第248話:「彰彦さん」
降り立った空港は、雨が降っていた。
心なしか東京と少し空気が違う。
それは湿度や何かかもしれないし、そこにいる人の感じや、聞こえてくる方言のせいかもしれなかった。
どちらかといえば、関西弁よりは、九州のそれに少し近いんだろうけど。
さっきの隣人の家族のじいさんばあさんが空港まで迎えに来ていて、小さな娘が首をひねって「おばあちゃんは何て言ってるの?」という顔をしていた。
「さてと、俺たちの迎えはどこかな」
「えっ、誰か来てらっしゃるの?」
「はは、うそうそ。ね、お腹空いた、あそこで何か食べよ」
一瞬肝を冷やしたが、まだ猶予期間はあるようだ。早めに靴を履き替えておこうかな。
羽田に比べたら、一軒家かと思うくらい小さな空港だ。レストランは一つしかないし、お土産屋も、というか、土産を売ってるスペースがあって終わり。展望デッキがあるみたいだが、あいにくの天気だし。
黒井が勝手にサンドイッチを二つ頼み、ジュースを飲んだ。朝もパンだったのに、とか、まあ考えないんだろうな。
箱入りのサンドイッチを持ってきてくれた店員さんが、「お天気が悪くてねえ」と、こちらのアクセントで、気さくに話しかけてきた。黒井が「ずっとこう?」と訊き、どうやらぐずついた天気が向こう一週間続くらしい。
「花火も中止だしねえ、ざーんねん」
「えっ、中止?」
あ、またか。
何となく、本当に見れるとは思ってなかったから、失望も小さくて済んだ。残念ではあるけど、まあ黒井と無事飛行機に乗って島根県なんかに降り立ってる時点で、K点越えの満足だし。
店員さんが去って、「何だ、せっかく見ようと思ってたのに」と黒井がぼやいた。「まあまあ、天気ばっかりは仕方ない」とさとすけど、ふと、ああ、花火というのは、集まった親戚一堂でぞろぞろ見に行くようなイベントだったのかも、と思い至った。二人っきりじゃないなら、ちょっと肩身が狭かっただろうし、助かったかも・・・?
っていうか、ものすごく今更ながら、僕なんていう余所者がいて申し訳ないという心配より、黒井が親戚たちと楽しく盛り上がって、僕はもう本当、場違いすぎて消えてなくなりたいみたいな状況になるんじゃないかと、それがありありと想像できてぞっとした。法事では粛々としてればよくても、その後宴会みたいになってしまったら、酒の入ったおじさんたちの方言についていけるはずもない。
・・・。
な、何しに来たんだろう。
もしかして、四課の飲み会どころじゃない、とんでもないところに<参加>の返事をしてしまった?大学の時バイト先で、社交辞令で誘われたリア充イベント(バーベキュー大会)にのこのこ一人で出かけてしまった時くらい、いやそれ以上、愚かなことをしてる?
・・・でも、さすがにもう引き返せないんだし。
対応策や最後の切り札がほしいけど、妙案も浮かばなかった。黒井が「どうかした?」と訊くので、「ちょっと疲れたのと、緊張で」と言っておいた。
・・・・・・・・・・・・・・・
「バスとかでも行けるけど、タクシーで行っちゃおっか」
「え、えっと、どのくらいかかるの?」
「何が?タクシー代?」
「いやいや、その、時間がだよ。遠いの?」
「ううん、そんな遠くない。二、三十分くらい」
「はあっ?」
おいおい、車でたった二十分?羽田から飛行機で来て、ここからそんだけ?いや、別に何でもいいしどこでもいいけど、僕の残り時間はそれしかないのか?
「あの、俺ちょっと、靴を履き替えるから」
「え、何で?」
「あ、ああ、この靴、雨に弱くて」
待合い椅子で荷物をひっくり返し、さっと革靴に履き替えるけど、・・・いや、なんか、ズボンに合わない。黒井が土産物を物色していてくれて助かった。「何かちぐはぐだね」なんて言われたら地中にもぐってしまいそう。
まあ、そもそも法事なんかの公的なイベントに備えて持ってきたのであって、ああ、それなら買ったズボンに履き替えるか。それなら合うはず、いやまさか合わない?やっぱり買い物するときはちゃんと組み合わせを考えなきゃだめだな。それにしても、歩き回るのにはよくてもよそ様の玄関先に堂々と置けるような代物でもないスニーカーを履いてきてしまって、まったく、どうしてここまで頭が回らなかったんだ。完全犯罪、完璧なアリバイにはほど遠い・・・。
一番最初からすべて切り札は出し尽くしましたって感じだけど、トイレでズボンを履き替えて革靴を履いた。お世辞にもピッタリとはいえないけど、さっきよりは断然マシ。オシャレさやかっこよさは皆無だけど、とりあえずまともさと清潔感が出せればそれでいいんだ。なりふり構っていられない。
鞄から手土産を出し、たたんで別に入れておいた紙袋に移す。ちょっとしわになっちゃったけど、まあ許容範囲だろう。あとは、えっと、顔や髪はこれ以上どうにもならないし、眼鏡をかけて、社会の窓もしっかり閉じて、ハンカチちり紙、財布に名刺・・・。
あ、名刺を持ってないか。
いや、別に大層な肩書きがあるわけでもないし、っていうかクロと同じ会社なんだからいらないか。いや、でもやっぱり名刺の威力というか、出しただけで盲目的になってしまう部分はあるし、確かに黒井の同僚であるという証拠にもなるのだから、あった方がよかったんじゃないか・・・。
・・・ないものは、しょうがないか。
いや、財布に一枚くらい、なかったかな。
そして、探してみたら、あった。そうだ、四月に、ローマ字表記が<Kouji>になったことが嬉しくて、入れといたんだ。これで一応、黒井を誑かすおかしな不審者ではないことだけは証明できる・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・
あれよあれよとタクシーに乗り込み、黒井の軽口に応じる余裕もなくなってきた。もう、煮るなり焼くなり好きにしてくれ・・・。
「ねえってば」
「え?」
「だからさ、免許証持ってきた?」
「え、も、持ってるけど、何?い、一応名刺もあるよ」
何だ、やっぱり身分を証明しなきゃいけないのか?門扉の前で身元を照会されて、クリアしないとゲートが開かない?
「名刺じゃだめでしょ、何言ってんの」
「へ?やっぱだめ?」
「名刺で運転できないじゃん」
「・・・え?」
「俺雨の日はあんまやりたくないし、お前に頼もうと思って」
「は、はい?何の話?」
「だから車!別に、走って楽しいとこでもないしさ」
しゅるしゅるとアスファルトの水たまりを横切ってタクシーがカーブする。えっと、何だろう、お車を運転するというのは、いったいどういう・・・。
「あ、それでさ」
黒井は何だか、チェスがあるだのダーツがあるだの、あれをやろうこれをやろうと僕に話しかけていたが、ほとんど聞いていなかった。回転しない頭で、「走って楽しいとこでもない」というせりふはタクシーの運転手に失礼だったんじゃないかと、それだけ考えた。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「はい、ありがとうございました」
車が停まってドアが開き、黒井が精算した。僕はいくらか払うことも忘れて、このまま僕だけ帰ってしまった方がいいんじゃないかという気になってきた。ああ、どうしょう、どうしよう。
とりあえず手土産だけ握りしめて、車から降り立つ。ごくふつうの住宅街だけど、ど、どこの家?どの豪邸?
「あのね、あっち」
「は、はい」
雨は小降りで、傘を差さなくても大丈夫なくらい。まあそれも気にならないくらい、血の気が引いてきてるけど。
・・・なに、この、シルバーのベンツは。これメルセデスって車じゃないですかね?
いやだ、いやだ、こんな車が停まってる家の表札を見たくない。もう少し先の、そう、ダイハツやスズキがいいよ!
しかし黒井はその、豪邸ということはないけど、新しくて大きめで外壁が今風で、表にベンツが停まった家のインターホンを押した。いかにもな木札の表札はなくて、代わりに<S.Kuroi>という味のあるプレート。ああ、もうだめだ。
ややあって、インターホンから年輩の女性の声。
「・・・はい?」
「あー、俺です。来ました」
「あら、もう着きましたか。お早いこと。開いてますから入ってらっしゃい。今忙しいの」
カチャ、と受話器を置く音がして、黒井はそれから「はーい」と返事をした。僕に目配せして、「じゃ、行こっか」と。
僕はただうなずいて、後ろに付き従った。もう、侍従ということにして下さい。僕はほんの、荷物持ちの召使いです。
広い玄関には花や小物が置かれ、そして、女物の靴が五、六人分。ああ、もしかして法事が始まってるってことか。まあ、黒い靴ばかりではないから、とりあえず喪服の必要はないだろう。
何だか、他人の家のにおい。
遠くでにぎやかな声がする。かしこまった感じではなく、和やかムードなのかな。
黒井が無造作にサンダルを脱いで上がり、僕は革靴を脱いで二人分を隅に揃え、「お邪魔します」とつぶやいて黒井に続いた。スリッパが並んでるけど、黒井はお構いなしに裸足で廊下を奥へ歩く。僕だけ履くわけにもいかず、ああ、新しい靴下でよかった。
「えー、何してんのかな今日は」
「あ、あの・・・」
法事か何か?と訊きたいが、黒井はさっさと進んでしまう。広くて開放的な、庭の見えるリビングを一瞥し、さらに奥へ。
そして、廊下の奥の引き戸を開けるとそこは和室で、着物姿の女性たちが姿見を前にわいわい話していた。窓からはリビングと同じ、緑の多い庭が見える。
二、三人がこちらを振り向き、そのうちの一人が、着物の帯を持ったまま「あら、いらっしゃい彰彦さん」と言った。
・・・・・・・・・・・・・・・
「どうもこんにちは」
「少し早かったですね」
「あっちにいますから」
「はいはい」
その女性は僕に笑いかけて会釈し、しかしすぐに「あら、息子さん?」「下の、弟さん?」などと質問責めにあって、僕たちは引き戸を閉めて先ほどのリビングに戻った。
・・・。
・・・あれが、黒井の、お母さんということか。
髪にはパーマがかかり、少し明るく染めているようだった。白地に花柄の和服で、明るく、あまり動じない雰囲気はイメージのとおり・・・。
・・・って、いうか。
「彰彦さん」て。
は、はは、何だろうね。僕はどこに来ちゃったんだろうね。
「うーん、何か飲む?」
「い、いえ・・・」
「あ、いろんな人来てるけど、あんま気にしないで?いつもこうだから」
「は、はあ・・・」
リビングに入ると、ガラスのテーブルに革張りのソファセット。敷物はさらりとした和風の布地だった。
他にも、壁には絵がかかっていたり、一メートルくらいありそうな細長い花瓶があったり、もちろんハイビジョンのプラズマテレビに、エレガントな戸棚には何かの小瓶やきらきらしたものが飾ってある・・・。
「・・・あ、あの、えっと」
ほとんど息切れしそうな勢いで、「やっぱ水くれる?」とだけ言った。黒井は「水なんかあるかな」とつぶやいてソファと反対側の、ああ、そっちはダイニングキッチンなのか。
ついたてにも、レースの布と、ツタみたいな飾りが施されていて、そっちが台所だなんて思わなかった。そちら側に黒井が消え、冷蔵庫の開閉音と、グラスに氷を入れる音。
羽田と、飛行機の座席と、さっきの空港と、そしてこのお宅と。何だか空間のサイズや距離間がよく分からなくなって、このリビングも十分広いはずなのに狭く感じたり、でもここだけで自分の1Kがすっぽり入ってまだ余るだろうし、ちょっと、あたふたした。
黒井が何か飾りのついた(この形容詞がつかない物体がこの家にあるのだろうか?)細いグラスに水をくんできてくれて、僕は突っ立ったまま受け取り、とにかくひとくち飲んだ。
「・・・んんっ?」
な、何だ、しゅわしゅわする。炭酸?でも甘くない。
「はは、だってゲロルシュタイナーしかないんだもん。あとはマミーと幼児用スポロン」
・・・な、何だって?
もう、ちょっと、一から十まで、分かるように説明してくれないか?
黒井がソファにどっかりと腰掛けるので、僕もその直角の斜め向かいに浅く座った。どうしていいか分からなくて、味のよく分からない炭酸水をちびちび飲むしかない。
「あ、それね、あんまし飲むと腹下すよ」
「・・・っ!?な、何、どういうこと?」
「ほら、ドイツの水なんだけど、硬水でさ。向こうのってみんなこんなん。俺はあんまし好きじゃないけど、お母さん気に入っちゃったみたいでさ、美容にいいとか」
「そ、そう。はあ、どうも・・・」
「うーん、上、車はあったけど、もういるのかなあ」
「な、何が?」
「何って、姉貴夫婦だよ。お前が見てたあれ、あそこの旦那の」
「あ、ああ、お姉さんの、旦那さんの車か。・・・って、え、今もういらっしゃってるの?その、甥っ子さんも?」
「さんって、さん付けするような歳じゃないよ、はは。・・・しかしどうかねえ、姉貴の車はないから、旦那だけ先に来たのかな」
「・・・でも、さっき幼児用の何かって」
「あっ、そっか、お前頭いい。じゃあ買い物にでも行ったかな」
「って、いうか、別々の車で来るの?」
「うん、来るっていうか、旦那はたぶんちらっと顔出しに寄っただけ。えーと何て言った?弁護士?代議士?市議会?」
「・・・、お、俺はどうすればいいんだ」
「どうもしなくていいって。だから暇だって言ったでしょ?まったく、花火もないし」
「で、でも、・・・法事か何かの準備中じゃないの?」
「え、誰が?」
「いや、だから・・・」
僕がしばらく黙ってそれとなく窺っていると、奥の部屋から楽しげな笑い声。黒井も察し、「え、あれ法事の準備なの?」と。
「だって、その、お前のところ・・・一周忌じゃないの、その、親父さんの。去年新盆だろ」
「・・・にいぼんて何」
「え、初盆っていうのかな。とにかく法事だよ。お坊さん呼んで・・・」
「・・・さあ、そういうのしないよ。仏教じゃないんじゃない?」
「えっ、あ、ああ・・・」
地域や家によって宗派ややり方はいろいろかとは思ってたけど、まさか仏教式じゃないとは考えもしなかった。それならカトリックか、あるいはそれ以外?
「・・・そういや命日に何かしたみたいだけど、俺それどころじゃなかったからよく知らない。別に、もう死んでるんだし、これ以上催し物しなくていいんじゃない?」
「・・・、も、もよおしもの」
黒井が自由すぎるだけなのか、それともやはり家ぐるみでこうなのか?さっきの、探偵浅見光彦の母君のようなお母様も、もしかしてお姉さんも、上流階級ゆえに世間の常識とは少しずれてるのだろうか??
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