第375話:実家からの電話
17時。強引ついでに真木に全部のPCのネットワーク切断とシャットダウンをお願いし、四課に戻る。
すると、早くも向こうのフロアから業務部の女性たちが押しかけてきていて、妊婦や赤ちゃんグッズのようなプレゼントを渡していた。そうか、業務上は内線のやり取りしかなくても、お腹が大きいことは更衣室で見て知ってるのだからこうなるか。
意気揚々と買ってきたルイボスティーも何だか渡しづらくなり、松田への引継ぎの確認がてら、どさくさに紛れてお守りとともにそれを渡した。
その後帰社した黒井もやってきて、ああ、さっき渡した袋の中のお守りは二人からですって、しかし何となくタイミングを逸して席を立てず。
でも黒井はそんなこと何も気にしていないように、当たり前のように右手を差し出すと佐山さんの手を握って、少し抱き寄せて肩をぽんぽんと叩いた。一瞬ドキッとしてしまったが、どうも、黒井がやるとそれほどセクハラ的に見えず外人のハグみたいになるのはなぜなのか。佐山さんも「え、え・・・」と一瞬戸惑っていたが、「お腹がつっかえちゃいましたね」と笑っていた。
そんなこんなで佐山さんはしばらく残っていて、とうとう向こうの総務課長がセキュリティカードを取り上げにやって来て、別れとなった。
空席を見遣り、そういえば、いつの間に席の周りの、かわいらしい卓上カレンダーやら、膝掛けやら、そして引き出しにいつも入っていたお菓子なんかも片付けたのかなと、少し寂しくなった。この日が来ることはずっと前から分かっていて、僕はあの日誰より早くそれを告げられてもいて、「私、妊娠したんです」の言葉は今思い出しても衝撃だったけど、僕はどれほど彼女の人生に貢献出来たのだろう。
結局最後、握手どころかしっかりお礼を伝えることも出来なかったと今更後悔したけど、でもたぶん今話せたとしても「今までありがとう」以上のことは言えなかっただろう。
・・・キャビネ前の四人組は、もう戻らない。
何でも、永遠に続くわけじゃないんだ。仕方がない。
そしてふと、いつか、自分もこの席からいなくなったりするのかと、僕がいない地球だって昨日と同じく回るのかと、おかしな気分になった。
・・・・・・・・・・・・・・
帰宅して、箱を開けると、それは真っ赤なマグカップだった。
っていうか、黒井の分もあることを完全に失念していて、まあ明日渡せばいいだろう。
そして、箱には、あの日ディズニーランドで撮った僕たち四人の写真と、直筆のメッセージカードがあった。
<山根さん
本当に今までお世話になりました。いっぱい迷惑かけたり、突然相談してしまったり、感謝は言葉に表せません。山根さんのおかげで、私は四課で楽しく過ごすことができました。もしもいつか復帰して戻る時は、山根さん、課長になって、私を採用してくださいね♪ 佐山友梨恵>
・・・。
写真は、シンデレラ城をバックに、僕、島津さん、佐山さん、そして黒井。
自分の顔を客観的に見て、せっかくの機会なのに不愛想だなあと思ってすぐに目を逸らし、ああちょっと、クロが佐山さんの肩に手をまわしてるじゃないか。
でも不思議と、こちらも客観的に見て、黒井が佐山さんの彼氏や旦那には見えなかった。自分で「俺はカレシも夫も無理だ」と言っていただけのことはある。
いやでも、それよりは、佐山さんが黒井のことを気にしていなくて、まっすぐ前を見てるからか。
しかし、そういえば僕は何のメッセージもつけずに袋を渡してしまい、っていうか他にあんなに沢山のプレゼントがあったら誰からなのかすら分からないじゃないかと思いつつ、でもたぶん、伝わってるというか、いいようにしてくれるだろうと思った。
写真をしばらく眺めてから黒井の分の箱を取り分けて、この写真の夜にもらった黒い腕時計に続き、またお揃いの物ができてしまったことにちょっと胸を熱くした。・・・ああ、確かに佐山さんが言うように、こういうのは誰かからのプレゼントじゃなく自分たちで選んで買いたいものかもしれないけど、でも、佐山さんからもらったものなら嫌な気はしなかった。何となく勝手に、これまで頑張ってきたことや、黒井とのことも認められたような・・・佐山さんを通して世界からプレゼントをもらったような、そんな気持ちだった。
・・・・・・・・・・・・・・
ディズニーで僕から告白をして、そして、あの夜、黒井の部屋でキスをして・・・。
それを考えていたらちょっともうだめで、もうやり方とかどうでもいいから僕をどうにかしてくれと願いつつ、<最後の一人の夜>を終えた。
それから寝てしまって、早朝起きたけど二度寝して、うとうとしていたらふいにドアをノックする音。え、何だ、宅配便か?書留?
スルーしてしまおうかと思ったが、今日は買い物に行って、明日は黒井の家に荷物を運んで同棲すると思うと、受け取れるのは今しかないかもしれない。
それでドアを開けると、赤いパーカーに紺のジャケットの若い人がいて、誰かと思ったら私服の黒井だった。
「あ、ああ・・・」
「ん、いた。おはよ」
「ご、ごめん、買い物に行くんだと思ってて、その、あれ今何時?」
「えー、九時前。テント買うならさ、寸法測っとかなきゃって、だからこれ」
黒井はポケットからメジャーを取り出して僕に渡し、部屋に入ってくる。
って、いうか、いきなり来ないでくれる!?
ああ、布団の横に写真と丸めたティッシュ!最悪だ!
「あのっ、今、コーヒーでも淹れるから。ち、散らかしてて・・・」
バレてる?バレてるのか?いや、もう隠さなくてもいい?いやいやそれは隠さないと。
「そうだ!そういえば昨日佐山さんから預かってたものがあって。ちょうどよかった、渡そうと思ってて・・・っていうか、あれだ、うん、今コーヒーをそれに入れるから、その、開けてもらって」
「・・・お前、なに慌ててんの?」
「べ、別に!」
「・・・何だよ、何かあるわけ」
「焦ったんだよ、遅刻かと思って。でも待ち合わせ時間とか決めてなかったし」
「だってメールも電話も出ないから」
「え?おかしいな、聞こえなかった」
僕はとにかく黒井にマグカップの箱を渡し、いかにもついでって感じでティッシュなどを片付け、「ちょっと、トイレに」と逃げた。
寝起きでピンチになった心拍数はまだ下がらず、現実がまだ把握できていない。
えっと、つまりこれから部屋の寸法を測ってどこかへ出かけて、テントを買って帰ってくる・・・。
・・・もしかしたら、今日のところは、まだそれぞれの家に帰るのかもしれないし。
いったん買い物のことだけ考えよう。
そうしてトイレから出ると黒井は真っ白なマグカップを握っていて、それを預かったことと、安産のお守りを渡したことなどを話していたら少し落ち着いた。いや、私服の黒井が僕の部屋でくつろいでるのはやっぱり違和感しかないけど。
とにかくコーヒーを入れて渡し、ちょっと丸みを帯びたシンプルな赤と白のマグカップで乾杯。
黒井が「なんかいいじゃん」と笑うので、僕も「うん」とうなずいた。
「これさ、もっと本格的なやつで飲もうよ。パーコレーター」
「・・・パ?何だって?」
「キャンプの道具。コーヒー淹れるやつ」
「あ、そう、ふうん。じゃあそれで」
「なんだよそれ」
よく分からないからよく分からない返事をしてしまったけど、でもまあ何となく、キャンプで早朝にコーヒーを飲むというのはイメージできて、それはまあ悪くなかった。
・・・。
・・・あれ?
ああ、そうか、黒井が言う「キャンプ」って、この「キャンプ」か。
今まで盲目的に「黒井が部屋の中にテントを張ってキャンプがしたいと言っている」とだけ思ってきたけど、早朝に、テントの外で折り畳みチェアみたいなのに座って、何かの火で湯を沸かし濃いコーヒーを淹れて冷たい手を温めながらそれを飲むという・・・ああ、このイメージが「キャンプ」なのか。
キャンプなんて自分には縁のないものだったから、何も考えてなかった。
クロ、お前がやりたいのってこれなのか。
今自分が持っているコーヒーがその「キャンプの早朝のコーヒー」にはあまり思えなかったけど(そりゃ、キャンプ要素はまだ何もない)、でも、この部屋の生活感を皆無にしてテントを張ってパ何とかいう道具を置いたら、もしかしたらそれに近づくのかもしれない・・・。
そう思ったら、ちょっと、やってみたい気がした。
・・・なるほどね。
大人だから、二人いれば、一人の部屋を好きにできる。
こんなのって非常識だけど、不可能ではない。
そうか、全然考えが足りてなくて、周辺がまだ何も追いついてないけど、今初めてイメージが繋がってくる気がした。「キャンプがしたい」「消えそうな焚き火とプラトニック」「俺の部屋で一緒に住む」「お前の部屋を犬猫小屋にする」そして「焚き火はもう、大丈夫」・・・。
まだその意味を把握はできないけど、黒井は手探りと直感で、何かの道を作ろうとしている。
それは僕が心配するような「奇行」ではなく、非常識ではあるけど意外と真っ当な道なのかもしれない・・・。
それで僕が「じゃあその何とかいう道具を買おう」とつぶやくと、黒井は嬉しそうにもう一度カツンとカップを合わせてきて、「ね、目玉焼きとか作ってよ。ベーコンもつけて」と笑った。
・・・・・・・・・・・・・
あいにく冷蔵庫の中はからっぽで、卵と豆腐しかなくて、とりあえず目玉焼きか。
卵とベーコン・・・なるほど、キャンプっぽい料理というわけね。
そう思うとただの目玉焼きなのに、何となく、わくわくしてしまう。
ああ、そっか、これなのか。やっとお前に追いついたよクロ、うん、僕もキャンプというやつがしてみたいかもしれない。アウトドアという響きに嫌悪感を持たないのは初めてだ。・・・ん、アウトドアではないか、インドアのキャンプか。
そしてふと、そういえばどうして電話が聞こえなかったんだろうと思って、鞄に入れっぱなしだった携帯を見たら電池が切れていた。
充電器に繋いで電源を入れてみると、メール一件、そして留守電が五件。
うわ、ごめん、と思っていたら、突然画面が変わって、バイブがグーグーと鳴る。
ん?着信?
思わず黒井を見たが、もちろん僕に電話なんかかけていない。
そして番号は、080から始まるものではなかった。
時刻は九時二分。
・・・胃の下の辺りがぐうっと重くなる。
それは、実家の番号だった。
「・・・電話?出ない、の?」
一瞬で色々なことが頭を駆け巡り、もし出るにしても部屋じゃなく玄関の方へ行きたいけど、充電してるからここで話すしかない。
・・・黒井の前で、親と話すなんて嫌だ。
でも、ああ、この留守電はもしかして親から?
何か、あった?緊急の知らせ?
どうせ今切っても、またかかってくるのか。
・・・。
スーツは捨てたんだ、とお守りのようにその事実を握りしめ、通話ボタンを押した。
「あ、ヒロくん?もしもしヒロくん!?」
・・・ひろくんて誰。
「もしもし、今どこにいるの?ねえ」
「・・・何、うちだけど」
「どうして電話に出ないの、ちょっと、ねえ、よく聞きなさい。・・・会社の人に怪我をさせたって、ほんとのことなの」
・・・。
「・・・え?」
「知ってるの?知らないの?」
「・・・え、だ、誰が怪我したって?」
「そんなことまでは知らないわよ。とにかく、あなたが殴ったの!?」
「ちょ、ちょっと待って、いきなり何の話」
「とにかく答えなさい!」
「・・・な、殴っては、いない」
「ええ?『殴っては』いないって、やっぱり何かがあったってこと?何があったの?ちょっと正直に言いなさい」
「ちょ、ちょっと、待って、何のこと?」
電話の後ろから、「ヒロは手を出してないのか」の声。母親の声が遠ざかり、「まだわからない、ちょっと待って!」と。
・・・何の、話、なんだ。
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