第247話:飛行機に乗って
搭乗券の半券を持って、席を探す。
まあ、二人席じゃなくて三人掛けだけど、窓際の横並びだから文句は言うまい。
黒井がさっさと窓際に座り、僕が荷物を棚に上げた。
「持っとくもの、ない?手ぶらでいいの?」
「あ、おやつ」
「だから出しとけって言ったのに」
「貸して、貸して!」
「はいはい」
廊下側の人が来てしまったら邪魔になるんだから、手早く済ませないと・・・。
土産の小さな紙袋に好きなものをちょっとずつ詰めて、ようやく荷物が帰ってきた。これを入れて、隣に立っていた小柄な女性の分も「入れましょうか」と声をかけ、棚に上げると少しかっこつけて席に着いた。今なら「ジェントルマンじゃん」なんて声をかけてくれてもいいのに、クロはお菓子とにらめっこ。ま、別にいいけどさ。
やがて僕の隣にも人が来て、家族連れの父親だった。母親と子どもは通路の向かいに並んでいて、父親は子どもに「やめなさい」とか「ほら、ママに言って」とか、まあうるさいけれども関心がこちらに向かなさそうで、話好きのおっさんに延々喋りかけられたりするよりはマシだ。
男三人、横に並んだら、やはりちょっと窮屈で。
でもそれで、何か、クロとの距離が近いのを感じた。
電車だってバスだって、横に並んで座ったら腕がくっつくほどなのに、どうしてこっちの方が近く感じるんだろう?それは天井高なのか、前の座席の圧迫感なのか、横の小さな窓のせいか。
やがて、ピンポン、とランプがついて、座席ベルトをお締め下さいの合図。
モニターに緊急時の解説が流れ、エンジンの唸りが徐々に大きくなる。
黒井は微笑みを浮かべながら窓の外を見ていた。
そしてついに、飛行機が、動き出す・・・。
「お、おう!」
「う、動いた」
いい年した男二人、飛行機が走り出しただけではしゃいだりして、みっともない・・・。
でも、隣人は僕たちよりもっとはしゃいでいる子どもたちにかかりきりだから、ちょっとくらい、いいかな。
徐々にスピードアップして、耳が詰まってくる。キーンという音が高くなってきて、振動もそれに伴ってやや細かく速くなり、うわ、いよいよ、飛んじゃうよ、これ!
離陸の様子が、モニターに映し出された。
ああ、飛ぶ、振動が消える、唾を飲み込んで、耳抜きをして、ああ、飛んだ・・・。
黒井は窓に首をもたれて、それを見ていた。窓に映ったその顔は、目が見開かれて、微笑みは貼りついたまま、ちょっと危ないひとみたいだった。
・・・・・・・・・・・・・
横だの後ろだの、あちこちを見ると酔ってしまうので、まっすぐ前を向いて首を後ろにつけた。しかし、どうしてこう座席の背もたれってやつは首がちょっと前になって、痛くなる仕様なんだろう?
飛行中の気圧や振動にも少しずつ慣れ、ベルトサインも消えたので、ベルトを外して少し肩をほぐした。リクライニングしたいけど、後ろを向いて「すみません」をやるのも億劫だと思っていたら黒井が後ろへ軽く手を振り、「ね、倒していいですか?」と快活な声を出すので、急いで僕も便乗した。「あ、どうぞ」と、後ろは女性だったから悪い顔をするはずもない。
「・・・はあ、飛んだね」
「うん」
「外、曇ってて全然見えない」
「ま、しょうがないよ」
「・・・雲が見える」
「はは、そうだね」
しばらく二人で機内誌を眺め、そのうち隣の父親は寝息を立て始めた。
・・・・・・・・・・・・・・・
一時間半ほどで、着くようだった。もう既に二十五分ほど経過しているから、あと約一時間だ。
乗ってしまえば、まあ、やることもなくて。
「お前、窓際がいい?代わろうか?」
「え、いいよ。あんまりあっちこっち向くと、酔うし」
「お前、酔いやすいの?」
「まあ、少し」
「あ、じゃあ、気付けをやるよ」
黒井は先ほど厳選したらしい紙袋の中身をあさり、小さな四角い箱を取り出した。
「これ、知ってる?」
「梅ぼし、純?」
「そ。俺も子どもの頃は酔って、ひどくてさ。これ、欠かせないんだ」
カサカサ、と振って、パッケージを開ける。何だ、梅の仁丹みたいなもの?
「うへ、開けるだけで酸っぱい」
中から出てきたのは赤いアルミっぽい包みで、ああ、何だか小児用のバファリンを思い出す。
黒井はそれを破って、成人用のバファリンよりちょっと薄めの、赤紫のタブレットをつまんで口に入れ、「ひひっ、ああおいしー」と。
そして、もう一つ取り出して僕に言った。
「初めてだったら覚悟してね。無理そうだったら出していいから」
「べ、別に、そんな。梅干し嫌いじゃないよ」
「そう」
黒井はにやにや笑って、その粒を、僕の唇にあて、押し込んだ。
・・・。
一瞬は、その行為の甘さにちょっと痺れてたけど。
・・・す、酸っぱ!!
思わず目をぎゅっと閉じ、そして、酸っぱさにまぶたが痙攣した。これはおにぎりや弁当に入っている梅干しの比ではない。
「はは、だから言ったじゃん!ほら、出していいって」
黒井が手のひらを出してくるけど、そんな、クロにもらったものを吐き出せるもんか。
「だ、だいじょうぶ、だって・・・」
「いいのいいの、これ、俺が勧める人みんなこうなるから。でも、後でまた食べたら、だんだんクセになるからさ。最初はこれでいいわけ」
「で、でも」
言いながらも、舐めたそのエキスを飲み込んで、また酸っぱさがこみ上げる。た、確かに、気付けにはなるかも・・・。
「ほら、いいから。こういう食べもんだと思って」
なおも左手を出されて、正直、食べていられないほどではないけど、やせ我慢して張り合うこともないし、おとなしく従うか・・・。
もう一度唾を飲み込んでから、それを、その手のひらにゆっくり、出した。
・・・けど。
なるべくスマートに出すつもりだったのに、酸っぱさで唾液がこみ上げるもんだから、多少、その、一緒に出てしまって。
思わずティッシュを探すけど、その前に、黒井はそれを口にあてがって、最後は唇で小さくちゅうと吸った。
目を閉じて、ゆっくり手のひらをすするその仕草に、思わずぞくり、とした。
そして、目を開けて、一瞬妖艶な表情で、それから僕の顔をまともに見て、何ともいえない、勝ち誇ったような、それと同時に、今の行為を僕が見ていたことに対する、確信犯的な笑みも含まれていた、気がした。
そして、ちょっと湿り気を帯びた声で言った。
「・・・俺なんか、何ともないよ。好きだからさ、これくらい、全然」
「・・・う、ん」
「はちみつのとか最近多いけど、全然物足りない。もう、これ以上でないと」
「そう、なんだ」
「大丈夫。だんだん慣らしてさ、帰る頃には、欲しい欲しいってねだってるよ」
「・・・」
答えあぐねていると前からジュースのサービスが来て、助かった。黒井が勝手にオレンジとリンゴを頼んで、口の中は落ち着いたけど、心はその刺激でまだ痙攣していた。
・・・・・・・・・・・・・
その後は、黒井が「すいませんね!」とさらにリクライニングを倒し、本格的に寝た。後ろの人が寝ていたので僕ももう少しだけ倒して、しかし黒井の寝顔を眺める余裕もなく眠気がやってきた。
しかしやっぱり首が痛くて起きて、まだまだ眠いけど、少しずつ起きなくちゃ。ああ、飛行機を降りたらそこからどういう道のりか知らないけど、クロと二人きりの時間は終わって、僕は査定に出されるんだ。試練の時が待ってるんだから、もう少しだけ、幸せに浸っていよう。そう、クロを起こすときにその手の甲を、無駄に少し長く握ったりしちゃう、とか・・・。
「んあ、え、着いた?」
「ま、まだだよ。起きた?」
「・・・ん」
黒井は勝手に起きてぐいぐいとしばらく目をこすり、僕の幸せはさいならだった。うん、まあ、チャンスはまだあるさ。
ピンポン、とまたベルトの表示が出て、着陸準備に入るようだった。黒井は寝起きでまた小腹が減ったのか、甘いものをすごい勢いでむしゃむしゃ食べた。
「何か飛行機もあっという間だね」
「うん。よく寝た。もっと遊びたかった」
「遊びって・・・」
「ね、しりとりでもやろっか。じゃ俺からね。<ひこうき>」
「え、えっ、き、<キリン>?・・・あ」
「・・・」
黒井は声にならない笑いを上げて前かがみになって痙攣した。通りかかったキャビンアテンダント嬢に「お客様、大丈夫ですか?」と声をかけられてしまい、僕はあわてて「何でもありません!」と両手を振った。
「・・・クロ!バカ!笑いすぎだよ!」
「だって、だって・・・」
「あ、新しいルールだよ。そう、二回目で<ん>がつくって新ルールなんだこれは」
「わ、わかった、じゃあそれでやろう。今度お前から」
「う、うん。えっと、さっき<ひこうき>だったから、今度は、<バス>」
「・・・す、す、<ストロンチウム>。あ、だめか。す・・・」
「おい、一回言ったら終わりだよ。はいアウト」
「あ、あっ!<素うどん>!!」
「だからアウトだってば」
だんだんと着陸が近づき、また耳がキーンとしてくる。っていうか、ものすごいひらめきみたいに「素うどん!」と叫び、ごり押し出来ないとなると本気でうなだれる三十歳の親友だよ。・・・何か、じわじわ来るなこれ。でもオマケしないぞ。
着陸してかなり長い間滑走路を走り、気のせいか、気温も上がって急に飛行機っぽいにおいがまたしてくる。はあ、何事もなく無事に着いたようだ。しばし僕は力を抜いてぼうっとした。
黒井が「最後でいいよ」と言うので座席に座ったまま、他の乗客が荷物を出して降りるのを待つことにした。
この後、どうなるんだろう。
全く読めない。
まるでミステリーツアーだな。でも、まあ、緊張するわけだけど。
僕は何度か唾を飲み込んで、キーンとする耳鳴りを取ろうとしたが、余計変になって、手で耳をふさいで声が内側に響くような状態になってしまった。小さく「あー、あー」とつぶやき、あくびをしてみても治らない。
「ねこ、どしたの?」
「いや、ちょっと、気圧で」
声を出すけど、どれくらいの大きさで喋っているのやら。
「あ、それね、治すの知ってるよ」
「え?」
「あのね、ここ押すの。顎の付け根?下から、こう」
黒井は耳たぶのすぐ下のシャープな顔の輪郭のところを、親指の腹で下から押し上げてみせた。
「この辺りの骨をこう、何回かぐっと押して、そうすると治る」
「ふうん」
僕が試すのを黒井はじっと見守って、僕は多少半信半疑でやってみたが、三、四回押したらふっと耳が抜ける感じがあった。「あっ」と言ったけど、あれ、また元に戻って、「あーあー」と首を傾げる。一瞬治ったんだけどな。
「だめ?同じとこじゃなくて、適当に探りながらだよ」
クロはためらいなく僕の顔に手をやって、その骨を探り始めた。僕は、お医者さんだ、この人はお医者さんなんだと言い聞かせ、目を閉じてされるに任せた。っていうかそろそろ誰もいなくなっちゃうし、またキスされちゃったりしたらどうしよう、そんな、耳の後ろ、髪の中に指が入ってきて、何だか気持ちよくなっちゃうってば・・・。
「どう?」
「えっ?」
何が?
「あ、あー、んー」
・・・あ、治ってる。
「あ、だ、大丈夫だ。すごい、治ってるよ」
僕は一瞬の妄想を隠すべくすごいすごいと持ち上げ、しかし黒井も満更でもなさそうに、「え、やっぱ学会に発表すべき?ノーベル賞?」なんてにやけ顔。い、いや、ノーベル賞までは無理だろうけどさ。
「これ俺が編み出したんだよ。ある時ふとこうやったら治ってさ、それから百発百中。でもなかなかリアルタイムで披露する機会がなくて・・・」
黒井は気分が良くなったまま、上から荷物まで取ってくれた。あれ、おだてられやすいのかな、なんて思ったが、ああ、ちょっと違うか。顔やセンスを褒められるより、<自分の力>を認められたのが嬉しいんだろう。
お母さんが褒めるところとは、微妙に違うと言ってたけど。
それでも、何となく、褒められるという経験や体験によって、褒めてほしい、伸ばしたい、頑張りたいという気持ちが芽生え、育まれるのかななんて想像してみた。なるほど、聞いたことはあるけど世の中にはそういう事象があるんだろう。僕はといえば、頑張りたいというより、頑張り続けないと、いや、まあどんなに頑張っても褒めるには値しませんから、どうぞお構いなく。
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