第376話:インターン、コネ入社、借金

 あの、年末の、喧嘩騒動。

 あれから一年近く経って、どこかからそれが伝わったのか?

 ・・・殴っては、いない。嘘はついてない。

 僕はむしろ殴られた側で・・・って、いや、殴られてすらいない。唇が切れたのは、キスされて噛まれたから・・・。

 ・・・そんなことを言うくらいなら、殴ったでも殴られたでもいいか。

「もしもし?ちょっと聞こえてるの!?」

「・・・聞こえてる」

 電話の後ろで、「ちょっと待て」「何を訊くの?」と、何やら話す声。

「ヒロくんなんでしょう?・・・ちょっと、お母さんのね、名前を言ってみなさい」

「・・・、は?」

「いいから」

「・・・意味が、分からない。・・・何だ、イタズラか?」

 あれ、もしかして、これってまさか変な電話?

 だったらむしろその方が気が楽だ。

「いいから言ってヒロくん」

「・・・もしもし、そちらこそどちら様ですか。これは何かの詐欺か?」

「馬鹿おっしゃい!母親を詐欺呼ばわりする子どもがありますか!全く冗談きついわよ!!」

 ヒステリックな声が部屋に響く。

 ああ、黒井にも聞こえている。

 何だか、血の気が引いた。

「・・・」

「・・・電話じゃ埒があかないわ、もう、あなた今すぐこっちへ来なさい!そうしたらちゃんと分かるから、そうしてちょうだい!」

「だから、何の話なのか、分からないって!」

「とにかく来なさい!もし来なかったら、この番号もおかしいってことになるじゃない・・・、来てから、話すわよ」

「・・・ちょっと」

「家にいるんでしょ?今日は土曜日で会社はお休みなんだから。こんな時くらい何も言わずにすぐ来なさい!いいわね?」

「・・・」

「いいわね?切るわよ!?」

「・・・」

 黙って携帯を耳に当てていると、「いい加減にしてちょうだい!」と誰にともつかない苛立った遠い声、そして電話は切れた。

 耳から中枢神経へとその不機嫌を送り込まれた気がして、しばらくは動けなかった。



・・・・・・・・・・・・・



 ・・・ようやく携帯を置くと、頭のどこかが予備電源に切り替わったみたいになり、これから何をするにしても、もうしばらく充電しないと動けないから数十分は待機だと判断した。

 それから、立ち上がって、フライパンの火を止める。目玉焼きは無事だった。つまりそれほど時間は経ってないってことだ。

 ・・・何だか、さっきとは完全に違う世界に来てしまった。

 キャンプでわくわく気分とか、そんなものはどこかに消し飛んだ。

 何なんだ。

 いったい何なんだ。

「おい、やまねこ、どう、いう・・・?」

 黒井がおそるおそる訊いてくる。そりゃそうだろう。

「分からない」

 それしか言えなかった。本当に分からない。頭が働かない。

 ただ、親が何かの理由で僕を責め立てているという、それだけは確かだった。

 ・・・スーツを捨てたから、そのツケがまわってきたのか?

 やはり反抗することなんかできないのか?タブーに触れれば僕がデメリットを受ける仕組み?

「来いって、言ってなかった?実家に、帰る?これから・・・?」

「いや、知らない。知らないよ」

「だけど」

「・・・」

 コンロの前に突っ立ったまま、何もできない。

 いつの間にか黒井が隣にいて、「何の電話だったんだよ」と、当たり前のことを訊いた。

「分からない。・・・会社の誰かが、怪我したとか。俺が、殴って」

「はあっ?何だそれ?」

「・・・さあ」

「でも、親にまで連絡が行くなんて、かなりのことじゃ?・・・今の、お前のお母さんだろ?」

「・・・」

 確かに今のは僕の母親だが、黒井に<お母さん>なんて発音してほしくなかった。

 ・・・黒井のお母さんのことを考えたら、息子への信頼度の差が偏差値みたいにはっきり露呈した気がして、苦笑いしか出ない。

 黒井は勝手に電子レンジでコーヒーを温め直すと、ひとくち飲んで言った。

「もしかして、もしかして・・・だけどさ」

「・・・」

「俺が、お前を殴ったみたいな、あのこと・・・支社長たちに怒られた例の、あれのこと言ってる、とか?」

「・・・」

「いや、去年の話だし、ないか。あの時、親にまで連絡とかそんな話にはならなかったし・・・あ」

「・・・え?」

「お前まさか、見合いとか、そういう・・・それでお前の親が、何かの調査とか、探偵とか雇って、それであのことが分かったとか」

 ・・・え?

 見合い?

 話が斜め上にいって、おかげでまた予備電源が作動して喋れた。

「いや、見合いで興信所とか素行調査って話なら、でもそれなら自分の息子じゃなく相手方を調べるものだろ。っていうか、そういうのは財閥の御曹司とかエリートの話であって、庶民の見合いでそこまで・・・」

「ん、それじゃ実は相手がどっかの令嬢で、それでお前が調査されてケチつけられて、で、お前の親が怒って・・・」

「おい、そんな変な話あるわけないだろ。そんな話があるくらいなら・・・」

 ・・・親父の知り合いから去年の件が伝わった、という方がまだあり得る。

「・・・なら、何だよ?」

「え?・・・あ、いや、まあ別に」

 無意識に隠そうとして、でも、態度に出ていたらしい。「何かあるなら話せよ」と、コンロ前から部屋に連れて行かれた。



・・・・・・・・・・・・・・



「別に、隠してたわけじゃないけど・・・」

 やましいことがあるわけじゃない。でも、結局何となく、今まで誰にも言っていない。

「何だよ」

「・・・まあ、実は俺、この会社・・・縁故採用ってわけじゃ、ないけど、・・・要するに、父親が勤めてたのがうちのグループ会社で、それで去年のことがどこかから伝わった・・・って、それもないと思うけど」

 グループ会社といっても、会社概要の端っこに小さく載っている持ち株会社みたいなやつで、現場での関係はほとんどない。

「え、それじゃ、お前は父親の紹介でうちの会社に入ったってこと?」

「紹介って、いうか・・・。就活の時に、応募の、締め切りが過ぎてたんだけど、何かのあれで履歴書受け付けてもらえることになって。・・・でもそこから先は普通に面接で受かったと思ってるけど・・・もしかしたら、そうじゃなくコネ的な枠で採用になったのか、それは、わかんないけど」

「・・・そう、なの?」

「詳しくは知らない。どういう繋がりで、誰にどうかけあって・・・とかは」

 そう、採用通知を受けた時はコネだからかと思ったけど、でも内定者の集まりに行ってみたら、最終面接でおかしなことを言ってたやつまで玉石混交、三十人も受かっていた(元々の募集は「若干名」だった)。それで、なんだザルだったのかとコネのことはどうでもよくなってしまったのだ。

「じゃあお前、親父さんが口利きをしてくれて、締め切り過ぎたけど応募できることになって、それでウチに入ったってこと?」

「・・・まあ、そういう、こと」

「・・・なんか、・・・お前らしくないね。あれだけ親のこと嫌がってたのに、口利きしてもらって、グループ会社に就職するなんて」

「・・・うん、まあ、ね」


 そうして僕は、何となく時間があっちこっちする変な感覚になりながら、自分の就職の顛末を黒井に話した。

 本当は、あの忘年会の下見で「みつのしずく」へ行って笑い転げた帰り、どうして一人暮らしなのにこんな遠くから新宿へ通ってるのかって、説明しようとしたんだけど。

 あの時は結局一緒に帰れなくて、言っていなかった。


「多摩センター?それ、あの時の、夜に行って公園で寝た・・・ここのすぐ先のあの駅?」

「そう、あそこでまあ、メディア系っていうか、編集みたいなことする会社で内定が出てて、インターンで通うことになって。それで在学中から、通いやすいここで借りて、住み始めて」

「え、大学は?」

「単位は取り終わってて、ほとんど行かなくてよかった」

「ふうん、何か、すごいじゃん」

「別に、ただ、半ば逃げてきたっていうか・・・どれだけ説明しても、何か反対されて。もうよく覚えてないけど、ここ借りるのも勝手にハンコ押して書類出して、あとは敷金とかの請求書だけ手紙で送りつけて」

「へえ?・・・ん、でも結局その会社は?」

「・・・インターン中に、なくなった」

「なくなった?」

「よく分からない。いったん研修みたいのが休みって言われて、待ってたけど連絡がつかなくなって、それで、行ってみたら夜逃げみたいになくなってて。散々問い合わせたら、インターンは中止で入社も延期でどうこうってメールが一通だけ来て、それっきり。結局まあ、どっちにしろ就職は失敗したってわけで、でもその頃には他の企業の応募もほとんど間に合わなくて」

「・・・それで、紹介してもらった?」

「別に。・・・さすがに内定先がなくなったのは隠し通せないだろうし、でも就職しないでフリーターで生きていくとも言えなくて、とにかくここに住んだまま他を探してるって、手紙、書いた。・・・そしたら返事が来て、ここを受けろって」

「それがうちの会社?」

「そう。・・・もちろん嫌だったけど、いろいろ勝手にやった手前、何も、言えなくて。・・・そりゃそんなの断って別の会社に就職すべきだったけど、でもそういう、就活とかまわれる精神状態でもなくて。インターンの給料もないからバイトで食いつなごうとしたけど、近所のコンビニすら落ちたりして。で、もう金も尽きて、あとは実家に戻って引きこもりの就職浪人みたいな未来になると思ったら、それよりはここに住んだまま面接の方がましだった」

「そ、っか」

「・・・それで、それから敷金とかだけじゃなく前家賃とか、生活費とかも振り込まれて、あと米だの家電だの、あの冠婚葬祭のスーツだの届いて、余計に、もう何も言えなくなって」

「・・・何だよ、優しい親じゃん」

「まあ、それは、感謝はしてるよ。する以外にない。・・・でもそれで結局、諸々合わせて約二百万、だから俺、親に借金してるってこと。利子込みでまとめて三百万返そうと思ってるけど、まだ・・・返せて、ない」

 「それ、返せって言われてるの」と訊かれたけど、「別に」と答えた。



・・・・・・・・・・・・・



 結局全てはうやむやで、今の会社に無事内定したと伝える手紙の後は、数回帰省したけどこのことについて何の話もしていない。

 だから、具体的にどういうコネだったのかも知らないし、就職や援助金について親がどう思っているのかも知らない。

 要するに、何も知らないし、何の意思疎通も出来ていない。

 何の清算もされないまま、ただ罪悪感や負い目だけがある。

 本当は入社後すぐがむしゃらに貯めてさっさと返せばよかったんだろうが、もしも何かあった時、転職どころかまたコンビニのバイトすら落ちるイメージしかなくて(実際、あの喧嘩騒動の時の精神状態を見れば、杞憂ではない)、まずは数ヶ月分の生活費の確保が最優先になった。

 今度こそもう実家を頼るわけにいかないと思うと、万が一に備えて給料の一部は天引きで財形にまわしたり、入らなくてもよさそうな保険にも入ったりもして、自由に動かせるお金はまだ二百万弱。

「別に、頼ったっていいんじゃねえの。お前、一人っ子だろ?親だって、金返せとか、きっと思ってない・・・」

「言いたいことは分かる。別に、そのとおりだよ。反論はない。就職がダメになった一人息子に親が援助した・・・それだけだ。そういう話だ。俺の感謝が足りないってだけなんだろ」

「そういう風に言いたいわけじゃ・・・」

「あのスーツは捨てたよ。ただ気に入らないから捨てた。捨てる資格はないんだろうけど捨てた。・・・俺は借金を返したいんだ。だから働かなきゃならないし、でも、この会社で働く限りいつまでも恩を感じなきゃならなくて、返さなきゃならない<感謝>の利子も増えて・・・でもかといって転職したいわけでもなく・・・だから逃げられないんだよ。いや、言い訳だ。泣き言だ。分かってる」

「・・・」

 黒井は黙って僕を抱きしめようとしたけど、反射的に払いのけた。

 すると肩をつかまれて思いきり揺さぶられ、後ろに突き飛ばされて、黒井はダン!と手のひらで床を叩くと、「そんなに親を思うなよ!」と怒鳴った。

 ・・・どういう、意味?

 思うって、何だ?

「・・・思って、なんか、ない。本当は感謝すらしてない。罪悪感と憎しみしかなくて、うっとおしいだけだ」

「じゃあもう何も気にせずありがとうって言って借金なんかナシにしろよ!俺をこんなことで煩わせるなよ!」

「・・・」

「思ってないなら気にする必要ない話だろ?お前は、何か、こだわりすぎっていうか、・・・ああ、もう、電話貸せよ。さっきの意味不明な話、俺が訊いて終わらせる」

「・・・な、何だよ、いいってそれは!」

「俺から言わせればさ、お前の親はお前のことなんかなんも分かってないって、そんだけじゃん。お前は分かられてないだけなのに死にそうなツラしてさ。そんな必要ないだろ?お前ならそんなの切り捨てるだろ?研修中の俺は切り捨てたのに、親のことはいつまでも切り捨てないのおかしいだろ」

「・・・そ、れは、・・・借金が」

「借金でもないし、踏み倒せば?」

「・・・そんな」

「よし、今からお前の実家に行く。早く、着替えて」

 ・・・。

 とにかくぶるぶると首を横に振る僕に、黒井は、「ああ、心配しなくていい」と。

「お前と住むとか付き合ってるとか、そういうのは言うつもりないから」

「・・・あ、いや」

「なんつーか、見合いだとか何だとかさ、<お前の人生の話>だったら親が口出す権利もあるだろうけど・・・でも、さっきの電話はそうじゃなさそうだったじゃん?誰かが怪我したって話なのにお前の心配なんかしてなさそうだったし」

「・・・」

「・・・だから、<お前の話>じゃないんなら俺らのことは言うつもりもないし、俺はただ<同僚>としてついてくよ」

 そう言うと黒井はすっと立ち上がり、僕は反対にただ、床を見つめた。

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