第377話:オレオレ詐欺未遂
一瞬、何となく、説得されそうになったけど。
・・・でも。
借金の捉え方とか、親を切り捨てるとか、そういう概念の部分は横に置いとくとして。
・・・とにかく、今から実家だなんて、それはない。
そこだけは、絶対断わらなくちゃならないところだ。
黒井と一緒にあそこへ行くだなんて、あり得ない。
そんなのはあり得ない。あり得ない・・・。
でも、頑なに首を振る僕の腕をつかんで無理矢理立たせると、黒井は「行くんだよ、早く」と僕を睨んで、おでこをゴツンと合わせた。
・・・。
・・・あれ。
もしかして。
クロは、自分の存在より、親の存在の方が僕を悩ませているというのが、嫌だった?
いや、まあ、それはその通りだけど・・・。
うん?でもだったら、僕はそのために、自分の親と向き合いに、実家へ行く?
そんなこと出来るのか?嫌だ、逃げたい、みじめな気持ちで罪悪感を増やして帰ってくるだけだ・・・。
「行くんだってば・・・」
絞り出した声で黒井が僕を揺さぶって、僕は、ただ、沈むように重くうなずいた。
負けたとか折れたとかいうより、ただそうしてしまっていた。
・・・・・・・・・・・・・・
行くことになってしまった手前、着替えるしかないけど、身体が拒否反応を起こして靴下が全然履けない。
・・・行くなんて選択肢はないはずなのに。
何度短くため息をついてみても現実は変わってくれない。
人間、思考と行動が相反すると、ここまで肉体の操作ができなくなるのか。
「何やってんの、早く!」
「・・・」
うん、と発音もできない。肯定の言葉を発したくない。
くそっ、黒井と一緒に親に会う?今日これから?
あの、二次会の時、僕が結婚や見合いをするなら直談判に行くだの何だのと言ってたけど、そんなのはあくまで「いつか」「万が一」の話だと思ってたのに。
何とか、もし普通に買い物に行くとしたって着替えだけはするのだから、と理屈で自分を説得し、着替えて玄関へ。
緩慢に靴を履く僕を黒井はじっと見ていて、何だか、後ろめたいのと八つ当たりと、もう泣きつきたいのとで「何だよ」と言ったら、しかし黒井は、落ち着いていた。
「・・・なんか、さ」
「・・・え?」
「きっと、今行かなくても、いつか行くんだよ」
「・・・」
「それに」
「・・・それに?」
ふっと息が漏れ、黒井はドアに寄りかかって「なんかね」と小さく笑った。
「生きてるって感じでおもしろい」
「・・・は?」
「なんか、こういうの・・・こういう、こんな馬鹿馬鹿しいことじゃなくて、俺が求めてるのは全然違うんだって、・・・でも、うん。・・・今の俺は、お前とこうやって、こういうことを、生きてるのが楽しい」
「・・・」
「だからさ、俺も連れてってよ」
「・・・」
・・・。
身体が近づいて、僕はまた沈むように目を閉じて、唇があたたかくなった。
そのままゆっくり離れて、「また、帰ってきたら」と、その声は脳裡の奥に届いた。
・・・・・・・・・・・・・・・
新宿までは、ただ電車に揺られた。
そこから先、行き先は発音したくなくて携帯の路線案内の画面を見せた。
あとは全部任せて、ただ黒井のジャケットの袖や、かっこいいショートブーツの細いつま先なんかを見つめる。
ああ、眼鏡を忘れたなあ。
・・・別にいいか、ハッキリ見たいものなんかない。
何かを考え始めたら最後、収拾がつかなくてパニックになりそうで、でも、向こうでしっかりトラブルが待っているのは確かなんだから、「トラブルになりやしないか」と恐れる必要はないわけだ。
黒井は何度か景色がどうとか電車がどうとか言ってきたけど、曖昧にうなずくことしかできなかった。
でもそんな精神状態の僕を許してくれているらしく、買ってくれたジュースに口をつけなくても、何も言わなかった。
永遠に電車に乗っていればいいのに、いつか、着いてしまう。
新宿からたったの一時間半。
一瞬、営業先に契約書一式を忘れてきたかのような、「あ、まずいやばいどうしよう」という焦りがわき起こり、黒井にすがりついて「うわあああ」と叫びたくなるが、実際は握った拳をもう片方の手で強く包んで押さえつけて、ただやり過ごす。
・・・でも、その、駅に、着いてしまって。
ドアが開いて。
降りなきゃいけないけど身体が固まって、黒井に引きずられるように、ホームに立った。
・・・ほとんど、歯医者に行きたくない子どもだ。
黒井という存在が見えなくなってしまいそうなくらい、恐怖の方が勝っていた。
電車を降りてしまったからここから先は自分で歩くしかなくて、めまいを起こしそうになりながら、駅の階段を下る。
もう泣いてしまいたい。・・・どうして?・・・いや、考えたら終わりだ。
むしろ笑っちゃいそうにもなったが、笑いは身体の中でピンポン玉みたいにあちこち跳ねて、でも行き場はなく失速して落ちた。
・・・そして、駅前のバス停にぽつんと並んで、あとは、僕の精神はいつ観念するのかなあと他人事で、小雨がちらつく曇り空を眺めた。
・・・・・・・・・・・・・・・・
駅前のロータリーにバスが来て、ドアが開いた。
黒井が前のドアへ行こうとするのを止めて、後ろのドアから入る。
東京のバスより二人掛けの席が多いし、運賃も一律じゃないから降りる時に再びパスモをかざさなくちゃいけない。
・・・もしも僕がこんな風じゃなくて、親とも円満だったら、黒井の「えっ、こっちから入るの?」「あの整理券って何?」にも気さくに答えて、思い出話をしながらちょっとした旅気分だったのだろうか。
でも今はただ、移送される死刑囚みたいな心地で窓の外を見つめるしかない。
・・・昔パン屋だったところが、パチンコ屋になっていたり。
見慣れない景色を目がとらえたと思ったら、合併で銀行名が変わって、看板が真新しくなっていただけだった。そんなところまで脳みそは「あれ?」と気づくのか。
ここは知らない駅ではなくて、僕が十年近く暮らしていた、最寄り駅。
着実に視覚と記憶があちこちで結びついて、時間が昔へと補正されていく。
そして駅前を抜けてしまえば、スナックとか金物屋とか、地域のスポーツセンターとか。
すぐにそれも途絶え、何もない道。
「前に来たの、いつ」と訊かれ、よく思い出せなかった。
十五分ほどで、無言でバスを降りる。
中学も高校も大学もここから通っていたというのが何だか信じられないような、あるいは、今は一人暮らしでもう六年近くやっていることの方が信じられないような。
重い足取りで歩きはじめ、しばらく行って急な階段をのぼったら、ああ、もう、家が見えてくる。
「もう、すぐ?」
察した黒井に訊かれ、うなずいた。
「ああ、もしかして、あれ?」
「・・・」
「そっか」
「・・・」
「ねえ」
「・・・うん?」
「俺が全部、やるから、お前は何もしなくていいよ。・・・一応、悪いと思ってる。ごめん」
「・・・」
黒井は、「適当に見てて、芝居だと思って」と、僕を追い越して軽やかに敷地内に入り、さっさとインターホンを押した。
・・・・・・・・・・・・・・
黒井が押したインターホンから、「はい、ヒロくんなの?」と母の声。
あれだけ「来なさい」と呼びつけたくせに、妙にのんびりしている。
こういう腹立たしさも駅前の景色みたいにさっと思い出して、ああこうだった、ここはこういう家だった。
そしてその声の背後で、男の声がする。
父の声ではない。
それから鍵を開ける音がして、ドアが開き、いがぐり頭の、トレーナーにダウンのベストを着た、堅太りの男。
何となく、見覚えがある。
ああ、叔父だ。母親の、弟。
僕が中学くらいの頃、確か転勤で関西に行ったはず。
どうして、ここに居るんだろう。
「おう、来たか、ひろふみ・・・こちら、どちらさん?」
一秒、何も言えずにいると、先に黒井が口を開いた。
「初めまして、山根君の同僚で、黒井と申します」
「んんー?何や、同僚?同じ会社の人ってこと?」
「はい」
「な・・・ちょっと」
なぜか妙な困惑顔でぼりぼりと頭を掻くが、どこかニヤニヤして、いけ好かない。
背後から母が呼ぶ声がして、叔父は「ま、雨も降ってくるし、とにかく上がり」と僕たちを玄関に通した。
叔父はさっさと居間に向かい、僕たちはとりあえず靴を脱ぐ。
玄関。
傘立て。
下駄箱の上には鍵や、どこかの土産の置物や、造花の黄色い花。
・・・僕がいる時からこんなだっただろうか。上がり框の段差などは足が覚えているのに、細かい部分をじっくり見るとどれも見覚えがないような気がしてくる。
しかし、その上ここに黒井がいるという違和感はもう何かのタイムスリップでもしたかのようで、さっき言われた「芝居だと思って」にそのまま乗っかろう。演劇部の黒井の舞台を観に来たとでも思うしかない。
居間では、寝間着に上着を羽織った父が、こたつに入っていた。
奥の引き戸が開いて、台所から母も顔を出す。
しかし母は黒井を見るなり「えっ、何なの!?」と怯えたように驚き、叔父が「ひろふみの同僚の方やて。心配して一緒に来た」と勝手に説明する。
テレビではNHKが小さくついていて、白髪が増えて痩せた父は、黒井のことはろくに見もせず、僕のことをぎろりとした目で見ていた。
「それはともかく、ほれ義兄さん、本人来たんやから訊いてみい」
すると、父は表情を変えず、「・・・電話、しただろ」と、掠れた声。
僕は突っ立ったまま、とにかく、質問に答える以外の思考を排除する。
「電話?電話したかって?ここに?いつ?」
「・・・」
欲しい答えじゃないときの、沈黙の催促。
「・・・電話は、今朝かかってきたけど、こっちからはしてないよ」
「昨日は」
「昨日は、してない。会社だし。家に帰ってからも、してない。・・・携帯の電源が切れてたし」
母が後ろで「まったく、何なの?とんだことだわ」とぼやき、父は「いや、でもあれは・・・」とテーブルの上の紙きれを硬い動作でいじった。
叔父が父にぐちゃぐちゃと何か言うが、母が「とにかく座りなさい」と、ポットで急須に湯を注いだ。
・・・・・・・・・・・・・・
和室の居間の、テーブルの四方に僕と両親と叔父が座り、黒井は僕の斜め後ろに座る。
叔父がいるなんて想定外だったが、でもそのおかげでここが実家ではなくただの集会所みたいに思えて、少し気が楽だ。
僕の前に湯呑みが出され、叔父が、「あのな、詐欺やったんや、オレオレ詐欺!」と口火を切った。
「詐欺?」
思わず聞き返すと、父がまた「あれはヒロだった」と頑なに言い、叔父が「せやからな義兄さん」とテーブルをトントン叩く。そして母が「いや、でも・・・ええ?」と眉根を寄せて叔父に目配せし、暗に黒井がいることを怪しんだ。
そして叔父が、「うん、なあひろふみ」とこの場を仕切る。
「お前、それじゃ、電話もしてへんし、会社の人に怪我さしたとか何とかも、なかったと」
「・・・何も、ない、そんなの」
「その、こちらに怪我させたわけやない・・・?」
これには黒井が「違います」と答える。
「そしたらまあ、お金受け取りに来たわけでもないのやろ?」
「お金?」
訊き返したが、叔父は黒井の方を向いたまま。
後ろから、「いいえ」と硬い声。
・・・お金を、受け取る?
すると叔父が「ひゃくまんえん」とふざけたように言い、僕たちの反応を見るとにやにやして、「・・・ほれ、違うんや」と母に。
母はしかしそれで納得した風もなく、「ええ?でも・・・」となおも食い下がり、黒井の方から頑なに目を背けた。
しかし一体どういう姉弟の意思疎通なのか、叔父は母の「でも・・・」の内容を問いただすこともなく、ウンウンうなずいて説明を続ける。
「昨日の電話はやっぱりオレオレ詐欺で、ひろふみは何も知らんのよ。それで突然姉ちゃんから誰かに怪我さしたの何だの言われて、で、こうして会社の人が心配して一緒に駆け付けてくれたってわけ」
「いや、でも・・・」
「昨日の、部長さんの代わりの会社の人がカネ受け取りに来る云々は詐欺で、こっちはホンマもんの会社の人!ひろふみと一緒に来たんやからそうやろ」
叔父がこちらに向けて「な?」と言い、後ろから黒井の声。
「あの、申し遅れました。山根君と一緒に働いている、黒井彰彦と申します。山根君は営業四課で、僕は三課です。仰るとおり、会社でそんな話は起きていません」
黒井は立ち上がると財布から名刺を取り出し、父に渡そうとしたが、叔父が受け取った。
叔父が表裏を舐めるように眺め、その光景からは思わず目を逸らしたくなったが、「ひろ、お前のは?」と訊かれ、・・・ああ、名刺は持っていない。
「今日は、持ってきてない・・・」
「何や、会社員たるものいつでも名刺持ち歩かんと・・・ん?あれ、義兄さんこれ、持っとったんか?ああ、ちゃんと同じマークや」
何かのメモ帳の中から、いつの間にか父が僕の名刺を出していたらしい。
就職して最初に帰省した時、初めて配布されたそれを渡したんだったか。
「これ、ア・・・アシスタント何ちゃらて書いとるけど、今はその四課なんやろ?」
「・・・あ、今はそう、営業四課で」
叔父が「これで義兄さんも納得するやろ」と母に言い、それから「お客さんに座布団くらい出しいや!」と・・・それで僕は初めて黒井が畳に正座していたことに気づいたが、あごで使われた母はなおも怪訝そうに無言で座布団を手前に置いた。
黒井はソツのない「どうぞお構いなく」、そして「恐れ入ります」で頭を下げ、でもそれはやっぱりこの家ではどこか浮いていて、一人だけ俳優が混じって<演技>してるんだなあと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます