて、緊急手術でもしててくれないかな。

 ミドリは死体に向き直り、ツノのようなものの断面をルーペでよく見てスケッチし、触り心地をメモした。時間がない、どんどんぼやけて薄く透けていく。内臓と骨がうっすら見えてきて、ここぞとばかり前から後ろから観察する・・・。

「あ、そういえば俺、お前に伝えることが



・・・・・・・・・・・・・・



 突然の音に驚き、全身が緊張した。ワンコールでそれは切れ、静寂。・・・え、もう三時?こんな時間に、電話?

 しばらくは動けなかった。あまりに急な中断で、今まで自分が何をしていたのかもうまく把握できない。鳴った音すら、残響しか思い出せない。・・・本当に電話なんか鳴った?いつもの幻聴じゃないの?

 まだどきどきしている心臓を押さえて、部屋の隅で充電が終わっている携帯を開いた。<着信あり>の表示。確かに鳴ったらしい。変な業者の迷惑電話?

 そして、着信の相手を表示させて、その文字の意味がよく理解できなかった。

 黒井、彰彦?

 どうしたんだろう、携帯まで僕の妄想に犯された?どうしてこんな表示が出るんだろう。時間は、4月30日、3時04分?・・・それって、つい、今さっき?

 っていうか。

 クロ、お前今、俺に電話した?

 ・・・いや、たぶん何かの拍子にかかっちゃっただけだ。寝ぼけていじってて、うっかり押しちゃったんだろう。

 それだけだ。意味なんかないし、こっちからかけ直す必要なんかもっとない。それより、明日は会社だ。早く寝ないと、起きられない・・・。

 パソコンを閉じようとして、メモ帳に書かれた最後の文章を見る。


<「あ、そういえば俺、お前に伝えることが>


 ・・・なに、何だった?

 僕はつい今さっき、このせりふの後に何を書こうとしていた?

 ・・・。

 全く思い出せない。

 っていうか、この船医という人物は、そのまんま黒井先生だ。勝手に登場させた挙げ句、いったい僕に伝えることって何だ。それが思い出せない上に、今の電話・・・。

 まさか、何かが通じ合ったとかそういうあれじゃないよね。

 僕は一応デスクトップにメモ帳を保存して、歯を磨いたり食器を片づけたりゴミ袋を玄関に置いたりひととおりの日課をこなして布団に入った。

 頭の中でカレンダーに×をつけ、あと、一日。もう、本当に、たったの、一日・・・。

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