第147話:暗闇の中で
遠くでエレベーターが動く音がして、この階で止まったようだった。サンダル履きみたいな足音が、近づいてくる。どうしよう、こんな時間にひとのうちの前に突っ立って、ただじっとしているなんて。・・・もう一度インターホンを押して、夜中に押し掛けてきたふりをするか。いや、まあその通りなんだけど。
インターホンに手をかけて、ボタンは押す直前で、人が通り過ぎるのを待った。すぐ後ろまで来て、止まる。各戸のドアが奥まってるから、スーツの後ろ姿しか見えてないはずだけど、ああ、黒井のご近所さん?黒井と間違えて、僕に何か声をかけようとしてる?
二秒、三秒・・・。
え、何?
ゆっくり振り返って、・・・あの、友人を訪ねたんですが、寝ちゃったみたいで、なんて言い訳を用意して、でも、すぐ後ろに立っていたのは、この部屋の主だった。
「・・・あ、ああ。何か、忘れ物だ」
「・・・あ、あ、あの」
黒いダウンにスウェット姿。裸足にサンダルで、手にはハイネケンの緑の缶。
「誰かいるから、すげえびっくりした。何だっけ、服とか?うちに置きっぱなしだった?」
少しだけ目がとろんとして、ちょっとほろ酔いの声。でも薄暗い蛍光灯の下で見るとやっぱり痩せて、少しやつれていた。
「いや、そうじゃ、ないけど・・・」
「何だったかな、何かあったと思うけど。え、っていうか、お前帰れるの?うち今、泊めらんないよ」
「い、いいんだ。すぐ、帰る」
「そう?何?」
「あ、あの・・・」
深夜の廊下に、声が響く。このまま、感情的にならず、小声で用件だけ言えるか?
用件って、でも、結局何なんだ。
「・・・ごめん、ここでは、ちょっと。・・・少しだけ、入れてくれないかな」
「・・・そうなの?」
まあ、いいよ、と、渋々ドアを開けてくれた。ああ、鍵、かかってなかったのか。
そして、つけっぱなしの電気で見えたのは、どれだけ荒らしたんだってくらいの、部屋の散乱だった。これを、見られたくなかったのか。
服、カバン、タオル、下着、食べ物、酒の缶、書類、他、箱や袋や、とにかく何でも。
「入れば」と言われても、玄関で靴を脱ぐ隙間すらぎりぎりだった。黒井はさっさとサンダルを他の靴の上に脱ぎ捨てて中に上がる。僕は他の靴に重ならないようにスペースを確保して、しかし脱いだはいいが足を置く場所を見つけられなかった。
「あ、あの、やっぱりここで・・・」
適当に、踏んで!と向こうから声が飛んでくる。一応中を片づけてくれているみたいだが、余計散らかっているようにも見えた。
・・・一ヶ月の出張の、準備?
それとも・・・荒れてた?
まあ、両方、なのかな。
心の表面で「おいおい、こりゃひどいな」と呆れながら、でも、奥の方では気まずくて、ぎすぎす、ピリピリして、もう何でもいいから早く済ませて帰りたいという気持ちになっていた。手っとり早く和解だか別れだかをして、もうこの問題から逃れたい。
・・・さっさと、切り出しちゃおう。
自分に呆れている暇も余裕もなかった。でも、いろんな僕がいろんなことを言って、ぐちゃぐちゃになって、言葉にはならない。
いわく、「本当に、いいのかよ!」
「だって、もう嫌われてるんだし」
「一ヶ月後、どうなるか、わかんないわけだし」
「逃げて、やり過ごしてれば、何となく元通りになるかもよ?」
「深刻ぶって騒ぎ立てて、ただでさえ心労の重なる時期なのに、気を使えよ!」
「・・・でも、本当にこれでいいの?」
「最後かも、しれないよ?」
「そんなこと言ったって、俺に何が出来るっていうんだ」
「だって、ただ好かれたいだけだ」
「違う、好きなんだよ、その気持ちだけなんだ」
「今この場で最もベストな選択は何だよ?」
「おい、むすっと突っ立ってないで、手土産でも渡して、笑えよ!辛気くさいな!」
「・・・俺は、お前の何なんだよ!」
本当の気持ちと、どうすれば傷つけずに、迷惑もかけずに、誠意を見せられるかってメタな視点と、更に現実的な、今現在何をして、何という言葉を発するかという実際問題と、そして、足をどこに置くかっていう・・・。
黒井は部屋でなにやらごそごそと動いて、寒い寒いとエアコンのリモコンを探して辺りを引っ掻き回していた。よく知った部屋なのに、初めて来るみたい。まるであの、忘年会の夜みたい・・・。
黒井は「なんか飲むー?」「さっさと入ればー?」と言ってはきたが、怒ってはいないものの、やはり、何か抱えていて、ぎくしゃくしていた。いつもと違う。まあ、もう<いつも>が遠いけどね。普通に話すのも遠くて、どんな風に、どんな調子で話していたのか、よく思い出せない・・・。
お構いなく、の言葉を飲み込んで、鞄からウイスキーの箱を取ろうとするも、手土産にしろ餞別にしろ何だかよそよそしくて、そのよそよそしさを受け入れてしまうかどうかに悩み、戸惑い、やっぱり飲み込んでため息。もう、いったい何しに来たんだろう。
何しに来たんだろう?何がしたいんだろう!?
泣きたいような、笑いたいような、怒りたいような。
全部をぶつけたいような、どこかへ捨てて楽になりたいような。
結局、黒井なんて見ていなくて、自分との戦いだった。メリーゴーランドのように、ぐるぐる回って、追いつきも追い越しもせず、どこにもたどり着かない。やりたいことは出来ず、っていうか何がやりたいのかも決められない。
どうしたら、・・・いいんだろうね!
いつもの、血の気が引くのとは反対に、頭に血が昇ってきた。いい加減、いい加減何とかならないのか!
・・・。
黒井がこちらをちらりと振り返って、「コーヒー、あっためよっか」と眠そうな目で、でも返事を待つでもなく、コップをカチャカチャと探していた。
僕は、黒井のどこが好きになったんだろう。
忘年会の夜、スーツの裾をつかまれた、あの瞬間・・・。
手が、布越しに僕の身体に当たって、・・・そう、こんな風に、腹がひゅうと透けた。
いまだに、それは、分からないんだ。
どうして好きになったのか。どこが、好きなのか。
挙げようと思えばいくつかあるんだろうけど、でもそれは細部の、あてはめた事実であって、本当のものはもっと圧倒的で、手の届かない太陽の熱のような、あるいは月の光のような・・・。
ピッ、ピッの電子音の後、ぶーん、とレンジの回る音。
少し気まずい、張り詰めていた空気が電磁波で紛れる。
この、レンジが、温め終わったら。
チンが終わったら、ちゃんと言おう。
気まずかろうが、よそよそしかろうが、全然納得できなかろうが、一生ここに突っ立っているわけにはいかないんだ。
よし・・・。
僕は目を閉じて、それを待つことにした。そのゴングが鳴ったら、メリーゴーランドを止めて、もうどれでもいいからひとつを選んで、行ってらっしゃいでも、その節はゴメンでも、今までありがとうでも、俺、お前のこと、・・・。
パチン。
しゅううぅん。
・・・。
しーん。
「あれー?」
僕の立っているすぐ横で、ああ、ブレーカーが落ちた。
目を開けると真っ暗で、何も見えなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「わあ、まいったな」
キッチンの辺りから、黒井の声がする。
「ちょ、ちょっと待って。つけるよ」
僕は久しぶりに声を張り上げ、手探りで壁を触った。結構、上の方、かな。
靴下の足を玄関のどこかに置こうとして、革靴らしき感触に当たって引っ込め、床を探り当ててつま先立ちし、更に背伸びしようとしたとき・・・。
「いっ・・・!い、いた、いたたた・・・!」
み、右足、足の裏!
つ、つった!!
な、何でこんなところで!
持ち上げて揉んでほぐそうとするけど、左足だって靴を脱ぎかけの不安定な格好で、しかも何も見えないから平衡感覚もおかしくなって、後ろに寄りかかろうとするけど、え、ちょっと、案外、遠くて・・・!
バランスを崩して、とっさにドアノブをつかもうとしたけど、浅くつかんで、体重を預けようとした瞬間に手がするりと抜けて、右手で右足をつかんだまま左手はドアノブを握りなおそうとスローモーションみたいに伸びて、でももう遅くて、ああ、どっから、どっちへ、何の上に・・・?
どん!と何かに当たり、そのあとだん!と頭を打って、どさっ!と倒れこんだ。わき腹に硬くて四角い、パソコンのバッテリーみたいなものが食い込む。で、でも、足が先!痛い、痛い!
「な、なに、何の音!?・・・いてっ!・・・うわっ」
ガチャン!
どさどさっ、ガラガラ!・・・コロコロ、カツン。
向こうでも、うずたかく詰まれていた何かが、全部落ちた音。
ありとあらゆるものが散らばった足の踏み場のない部屋で、黒井は何かにはばまれて進めず、僕はブレーカーに手が届かないまま、何の上にどうやって倒れているのか現状すらつかめない。
・・・。
痛い。
でも、笑いが漏れた。
ひ、左足までつりそう!
変な体勢のまま、動けない!
満員電車のときもそうだった。<本番>の現場で両手両足を縛られたときも、そうだった。
・・・僕は、足が、つりやすいんだ。
「クロ!助けて!・・・動けない!」
「おい、こ、こっちだって、うわっ」
ぐちゃ、バキッ!
「な、何か踏んづけた!割れた、ってか、折れた?」
「レスキュー!頼むよ!あ、足が・・・!」
「待ってろ、・・・って、こっちも、うわっ」
ビニールがずるりと滑るような音。それから、どん、と重量感のある音、
「ってえー!」
「お、おい、どうした!!」
倒れたままの体勢で、腹から声を絞り出す。起き上がろうともがくけど、手を置くとCDケースみたいなものに当たり、うかつに体重をかけられない。とにかく今は足の裏を右手の親指で強くさすって、ああ、これ、電気をつけずにいったいどうやって事態を収拾出来るんだろう??
「クロ!大丈夫か!」
「くそっ、コンセントだ、コンセントを踏んだ!」
「さっき何か割れるような音したぞ、皿か、コップか?」
「わかんない!」
「お前、倒れてんの?」
「何か、滑って、もう、ははは。やまねこ、お前は?」
「足がつってる!で、何かの上に倒れた。もしかして、何か潰したかも。あと、お前の靴、踏んだかも」
「もう、何でこんなことになってんだよ」
「お前が、散らかしすぎなんだよ」
「しょうがないよ、だって、もう」
右足が少し落ち着いて、でももう起きるのをしばし諦めて、力を抜いた。
「・・・荷造り、してたわけ?」
「・・・まあね」
ほんの数メートル先の、同じように低い所から、声がする。
見えないけど、気配と声だけ。
電化製品の唸りもなくて、ただ静かな部屋で、暗闇で、喋っている。
大人の<何とか通信>。アラスカとガラパゴス。
そうだよ、思い出した。本当に、楽しいんだよ、お前と話すと。
「あのさ、普通ここまで散らかる?こんなに、なる?」
「・・・知らないよ」
「言ってくれれば、片付けに、来たのに」
「・・・なに、それ」
「この分じゃ、キッチンや風呂も、どうなってんの?・・・やっぱさ、お前、俺がいなきゃ、だめなんじゃない?」
「・・・」
沈黙。
みじめだけど、続けた。
「こんなになるまでほっとくなんて、普通の神経じゃないよ。お前、うちの課長まで心配してたんだぞ。何か、痩せちゃってさ。体重計、あるんだろ?」
「・・・」
微かな呼吸の音と、それに伴うカサカサ音。ねえ、お前は今、何を考えてるの?
「結局聞いてないよ。最初にどうして本社へ行ったかは分かったけど、で、どうして支社に来ることになったの?んで、何で戻りたくないの?」
「・・・」
池に小石を投げてるみたい。もう、「黙れ」って言われるまで、ああ、吐き出したい。腹に溜まってるものみんな、この暗闇の中に放り出したい。
「どうして一ヶ月の出張でここまで荒れるわけ?これ、ただの散らかし屋ってだけじゃ、ないだろ。いったい何を悩んでたんだよ。会社のこと?それとも・・・」
「・・・」
「あの、ね。俺、お前が言ってたこと、少し分かったんだよ。お前が失くした中身のことだよ」
「・・・」
少し呼吸が止まって、わずかな音も止んだ。聞いている。僕の声を、僕の言葉を、黒井はちゃんと聞いている。
「急に、それがなくなってさ、焦って、でもだめで、そんで、だんだん他のことで気を紛らわしてるうちに、本当にそれがあったのかすら、わかんなくなって・・・。自分でそのことを自分に隠して、覆い隠して、で、ふと、そういえば俺には何かあった気がする、なんて思ったりするんだよ。磨り減って、擦り切れて、・・・キレる頃には、空っぽだ。空き箱だけが転がって、それすら自分で捨てるんだ。捨てても何とも思わない。心が痛んだ気がしたってさ、気のせいなんだ。それを感じる、自分がいないんだ・・・」
がさ、と音がして、黒井が動いたみたいだった。「・・・それ、で」と、掠れた声で続きを促す。ああ、今、分かった。僕がこんな話をしたって、アドバイスにもなりやしないって、うん、そうじゃないよ。そうじゃなかった。
・・・お前はそれを僕にさらっと解決してほしいんじゃない。
ただ、分かってほしかったんだ。
こんなに苦しくて、こんなにみじめで、つらいけど、それしかないって。
それを、感じて、共感してほしかっただけなんだ。
分析して理解して解決するんじゃなく、気持ちを、分かってほしかっただけなんだ・・・。
僕はまたつらないように足を投げ出して、革靴やら何やらを潰したかもしれないけど、話を優先した。何万か出せば買える物よりも、今、お前に話をする方が大事だ。
「・・・とにかくずっとキリキリ、イライラして、何もなくても焦ったような感じで、落ち着かないまま、毎日が過ぎて。どこにも着地できないまま、ぎりぎり飛んでる感じ。食欲もなくてさ、もう、とにかく三月までだって、思ってた。別に、三月が終わったらどうなる予定もないんだけど、とにかく、あと何日って思わないと、耐えられなかった。もちろん仕事が忙しかったし、トラブルとかもいろいろあって、みんなも大変な案件、それぞれ抱えてたんだと思うよ。でも、俺だけそれを仕事として切り盛りできなくて、自分ごと、抉るような感じで磨り減って、何日、何週間?ずっと情緒不安定っていうか、気分にムラがあってさ、とにかくずっとキリキリしてた・・・」
「・・・そう、なの?お前、そんな風に、見えなかった。普通に、仕事バリバリこなして、順調なのかって」
「どうなんだろう。でも俺は本当にダメで、何かこう言うと月並みで馬鹿みたいだけど、心も身体も、ボロボロって感じで」
「お前は、そんなに痩せてないよ」
そう言って黒井は苦笑した。うん、確かにね。
「うん、でも・・・、いや、その」
そ、そうだよ。最初、勃たなくて・・・。
「何だよ」
「い、いろいろ」
「・・・なに、またどっか悪くした?まさか、何か悪化した?」
「い、いや、そうじゃなくて」
そんなこと言えるか・・・、って、またごまかして適当に繕おうとしてるけど、でも、今は、思い直して、そのまま正直になることにした。
・・・心配、してくれて、嬉しかった。
「そ、その・・・精神的なものだと思うけど、ちょ、ちょっと、・・・勃たない時期が、あって」
「・・・ああ」
「大丈夫だったり、だめだったり、・・・むちゃくちゃしたくなって暴走したり、全然だったり・・・」
「うん」
「そんなの今までなくて、だから焦ったり、落ち込んだりして」
「・・・俺も、あった。あれ、結構くる」
「そ、そうなのか。そんなこと、お前にも・・・」
「二、三回あるよ。その時期はさ、絶対女に会わない」
「はは、そうか、お前らしい。・・・逆だね」
「逆って?」
あ、ついこぼしてしまった。
でも・・・、もう、いいか。全部、話したって。
何も見えない分饒舌になって、でも電話とも違って相手の気配が分かるから、自分が暗闇に溶けて、半分液体になって、向こうへ流れていって直接触れ合えそうだった。
「・・・お、俺は、逆でさ。勃つかわかんないのにどうしてもしたくなって・・・」
「あ、も、もしかして」
「・・・な、なに」
「こないだマヤちゃんが言ってた、ラブホテル・・・」
「そ、そんなこと言った?・・・はは、まあ、出来たわけじゃ、ないんだけど」
「勃たなかった?」
「い、いや。最初は大丈夫、だったんだけど・・・でもちょっと別のことがあって、やっぱり」
「あ、あれか、分かった。生理がどうとかって・・・、ああ、俺もあれはダメ」
「そ、そう・・・」
「・・・ふうん、お前、そういうこと、してたんだ」
「べ、別に、その」
「・・・つきあってるわけ?」
「・・・ない、よ。返事もしてない、つきあってもない。けど、やりたくなったから、連れ込んで・・・、そういえば、それっきり、それだけだ」
「それ、俺と同じだね」
「え?」
「彼女じゃないんでしょ」
「・・・あ、本当だ」
「いろいろ俺のこと、分かってきた?」
「身をもって、分かってきた」
「それで、どうなったの?お前、今は・・・」
え、藤井とどうなったか?
あ、いや、勃つようになったか?
・・・ああ、違うか、失くしたものが、どうなったか、か・・・。
今。
今は・・・。
手を胸の上に置いて、少し目をつぶった。
こんなに長く、僕の話を聞いてもらって。
同意して、受け止めてくれて。
それは、ものすごく、満ち足りてるっていうか、包まれてるっていうか・・・、うん、抱かれてないのに、肩が、寒くなかった。
ただ、聞いてもらうことが、こんなに、ああ、軽くなる。安らかな気持ち。
「今は、すごく・・・落ち着いてるよ。だって、俺は、それを・・・」
取り戻したんだ、と、見えない天井に向かって言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます