第378話:<ああ、やっぱり>

 黒井が「失礼ですが、何があったんですか?」と訊くと、叔父がまた話を仕切った。

 まるで見てきたかのように勝手に話すが、叔父の脳内補完も入ってるんだろう。

 しかし、むっつりと黙って必要なことを濁す両親に比べたら、話が早く進んだ。

「昨日、姉ちゃんが出かけてる時にここに電話があって、義兄さんが出て、ひろふみからやったんやて。会社の人に怪我さしてしもた言うて。でもそれはすぐ切れて、その後またかかってきて、今度は部長って人で、その怪我のせいで何とかって損失が出て、とにかくすぐに百万必要って。それは会社でも用意するけど、そういうのは手続きに時間がかかるから、とにかくご両親に少しでも用立てしてもらえないかって、それで義兄さんが家ん中の現金かき集めて、銀行まわって下ろしたわけよ。そしたら姉ちゃん帰ってきて、鍵は開いてるわ義兄さんはいないわ現金と通帳もないわで、大慌て。・・・で、結局その部長の代わりって人がこっちまでお金取りに来るいう話やったんだけど、来んかったし電話も繋がらなくて、で、今度はひろにもかけたけどこっちもだめで、一晩経っても何の連絡もなくて・・・ここでようやっと、怪しい思ったんやな」

 母が何か抗議しようとしたが、叔父は構わず続けた。

「そんで朝っぱらからウチに電話きて、しょうがないからおれが駆け付けて、・・・それからようやくひろに繋がって、で、今に至るというわけよ」

 僕が「あの・・・関西から?」と訊くと、「は?今うちの長男夫婦と同居しとって、船橋から。聞いとらんの?」と。

 ・・・叔父の、長男。

 つまり、僕の従兄弟。

 ああ、確かその従兄弟の結婚式で、あのペアグラスをもらったんだったか。

 ・・・そう、か。

 今時こうして親を呼び寄せて同居する親戚が身近にいるから、母もそれを当たり前と思っているのかもしれない。

 


・・・・・・・・・・・・・・



 何だかぼうっとして、詐欺についての感想も特になかった。

 相手の携帯番号を知っているようだが、それだけではどうにもならないだろう。

 警察、事件、被害届といった言葉達にも、今は魅力を感じなかった。 


 叔父は、「『オレ、オレ』『ひろくん?ひろふみ?』ちゅう会話しとるから詐欺に遭うんや」なんて言ったが、僕は親の前で「俺」と言ったことはないし、最近は一人称を使うことも、相手を父さん母さんと呼ぶことすらしない。

 僕が何も言わないので、黒井が「ともかく、被害がなかったのは何よりでしたね」と言い、叔父が「せや、金取られんで済んで御の字や。はは、おろした金はひろに餞別でくれたれや」と誰にともなく笑った。

 母は相変わらず「全く、どうなってるんだか・・・」と主語も目的語もない不機嫌なつぶやきを繰り返し、父は全く覇気がなかった。


 ・・・これまでの母の電話の「そろそろ帰って来なさい」という口調から、何となく、気づいていたこと。

 はっきりした病名がついているわけではないのだろうが、父の調子は悪そうだった。

 僕はいわゆる「遅くにできた息子」だから、母より五つ年上の父はもう定年を迎え、そろそろ七十も近い。

 「ヒロだと思った」を頑なに繰り返す姿に昔の独善的な面影はあまりなく、しかし、だからといって丸くなったということもなくて、やや痛々しく感じた。


 叔父と母がやれ帰るだの警察をどうするかだのと終わらない話をして、それから叔父のスマホが鳴って、叔父の妻へまたイチから説明が始まる。ふいに「おお、ジイジよジイジ。帰ったらすぐ遊ぶからな」と孫相手に目尻が下がり、何となく空気が冷えた。

 そして、母がまた茶を淹れたりみかんを出したりする中、父はおもむろに立ち上がり、また「あれはヒロだった・・・」を繰り返しながら自室に引っ込んだ。


 最後に、僕の横を通り過ぎる時、「ああやっぱりと思ったんだが・・・」と、そう聞こえた。



・・・・・・・・・・・・・・



 その後。

 どういうきっかけで家を出たのかよく覚えていない。

 しかしただ、僕と黒井は駅までの徒歩四十分の道のりをとぼとぼと歩いていた。


 ・・・<ああやっぱり>?

 ・・・。

 <ああやっぱりと思った>って、・・・何だ。

 

 父が「ヒロだと思った」と何度も繰り返したのは、「詐欺にまんまと引っかかった」「もうボケが始まった」などと思われたくないから頑なに言い張っているのだと、そう思っていた。

 でも。

 そうじゃなくて。


 もしかして、ただただ単純に、「父さん、オレだよ、会社の人を殴って怪我させて困ってるから金をくれ」という電話に対して、<ああやっぱり><ヒロだと思った>ってことだったんじゃないか・・・。

 ・・・。


 ・・・「メディア系?何だそれは」と馬鹿にされたインターン先がなくなった時も、<ああやっぱり>でお金を振り込んだのだろうか。

 およそ喧嘩をするようなタイプではない僕が誰かを殴ったなどと聞いても、親父の中では<ああやっぱり>ということなのだろうか。

 さっきまですっかり老け込んだ父の姿に同情すらしていたが、今はただただ、不信しかなかった。

 ・・・<やっぱり>??

 ・・・。

 うん、そうか、<やっぱり>利子込みで三百万、早急に返そう。

 さっき叔父が冗談で言った餞別の百万円、もらえていたら今すぐ耳を揃えて返せたのにな。


 ・・・。

 歩みが止まって、立ち止まってしまって、雨が降ってきた。

 傘を買うような店どころか、貸し農園と雑木林の奥はゴルフ場しかない。

 でも、タクシーなどというものも通らないから、自分の足で歩くほかなかった。



・・・・・・・・・・・・・・



 雨は小降りになり、いつの間にか駅の近くまで戻ってきていた。

 そうして黒井が「腹が減った」と、古びた店の前で立ち止まる。


 そこは開店してるかどうかもよく分からない、本当に古びてしなびた、ただの洋食屋だった。

 僕は食欲もなく、しかもこういうチェーン店でない個人経営の店は苦手で仕方ないけど、黒井はさっさと入ってしまう。

 ドアに付けられたベルがチリンチリンと鳴り、狭めの店内。

 チェックや花柄のテーブルクロス、壁一面に貼ってあるどこかの山の風景写真、キッチン用品が積まれたカウンターはどこかよその家のリビングルームみたいだ。

 席に着き、黒井が席にあるメニューをガビガビ、バリバリ言わせながらめくると、「ね、好きなの頼んでいい?」と。

「・・・そりゃ、どうぞ」

「お前の分も」

 僕はコーヒーだけでもいいくらいだったが、もう何でもよくて、「いいよ」とうなずいた。

「あ、勘定はお前持ちね」

「・・・ああ、うん」

「すいませーん、特製牛フィレステーキと、サーロインひとつずつ!」

 エプロン姿のおかみさんが注文を取って、奥のキッチンへと伝える。笑い声がして、どうやら初老の夫婦がやっている店らしい。

 僕たち以外の客も夫婦がいて、常連みたいだった。

 彼らは何だかきゃっきゃ言いながら「あたしもああいうの欲しいわ~」「キミには似合わないよ」「そんなぁ~」みたいな会話。

 ・・・。

 うちは外食というのもほとんどしなかったし、もちろん、こんな感じの両親の会話も聞いたことはない。

 水をちびちびと飲みながら、そういえば黒井はいつまでも黙ってただそこに居てくれて、申し訳なくて、有難かった。

 しかし、何か言わなきゃと思いつつ、後ろの夫婦が「来週、娘の彼氏も連れてカラオケへ行く」という話を始めて、何だか苦笑いもわかなかった。



・・・・・・・・・・・・・・



 こういう、何ていうか「カジュアルでフランクな会話」は何もない家だった。

 カラオケ・・・か。

 うちの親はカラオケを「歌舞伎町のど真ん中にあるパチンコ屋」くらいいかがわしい場所と見なしているようで、誰かが行くらしいと言っただけですごい顔をされたことがある。カレシカノジョという単語だって、人前で「セックス」と発音するのと同じくらいの難易度設定だった。

 当然のことながら、大学時代の彼女の話なども一切していない。

 後ろの夫婦は、本当にこれが日常の普通の会話なのか?

 ドラマの撮影とかじゃないの?そうでなければ、先進的すぎるお宅?


 ミニサラダとスープが来て、黒井が「ああ、俺、腹減っちゃったよ」とつぶやいた。

 曖昧にうなずくと、しかし、ちょっと確信的なきつい声。

「だってさあ、昼過ぎに着いたのに、お前んち何も出てこないんだもん」

「・・・え?」

「俺なんか、お茶すらもらえなくて」

「・・・え、あ」

「名乗ったのに名乗られもしないし、話を振られたりもないし」

「・・・」

「傘だって俺たち持ってないのにスルーだし・・・っていうかろくに見送りもされないし、わざわざ来たのに一言のお礼もないし」

「・・・ご、ごめ」

「そりゃあ詐欺で気が動転してたんだろうけどさ、でも、お前の親って、結構非常識な人だね」

「・・・」

 ・・・。

 言葉が、出なかった。

 そうだ、つい黒井に任せきりにしてしまったけど、僕が間に立って紹介したり、お茶のことだって、何一つ気を配っていなかった・・・。

「クロ、あの・・・」

 口をパクパクさせる僕に黒井は無言で水を勧め、僕は一気に飲み干すと、「あの、お水お願いします!」と奥に声をかけた。いつもは店員とやり取りするくらいなら水を我慢する僕だけど、身体がカッと熱くなって、今は普段しないことをして気を紛らわせたい。

「はーい、お水。あ、ここ置いときましょうかね、自由に注いでね」

「あ、ありがとうございます」

「ステーキ、もうちょっと待っててねー」

「はい、どうも」

 木を隠すなら森とばかりに誰かとコミュニケーションを取り、そうだ、えっと、謝らないと。

「あの、ほんとに俺・・・色々気づかなくて、申し訳ない」

「お前が謝るの?」

「だって、そりゃ、失礼なことを・・・」

「したのはお前の親でしょ?ならさ、お前も俺と一緒に文句言おうよ。・・・だって、お前だってお茶だけはもらったかもしんないけど、それ以外は何もない。・・・俺は完璧に振る舞ったんだからさ、俺がもてなされなかったのはお前のせいだよ」

「・・・え、う、うん?」

「つまりさ、お前が冷遇されてるから、俺までこんな扱いだったわけ。ねえ、俺がお茶すらもらえなかったのって、ひどいと思わない?」

「・・・あ、ああ、うん、ごめん」

「ま、俺は正直そんなのどうだっていいんだけど・・・でも、<普通は>ひどいんだとしたらさ、お前が冷遇されてるのだって、<普通に>ひどいんだよ。あの、叔父さん?あの人にお前が嫌味言われたってお前の親は何も言わないし」

「・・・嫌味?」

「ほら、法学部卒なのに役立たずとか、結婚できるかも分からないとか」

 ・・・そんなこと、言われてたのか。覚えていなかった。

 ああ、でも。

 そういえば叔父のところの従兄弟三人は僕よりずいぶん年上で、僕はただ「年上の従兄弟」としか思ってなかったけど、・・・もしかしたら、母からすれば僕が生まれるまで自分の弟の子どもの成長を見せつけられ、肩身が狭く、今も複雑な思いを抱いているのかもしれない。

「面と向かって言い返さなくてもさ、後から、気にしなくていいとか・・・言われない?」

「・・・そういうのは、特に」

「うちのお母さんだったらそんなの黙ってないし、後から色んな仕返しもするよ。息子を悪く言われたら、私を悪く言われたも同じよって」

「・・・」

「ま、でもその嫌味が図星だったら、そうよしっかりなさい!ってアタマはたかれるけどね」

 ・・・。

 思わず、ほんの少し笑って、うなずいた。

 すると黒井も「あれ、わりと痛いんだ」と笑った。

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