23章:とうとう、一ヶ月が過ぎて
(やっと帰ってきたクロ)
第172話:クロの帰還
四月三十日、水曜日。
人事総務から電話が来て、給与振込口座の名義とこないだ出した氏名変更の名前が合わなくて振り込めないと言われた。ああ、なるほど、確かに。ん、っていうかそんなの、あの変更届を出した時点で分かることじゃない?まあ、問題が起こるまで先延ばし、対応が後手後手に回るのは全社的な社風なのか。
とにかく、なるべく早く名義変更し、口座の変更届を提出してほしいとのこと。ちゃっかり会社のネットで調べると変更手続きは何だか面倒そうだったので、どこか別の銀行で新しく口座を作っちゃったほうが楽かもしれなかった。
外に出るとき、ふと看板を見つけて、そのまま吸い込まれるようにみずほ銀行に入った。並んだ窓口の表示を見ようと眼鏡を出していたら恭しく声をかけられ、口座を作りたいというと、あれよあれよと手続きが進んだ。
え、その場で、通帳がもらえちゃうの?
当然ですという顔でフリガナ欄に<ヤマネ コウジ>と書いたら、何事もなく、通ってしまった。本人確認書類で出した免許証も漢字表記だけなんだし、僕がコウジと名乗れば、それでコウジになっちゃうもんなんだ。
キャッシュカードは後日送られるとのことだが、通帳に口座番号は書いてあるわけだし、そのまま会社に引き返して早速変更届を作成し、メールに添付して提出した。念押しで電話までして、もう完璧。しかし、どうも占いかなんかにハマりこんでとうとう改名しちゃった人みたいに思われているらしく、何だか腫れ物に触るような対応をされた。まあ、いいけど。
結局その日、黒井から連絡もなく、支社に現れた様子もなく、たぶん後泊で後片づけなんだろうと結論した。何だかこのまま永遠にいなくなってしまいそうだけど、鍵を返すんだから絶対一度は会うはずなんだ。でも、その実感もあまりなかった。先週くらいの方がよっぽど早く会いたいって思っていて、でも今はさっぱり分からない。だってあいつが僕を見てどんな顔するのか分からないからだ。「あ、やまねこだ!」って駆け寄ってきてくれたら、いくらでも、何だって、してやるんだけど・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
五月一日、木曜日。
何だか胸騒ぎがして、早朝から起きてしまった。そしてふいに、黒井の家の玄関のドアにカレンダーを貼りっぱなしだったことを思い出した。いやいや、まずいよ。ただのカレンダーだけならいいけど、×とか時間とか、気持ち悪いよ、ストーカーだよ!
まさかまだ帰ってないよねと思いつつ家を飛び出して駅へ走った。
桜上水からも走って、まずは郵便を取り出す。チラシがいくつかと、クレジットカードか何かの請求書。たぶんまだ帰ってない。きっと。
出勤のサラリーマンとすれ違ってエレベーターに乗り込む。まるで忘れ物した人みたいだ。いや、実際そうなんだけど。
黒井の部屋の前に立って、とりあえず軽くドアをノックし、インターホンを押してみた。・・・静寂。誰も出ない。携帯のヤモリを引っ張りだして鍵を開ける。部屋の中は薄暗く、ひっそりとしていて、生活のにおいや音がしなかった。ここにもうすぐ人が来て、毎日暮らすというのは変な感じだった。
僕はドアを閉じて鍵をかけ、カレンダーを丁寧に剥がした。それを鞄にしまい、何秒か突っ立った後、もう最後かもしれない可能性はゼロじゃない、と思って、中に入った。
思い残すことはないかと自問して、ちょっと笑っちゃうけど、アイロンをかけていくことにした。布団は全部干したけど、ベッドのマットレスは干せないからそのままだった。干せなくてもアイロンかけとくとダニが死ぬんだって。だめだめ、目に見えないからって、黒井に触れていい虫は青緑が鮮やかなカラスアゲハくらいだよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
五月最初の、定例会議。
しかし頭の中はずっと般若心経だった。ツタヤで読経CDを借りようと検索して、あったから驚いてすぐ借りたけど、何とその読経の主は坊さんでなくあの仮想少女だった。歌だけでなく、経も読むのか。いや、経を歌うのか。ロックやポップやバラードや、様々なアレンジの般若心経の歌を聴きながら、お釈迦様でも思うまいとはこのことか、と思った。まあ、何となく聴きやすいし、さすが日本人という感じがしなくもない。美少女が歌えば何でもいいんだ。あはは。・・・いや、やっぱり僕はあいつの声がいいかな。いやいや、それじゃ煩悩が滅せないよ。だめだめ、意味ない。プラトニックな美少女万歳。
そのうち、課長の声が「千葉」「研修」と単語を告げたので頭のお経を停止して耳を傾けた。どうやら例の千葉の新人たちが再来週からどっと押し寄せ、しかしまだ課には配属されず、ひとまとまりの新しい部署になるらしい。セミナー部の伊藤さんがそこの専属G長になり、それでひととおり業務を教えながらやっぱりテレアポをさせるんだとか。まあ、僕たちの頃と同じだ。新人だから何でも許されると思って、何でもやらせるんだ。今思えば迷惑この上ない、「セミナー来ませんか」の飛び込み電話。案件まで結びつくのは1%未満なのに、またやらせるのか。
いやいや、問題はそんなところじゃなくて、新人たちが来るのがGW明けどころか12日の月曜からってことだ。それまで何してるの?まさか、研修が延びてるとか?
黒井はいったいいつ帰ってくるんだ?
会議が終わり、この上なく自然な動きを装って少し居残り、雑談がてら課長に「僕たちの頃は一ヶ月でしたよ」と持ちかけた。もう、なりふり構っていられないんだ!
「・・・え、何が」
「ああ、研修ですよ。何か懐かしいなって」
「そうか、お前さんたちもそうだったか」
「ええ、ええ。あんなとこに缶詰にされて、帰った途端に電話かけさせられて、・・・なあ?」
無理矢理、出ていくところの横田に話を振る。「あ、ああ、そうでしたね」って適当な返事。それでいいからもうちょっとお願い!
「でも、今回研修長いんですね。五月に入ってもまだやってるんですか」
「え?いや、確か長い休みなんじゃない?土曜の振り替えとかで、ゴールデンウィークにくっつけて」
「あ、ああ、そうか・・・」
「全く羨ましいね。その間に研修で教えたこと全部抜けなきゃいいけど。ってかまあ、どんな研修してるかもよく知らんけど」
「はあ、まあ抜けても抜けなくてもほとんど大差ないかと」
「おいおい、そうなの?大丈夫なんだろうねこの会社・・・なんつってな!」
知りたいことを知ったらさっさと席に戻り、カレンダーとにらめっこした。五月の田植えの写真が青々しくて、新しい気持ちになる。
四月のうち、土曜と祝日が五日間。
それをゴールデンウィーク周辺に充てると、五月の1、2、7、8、9が埋まり、何と今日から十一連休。あり得ない!でもそういえば僕たちの頃もそうだったか。疲れてしばらく寝たのと、無理して飲み会に顔を出した気がする。っていうか、研修自体、その休みを期待して何とかやりきったような。
・・・ということは、研修はもう終わってるわけだ。後片づけを考えても、たぶん、今夜には帰ってくる。そしたら、黒井も十連休するの?どうだろう、新人はともかく人事の人まで休んでるとは思えないし、有給の残数が増えて、やがて期限切れになるだけかな。
でも、どちらにしても、今日だ。
そう思ったら急に緊張して、急いで外回りに出た。フロアにいて、ばったり出くわしたら困るじゃないか!僕はたぶんこうして、一見落ち着いてるときが一番まずいんだ。感極まって、何しでかすか分かりゃしない・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・
17時半。
コンビニなんかをぶらついて、無駄に飲み物やお菓子なんかを買って時間をつぶした。小学校の時、塾に行きたくなくて時間ぎりぎりまで駅前をうろついていたのを思い出す。
・・・べ、別に、普通に帰社するだけだ。
あいつがいるかどうかなんてわかんないし、っていうか、いたっていなくたって帰社しないわけにいかないんだし。
きょろきょろしながらエレベーターに乗り、緊張しまくってカードキーがなかなか出せない。な、何やってんだ。そんな、あいつが帰ってくるの、楽しみにしてたじゃないか。どうしてそんなに、逃げ腰な・・・。
・・・。
オフィスに、入って、・・・一直線。
視線の先は三課の、あの席。
・・・いない、か。
三課の面々をそれとなく見るけど、特に変わりはなかった。
もちろん三課の中山課長は知ってるはずだけど、それをさらっと聞けるほど中山と話したこともないし、しかもさいたまの支社長という話がどうやら直前でなくなったようで、そのせいか最近機嫌が悪いのだった。
しかし、よく考えたら行くときだって本社から行ったんだから、千葉からここに直接来るわけもないか。明日の朝ここに出勤してこないなら、振替休日か、あるいは・・・。
どちらにしても、土曜日に電話をしてみるしかないだろう。鍵を返すという大義名分があるから大丈夫だ。明日を越えれば、声だけでも聴ける・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・
仕事に対する心は半分くらいで、気がつくと思い返している今日の対応とか何かのやり方とかも、会社を出て地下通路を少し歩いた頃にはもう尽きていた。
四月が終わったということと、GW前ということで、少し、ぼんやりした。
三月と同じで、何とか今月まで、と思って駆け抜け、あるいはやり過ごすけれども、その間たまりにたまった期待は終わってみればどうするあてもなく、むしろ自分の過大なそれに押し潰されそうになる。
・・・鍵、鍵とわめいているが、電話して「封筒で送っといて」と言われてしまえばそれで終わるのだ。それで、三月と違って、失って取り戻すというプロットでいうところの第三幕のカタルシスもないまま永遠の第一幕。部屋と狼は僕を待っててくれたけど、あいつがもし第二幕、三幕に突入してるなら、それは走って追いつけるものじゃない。・・・もしかして、僕の物語はもう三月で完結していて、あとはそれを創作の中で書き記すだけの人生なんじゃなかろうか。黒井が「海行ってくる」とウィンクした瞬間にエンドロールを迎えていて、<主人公はその後、ひとりで自分の小説を書いて人生を送りました。~FIN~>・・・。
・・・たとえあいつがまた支社に帰ってきて、また一緒にコーヒー汲みに行ったり、たまに家で飯を作ったりしても、次の幕に進んでる人とは、生きる土台が違う。同じ空気を吸って、隣で同じ話題の会話をしても、・・・たとえ深い話をして本音を話してもらって悩みを聞いても、あいつの取り戻すものが<僕>でないのなら、同じ時間を走れない・・・。
それは二人の時間感覚が違うってこととはまったく別の話だ。過去を生きてる僕と今を生きるあいつということではない、プロットの幕の時間。そして、どのステージにいるかは流動的だけど、でも、プロット転換ポイントをきちんと踏まなければ、次の幕に進むことはない。
・・・自分で、転換を起こせないのか?
プロットの本を思い出す。転換は常に敵対者によってもたらされ、主人公のダメージが大きいほど、パンチのある物語が展開する・・・。
じゃあ、だめか。
僕の<敵対者>は黒井なのだから、あいつが僕に何か言ってこない限り、僕が自力で追いつくことは出来ない。どんなに一生懸命走っても、あいつが振り向かなければ、隣には、いられない・・・。
「・・・って!おい!」
・・・。
「ねえってば!やまねこ!!」
・・・え?
どん、と背中に衝撃。勢いのまま少し先まで走り抜け、振り返る人物。僕は衝撃でずれた眼鏡をずりあげ、その顔を見る。
「・・・はあ、いたいた。やっと、追いついた・・・」
息を切らして肩で呼吸するそのスーツ姿は、その顔は、間違いなく黒井彰彦だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・って、あ、れ」
地下通路で立ち止まる、呆然とする僕と困惑顔の黒井。通行人が避けていく。僕と黒井は見つめ合ったまま固まっている。
「・・・あ、あの。あれ、すいません・・・やまねこ?」
「・・・え、・・・そう、だけど」
僕は黒井の、乱れた髪や、うっすら日焼けしたような顔や、大きめの黒目や無精ひげなんかをじっと見ながら、しかし部分部分の情報はなかなか総体を結ばなかった。クロイアキヒコが僕に話しかけていることは分かるが、それ以上のことは分からない。何秒かして、唐突に、ああ、眼鏡か、と思い至った。黒井の細部がやけに目立って全体が分からないのも、黒井が混乱してるのも、それだったんだ。
「・・・あの」
なおも黒井は動かなかった。マックの手前で立ち止まったまま、スマホ片手のサラリーマンがぶつかりそうになって避けていく。
「・・・ただいま」
「お、お帰り・・・」
黒井は一歩近づいてゆっくり僕の肩の上から腕を回し、僕はジェットコースターの一番上から落ちた。そして、少し遅れてその背中を手のひらで・・・さらっと軽く叩こうとしたけれども、触れたとたんダメで、そのまま動けなかった。
何だ、ここにいるじゃないか、やっぱり、ちゃんといるじゃないか。
だって現実だし、分かるんだ。時間もステージも何も関係ない。舞台はここだ、向こう側じゃない。全部の中心はここにある。この、胸の中。だって知ってるんだ、僕は知ってる、この気持ちを。
・・・好きなんだ。
・・・・・・・・・・・・・
「お前に会いたかったんだ。探してた。・・・ようやく見つけた」
目の前で、黒井がまだ荒い息で僕にそう言って、「早く行こう」と肩の後ろから押して駅へと促した。歩きだしてしまえば、スーツの男二人、今までじろじろ見られていたのが何事もなかったかのように。
「な、何だよ、行くってどこに?」
「お前んち!」
「えっ?なに、どういうこと・・・」
「いいから早く!お腹が減ってんだよ」
「ちょ、ちょっと」
「やっと会えたんだ、もういいじゃん!」
「・・・っ、い、いい、けど」
腕を絡めてぐいぐいと引っ張られ、連れ去られる。あ、あの、もうどこへでも、もう・・・。
今のこの現実が、見えてる景色、動いている足、触れている部分の体温が、何だか分からなくなってゲシュタルト崩壊。やっぱり腹だけがひゅうひゅうと透ける。く、黒井に引っ張られて、どうしよう、意識し始めて緊張がせり上がってきた。
・・・会いたかったって?
それは・・・俺に?
「ねこ、早く!」
「は、はい!」
喋ってる。会話してる。
僕が声を出して、それが黒井の耳に聞こえている。
・・・も、もう、やだなあ。
いっつも強引で、説明もしないで、こっちの都合も聞かずに引っ張っていくんだから。まったく、何か、俺じゃなきゃだめっていうか、ほんと、お前、俺のこと・・・。
「ねえ、聞いてる?」
「えっ、な、何だっけ」
手はいつもどおり自動的に定期を出して改札を抜けたけど、階段を下りながら黒井が振り向く。
「だから、大変だったって」
「え、そうなの?」
ホームに電車は来ていたけど乗らずに、次で座るために最前列に並ぶ。二人で並んで立って、斜め気味に向かい合って、あらためて見ると黒井のスーツも靴も何だか白っぽい砂や黒っぽい土がついていて、どこで何してきたんだという感じ。
「あのさ、だから」
「うん?」
「お前に会えなかったら、俺は死んでたかも」
「・・・」
黒井は静かに微笑むけど、僕は瞬きを繰り返すことしかできない。腹がひゅうひゅうと、それは胸まで上がってくる。
「・・・嘘じゃないって」
「・・・う、うん」
「ねえ」
「え?」
「そのネクタイ気に入った?」
「えっ?」
見ると、鮮やかな萌黄色。あれ、これにしたんだっけ?朝、鏡も見ないで締めたから忘れていた。こんな、わざわざアピールするみたいのは、スマートじゃないんだけど・・・。
「あ、あの、どうもありがとう。とても、気に入ってる」
「眼鏡までかけちゃってさ、別人かと思ったじゃん。ねえ、またかけてよ」
「え、い、いいよ別に」
僕は胸ポケットにしまっていた眼鏡をちらと見て目を伏せた。
・・・ねえ、死んでたってどういう意味?まだ僕はそこで止まってるよ。
電車が来て、眼鏡はかけずに済んで、さっさと乗り込んだ。端の席に座るやいなや、黒井は「俺寝るから」と。
「う、うん」
早速目を閉じている横顔をちらっと見て、何やらひっかき傷のある手の甲や汚れたスーツの膝を見て、それからはっとして、その膝をつっついた。
「・・・ん」
「おい、ほんとにうちまで来るの?」
「そうだよ」
「あ・・・そう」
それから黒井は寝てしまい、そしてその頭が舟をこぎながらやがて僕の肩に落ち着いて、僕は頭で般若心経を唱え続けるのだった。
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