第379話:これからは、俺と
僕の前に牛フィレステーキとかいうのが置かれ、食べたら、何だこれはという旨さだった。
口の中に旨い味の物体があって、噛む度に旨さを放出して、消え去っていく。
・・・さっき、食欲がないとか言わなくてよかった。
あっという間に食べ進み、今までで初めて、黒井が勝手にナイフを伸ばしてくるのを「おいやめろ」と思った。
「んー、味違う、うまいね」
すると黒井のサーロインがひとくち来て、食べたらソースの味が違って美味しかった。
「・・・うん、うまい」
「ね、来たことないの、ここ?」
黒井がそれとなく店の中を見回し、うん、たぶん昔からやってる店だろうけど、家族で来たことなんかない。
「・・・って、いうか、外食なんてほとんどしたことない」
黒井は妙に納得した顔でうなずき、「ウチはねえ」と話し出した。
「毎週いろんなとこ行ってたよ。ファミレスもよく行ったし、カレー屋とかアジア料理とか、近所の中華屋とかさ。中華は常連で、夏は野球見ながら、俺は必ずわかめラーメン。飽きないのって店のおばちゃんに笑われながら、いっつもそれ」
「・・・へえ」
「あと、好きだったのは焼肉バイキング。車でちょっと遠いとこだったけど、行きは酔うのに、帰りは全っ然酔わねえの。あれ、においなんだろうけど、不思議だったなあ」
「・・・ふうん」
「あとは、旅先とかだとさ、いつも俺がすごい高いのに目をつけて、姉貴が『えー?』とか言うんだけど、結局お母さんがそれ頼むんだよね。んで、姉貴だってちゃっかり食って・・・親父は、ちょっと食うとさっさとどっか行ってタバコで、ひょっこり帰ってきてデザート追加して、いっつもお母さんに怒られんの。でも結局俺も姉貴も頼んで、何だかんだでみんなで食うんだよね」
「・・・」
黒井はちょっと声を落として、たぶん無表情になっている僕に、「そういう思い出、全然ない?」と訊いた。
・・・肩をすくめて、<全然ない>を伝える。
すると、黒井はいたずらっぽく笑い、テーブルの上のメニューを取るとガビガビめくって、僕に開いて見せた。
上から、ナポリタン750円、日替わりハンバーグ900円、ビーフシチュー1200円・・・。
特製牛サーロインステーキ、1800円。
特製牛フィレステーキ、・・・2500円。
・・・二千五百円!?
え、待てよ、遅めのランチで、二人で四千三百円!?僕はナポリタンか日替わりにしておくべきだったんじゃ?財布にお金がいくらあったか・・・!?
無言で目を泳がせる僕に、黒井がくくくっと笑い、メニューをパタンと閉じた。
「だってお前さ、ランチは千円までとか言ってたじゃん?その、・・・借金って話聞いて、それだったのかと思ったけど、・・・でも、もしかして、ただ単にお前、こういうの頼もうと思ったことすらなかったんじゃ?」
「・・・」
「でもうまかっただろ?」
「・・・う、ん」
「いいんだって!別に、食べても!」
「・・・」
「なんつーか、お客に茶も出さない家なんて変なんだから、それって他にも全部、きっと色々変なんだよ。だから・・・」
「・・・だ、から?」
「変な親、で、いいじゃん。そんだけだよ。・・・そんな、ヘビに睨まれたカエルみたいに、怖がることない」
「・・・」
そして黒井は、「これからは、俺と色んなもの食おうよ」と、まっすぐ僕を見て笑った。
・・・・・・・・・・・・・・
最後に残しておいたひとくちを黒井に取られて、僕も取り返して、食べ終わったらデザートが来た。
「あれ?頼んでない」と黒井が言うと、試作品だからオマケ、と。気づけば店には僕たちしかいなくて、席にはディナーメニューが並び、たぶん今は<準備中>。僕は慌てたけど「いいのいいの」と言われて食べると、冷たいカボチャプリンはことのほか美味しくて、そう言うとおかみさんは大げさに喜んだ。すると奥からご主人も出てきて、みんなで談笑した。
・・・なんか。
家族、みたいだ・・・なんて。
こんなに楽しく食事するものなのか、家族って。
・・・そういえば、両親がこんな風に笑うところなんか、もうほとんど覚えていなかった。
でもそれって、いつも「こんな家出ていきたい」というオーラを出して黙り込んでいた、僕のせいだったのかも。
それについては素直に反省してもいいと思ったけど、でもそれならどうすればよかったんだって答えは出ないから、今は<変な親だったんだ>と思うことにして、デザートを楽しんだ。
・・・・・・・・・・・・・・
会計をして(お金は足りた)、店を出たら雨はやんでいた。
「ごちそーさん!」と肩をたたかれ、・・・何となく、思った。ふむ、ランチで五千円だなんて尋常でない行為に思えたけど、別に、やってできないこともない。
それに、黒井が気まぐれに奢ってくれた高いものを恐縮しながら食べるんじゃなく、自分のお金で堂々と食べた自分史上最高額のランチは、本当に美味しかった。
帰りの電車は、やや混んでいて、つり革につかまってじっと立つ。
ぼんやり窓の外を眺めながら、しかし、「親が、客に茶の一杯も出さなかった」というフレーズがずっと頭の中にこだましていた。
そこに何かの違和感を感じるけど、その一方で、依然として・・・そう、僕は未だに、今日の親の態度について、不自然には感じていない。
うちの親は別に、風変わりで周りを気にせず我が道を行く<変な人>というイメージはなく、外では愛想もよくて、<非常識>や<冷遇>という単語もピンとはこないのだ。
でも、「茶の一杯も出さなかった」のは、ごく一般的な社会人の感覚として、カツンと僕の心に引っかかる・・・。
たぶん、黒井という異分子が介入していなければ、今日僕は、親に不満を持つことはあっても疑問を持ってはいなかっただろう。
・・・父が言った<ああやっぱり>でさえ、僕は諦めとともに受け入れようとしていた。
それはまさに「ああやっぱり」という失望感であり、でも「そんなのは非常識だ!」と声を上げようなどとは思わない。
・・・。
どう、思えばいいんだろう。
さっきの店に入る前に思っていた「<ああやっぱり>三百万を今すぐ返そう」についても、いろいろと、前提が、もう変わってしまったような気もした。
・・・「茶の、一杯も、出さなかった」・・・。
硬い殻に、楔が打ち込まれたような、ひとつの事実。
その意味はまだきちんとした理屈にはならないけど、まるで、アリバイが崩れた瞬間のような。
それは黒井が僕のためにもぎ取ってきてくれた、僕の無罪の証拠品みたいに思えた。
・・・いや、いや、でもまさか僕が無罪ということはない。それは言い過ぎだしそんなことはない・・・、けど・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・
新宿から京王線に乗り、桜上水で黒井は降りず、「お前んちに帰ろう」と言った。
雨は上がったが、もうすっかり暗い。
マンションに着くと、ちょっと、ここはどこだっけという感じで、違和感。
玄関で電気をつけるとそこには黒井が持ってきたメジャーがあって、そうだ、今日はテントを買ってくるはずだったのに、一体何だったんだろう。
・・・よく、分からない。
疲れて、混乱していた。
・・・でも。
きっと、身体のどこかが、ここを出る時にキスされたことを覚えていて、・・・期待、して、いたんだと思う。
出かける時は、身体の主張を理性で抑えて何とか着替えたけど。
今は、身体が理性に蓋をして、服を脱いでいた。
・・・上半身裸になった黒井はかっこよくて、その背中に手を回し、直接温かい胸同士がくっついたら、冷えた手で背中を抱かれたって余計燃えるばかりだ。
もっと、キスしてほしい。もう僕を取り込んでほしい。
散らばった服を押しのけて部屋に行き、布団の上に倒れ込んだ。
暗い部屋で抱き合って唇を合わせ、目を閉じて、まぶたの内側に色んなものが見えてくる。
・・・。
壁、いや、建物・・・。下から、上へと視点は上がっていって、もっと上、ずいぶん高いところに窓がある。階段も足場もないけど、そこから飛べということか・・・。
窓の外には、黄色い花。
・・・。
意識が少し現実に戻ってきて、うん、分かってる。つまり今から、やり方も知らないのに一線を越えるのかどうかって話だろ?どうやって行くのかも分からない窓から、とろりと垂れていく蜜を目指して、着地できるかも分からない場所へと飛ぶのかって話だろ?
でも我慢はできそうもない。行けるはずもない窓から、飛ぶしか・・・。
・・・。
・・・黄色い、花?
妙に、はっきりした花だった。
そんなイメージどこから持ってきたんだろう。
今日、どこかの道で咲いていた?
いや違う、もっと人工的なそれは・・・、ああ、実家の玄関の造花だ。
・・・。
その花に蜜はない。これは警告なんだ。実家へ行った混乱を紛らわすために一線を越えるなんて、そんなの俺とお前がしたいことじゃない・・・。
素肌の背中をこするようになぞる黒井の手は心地よくて、首筋にかかる息が甘くて・・・でも、おい理性、頼むから「待って」って発音させてくれ。なあ、俺、お前とはキャンプの、テントの中でしたいんだよ。こんな、風に・・・もう、くそ、乳首を噛むなよ、こんなに気持ちいいなんて知らなかった、無理だ、もっとしてくれ、やっぱり止まれるわけない・・・。
「・・・ク、ロ」
「・・・なんだよ、やまねこ」
「・・・っ」
「いいよ、わかってる。俺だって・・・今日はしない」
「・・・」
「・・・ってか、もう、これ・・・イっちゃいそう、だから」
切羽詰まった声で黒井が腰を強く押しつけてきて、いや、俺だって、ズボン越しだってそんなに動かれたら・・・もうやばい。
なおも硬いものをこすりつけられて、二人でその快楽を求めて、脱ぎたいのと動きたいのと、でも黒井の荒い息遣いを耳元で聞かされたら、思考はどこかへ飛んでいった。
荒い息はすぐにはっきりした喘ぎ声になって、僕はもう我慢できなくて左手を自分に伸ばし、その声の速さに合わせて手と腰を動かした。いや、ティッシュなんかに届かない、無理、ここでこのまま出すしかない。
「・・・っ!」
・・・。
せめて自分の手で、布団を汚さないように蓋をして、パンツの内側がどんどん温かくなっていく。意味の分からない、諦めにも似た解放感に包まれて、全部手放して後のことはもう知らない・・・。
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