第149話:初めて、僕からキスを

 ブレーカーが勝手に上がることはなく、部屋にいる人間二人が動こうとしないので、いつまでも世界は暗いままだった。

 辺りのものを強引に押しのけて、服だかタオルだかの山の上に横になった。たぶん埃まみれ、ゴミだらけの床だけど、見えないから、気にならない。ただそこにお前がいるだけで、これ以上ない、こみ上げてくる気持ちがあった。今までどうして忘れていられたんだ。そして、今までどうして、好きだって言わずに隣にいられたんだ。

 肘をついて頭を支える格好で横向きに寝転がり、僕の胸の辺りでうずくまる黒井の背中を、ゆっくりと撫で続けた。

 ・・・こんなにも、甘く、切ない。

 そして、はっきりと、感じた。


 好きだ。お前のこと愛してる。

 

 声に出して言いたいけど、お前が望むから、そうはしない。ただ思うだけ。心拍でそれを、伝えるだけ。

 ・・・ようやく、ここまで来れた。

 忘年会の夜、この気持ちに気づいてから、本当にいろんなことがあった。

 あのノート、引っ張り出してきて、お前にも見せたいよ。俺たち、こんなことしてきたって。俺はこの辺りから、こんなこと思ってきたって。どうしてだろうね、あんなにもタブーだったのに、もう何とも思ってない。保護していたメールを消去したのだって、はは、今なら笑って、「お前からのメール、大事だから」って言えたのに。消さなきゃよかった。最初の頃の、まだ初々しいやりとりを、読み返してみたいよ。そしてたぶん、僕はあの頃のお前にもひゅう、となって、過去の自分に嫉妬すらして、もっとお前を好きになっちゃうんだ。

 さっき振られたけど、全然そんなの関係ない。

 そんなの、これっぽっちも。

 だって好きなんだ。誰に何と言われようと、好きなものは好きだ。

 ああ、この強さなんだな。この、自分の確固たる芯。お前がそれを取り戻したら、これ以上強くなって、どうなっちゃうの?もう惚れきれないくらい?その頃には僕は見向きもされない?それは分からないけど、とにかくそうなるといいと思うし、それが楽しみだった。そしてたぶん、どうにかすればそうなるって、信じられた。

 ・・・好きってのを、信じてる、に変えたら、言ってもいいかな。

 「俺お前のこと信じてる」・・・これならいいんじゃない?なんて。

「んー」

 黒井が少し動いて、はっとすると、いつの間にか手が止まっていた。背中をさするのを再開すると、すう、と安心したような息が漏れる。何だよ、くすぐられる母性本能なんてないぞ。まあ、またどきどきしちゃうわけだけど。

「・・・うみ」

「・・・ん?」

 黒井が何かつぶやいた。

「海、が、あるんだって。少し、行ったとこに」

「海が?」

「房総の、海」

「・・・ああ、千葉の」

「俺、海が見たい。海があるなら、行ってもいいかって思った。毎日、朝早くに、チャリンコで行こうと思ってる」

「そうか。お前はそういうのが好きだね。そういうのを見ると、どう思うの?何を、感じてるの?」

「あのね、何だろう、そういう自然の、月とか星とか、動物とかもだけど、うん、世界が在るって思う。知らない星に降り立って、知らないものを眺めて、それが出来てきた過程とか、過去とか、そういうものに立ち会ってる、みたいな。うん、ちょっと違うかなあ。うまく言えないよ。でもいつも思うのは、一人でそれと向かい合うと、自分が研ぎ澄まされて、余分なものが削られて、試されてるみたいな、でもそれが、いいんだ。昔はもっと、一体になれるみたいな感じだったけど、今はこう、レントゲンを照射されて、俺の空洞をくっきりさせられて、でもその空洞の分だけ絶対何かがあったんだって、それが、それだけでも、感じられるから・・・」

「・・・うん」

 僕は更にゆっくり、優しく、その背中を撫でた。お前の声が心地いいし、その話す内容が、どうしてだろう、木々に埋もれ、崩れかけた古代遺跡を思い起こさせた。朽ち果てた石版や、祭壇の跡が、緑に覆われている。

「マチュピチュ、とか、かな」

「・・・え?」

「ほら、遺跡」

「・・・う、うん。・・・うん?」

「はは、今お前の話を聞いてて、何となくそれが浮かんだ。お前の話は、いつもそういう、こう、何だか生々しい寂寥感がある」

「・・・せきりょうかん」

「心寂しい、ノスタルジーってこと」

「・・・ふうん。お前は俺の話聞いて、そういうの、感じてんの」

「うん」

 黒井はもう一度「ふうん」と言い、「そうなのかもね」と、たぶん少し微笑んだ。


 その肩や背中が冷えてきて、僕は手探りで脱ぎ捨てられたダウンジャケットを探り当てたので、かけてやった。その中に手を入れて、またゆっくりとさする。半分は、そのまま静かに寝かせてやりたくて、でも残りの半分は、我慢できなくて、抱きしめてしまいたいのをこらえていた。

 本当は、あの時ホテルで出来なかったことがしたい。

 獣みたいなエロい気持ちじゃなく、ただ、望まれて、期待されたことが出来なかったのが悔しくて、お前が少しでも気持ちよくて、何かが得られるなら、そうしてやりたかった。

 少しそれが、手から伝わったんだろうか。

 黒井が「・・・ねこ、今何考えてる?」と訊いた。

「・・・クロ、俺、今日は、理屈っぽくないよ」

「・・・え?」

「これは言うべきか、とか、考えてないから、言っちゃうよ」

「・・・う、うん」

「こないだのこと、考えてたよ。あの、ホテルで、お前がしてきたこと。すればよかったって。今からでも、出来るなら、その、したい、けど」

「・・・っ、あ、あれは、その」

「言ったら、したくなるよ。どうしよう」

「・・・な、何かお前、いつもと違って、調子狂う・・・」

「してもいい?」

「だ、だめって言ったら」

「しない。お前が嫌がることしたくない」

「・・・ど、どうすんだよ、俺だって、そんなの」

「だめって、言われなければ、する・・・」

「な、お、お前・・・」

 僕は身体をずり下げて、そのスウェットの腰のゴムに手をかけた。「や・・・」と声が漏れ、びくっとするけど、「やめろ」とまでは言われてないから、そのまま続けた。

「ちょ、ちょっと、ねこ」

「うん。こんなこと、したことないけどさ。大丈夫、気持ちよくしてあげる」

「・・・っ」

 おずおずと腰が後退して、肩にかけられた手に力が入るけど、明確に止められはしなかった。少し強引に下着ごと引き下げようとすると、ほんの少し腰が浮いて、そしてたぶんそれが目の前に現れた。

 顔を近づけて、匂いを、かいだ。

「お、お前、何して・・・」

 見えないけど、その辺りにゆっくり近づいて、キスをした。でも当ては外れて、下腹部のどこかに当たった。陰毛がさわさわとして、心地よかった。

「や、やっぱり、ちょっと、・・・っ!」

 今度はちゃんと、僕の唇が、黒井の勃ち上がったものに触れた。温かい。まだ少し柔らかくて、すべすべして、気持ちいい。でもみるみるうちに熱く、硬くなって、すごい、もうだめ、興奮する。

「ううっ・・・」

 その漏れる吐息に更に興奮し、息をかけながらもう一度キスをした。舌を這わせようとしたその時、「や、やめ・・・だめって!」と、ぼんやりとした頭で何とかそれを聞き取った。

「・・・だめ、なら、やめる、よ」

「ねこ、俺・・・や、やっぱり、まだ」

「なに?」

 黒井は急いでズボンを引き上げ、僕の腕を引っ張って、元の場所に戻るよう促した。そしてまた胸に顔をくっつけて、さっきよりずっと速い僕の心臓を感じていた。

「・・・お、俺、だめだ。こんなの」

「こないだは、お前が・・・」

「そ、そうなんだけど。だってお前が、その・・・と、とにかく何か」

「どうしたんだよ」

「・・・俺、かっこわるい」

「ええ?そんなこと。・・・かっこいいよ」

「な、何それ、どこが?」

「どこも。あそこも、全部」

「ば、馬鹿!そうじゃない!・・・あ、あの時はさ、何か必死だったけど、今はちょっと、もしかしてって、思うんだよ。だから、俺」

「・・・うん」

「行って、くるからさ。そんで、今より、もうちょっと中身抱えて帰ってくるからさ。そしたら、出してよ。その時は、顔とか、あ、あそことか?じゃなくて、中身がかっこいいって、言われたいから・・・」

「・・・分かった。分かったよ。クロ、やっぱり俺、お前のこと・・・!」

「な、何だ、言うなよ」

「言うよ。お前のこと、信じてる!」

「・・・っ」

 僕はもう、わけもわからずその身体を抱きしめた。頬ずりして、おでこに口付けた。「キス、キスならしていい?それもだめ?」と心の叫びが漏れ、返事は、「き、キスくらいは、ふつーだよ」だった。



・・・・・・・・・・・・・・



 僕からキスをするのは、初めてだった。

 何も見えないから、おでこから、まぶた、頬を通って、唇で、唇を探して、たどりついた。

「んっ・・・」

 ぎゅう、と強く、それからさらさらとなぞるように、乾いた唇の感触をひたすら感じた。黒井のにおいがする。何ていい匂い。俺に、こんなことされて、いいのかな。誰とでも、するの?こんくらい、ふつーなの?

「んんっ!」

 そう思ったら思わず強く口付けて、二人の呼吸も速くなる。舌を出して唇を舐め、ちゅう、と上唇を吸った。少し薄めのそれを吸いこんで、もう、食べてしまいたい。口を開けて、軽く歯が当たり、そして舌を挿し込んだ。

 途端にその少し長めの舌に絡め取られて、体勢までも黒井が上になり、肩と腕を押さえつけられる。いったん口が離れ、荒い呼吸と、唾を飲み込む音。

「はあ、はあ・・・お、おい、クロ」

「・・・なに」

「お前、その・・・男とキスするの、どう思ってんの」

「・・・さあね、何とも」

「・・・っ、じゃ、じゃあ」

「違うよ。お前が、初めて・・・」

 その一言で満たされて、僕は目を閉じ、また唇が降ってくるのを待った。

 ・・・でも、来なくて、目を開けるけど、まあ閉じてるときと変わらなくて。

「・・・クロ?」

「ねこ、俺、ちょっと、もうだめ」

 黒井は僕の上に倒れこんで、肩と首のあたりに顔をうずめた。息が温かく、髪が少しくすぐったい。

「どう、した?」

「俺、昨日も、一昨日も、ほとんど、寝てなくて・・・」

「・・・ば、馬鹿、そんなの、先に言え!」

「やっぱり、かっこわるい。キスの途中で、眠くなったりして」

「ごめん。またお前のこと、考えてなくて。お前はいつも俺の身体、心配してくれてんのに」

「・・・俺も、何か、お前に会って、安心したみたい」

「い、今、ベッドまで、運んでやるから」

「行けるかなあ」

「・・・無理、か。うん、俺の予想だと、何らかの痛い目に遭う確率は、90パーセント・・・」

「痛いのは、お前だけでいいよ」

「はは、そうだな」

「ここでいい、このまま、ちょっとだけ・・・」

「寝かしてやらなくて、変なことしてごめん」

「いい。お前の肩、貸して。また、よだれ、垂らす、かも・・・」

 僕はずり落ちたダウンを二人の上にかけ、その背中をまたさすった。圧迫感と体温と、その鼓動のリズムが心地よくて、僕もいつの間にか、眠りに落ちていった。その間、心底、幸せだった。



・・・・・・・・・・・・・



 覚醒してしばらくは、首の痛みとか、腰のねじれとか、足が冷えるとか、そういう感覚がぼんやりとその辺りに浮いていた。

 それからだんだんそれが自分の身体になり、そしてふいに、「遅刻か!?」と焦って、ぼんやりしていたものは現実の一点に絞られた。波動関数の収束、という言葉が意味も分からず浮かんだ。

 半身に乗っているのは布団ではなくて、温かくて重い人間だった。二人分の呼吸で胸が上下して、それはたまに重なり、たまにずれた。僕の方が少し、速いみたい。「遅刻だ、クロ!」と言おうとして、ああ、クロは、行かないんだ、と思い当たった。

 じゃあ、僕だけ行くのか。

 ようやく、今日は何曜日なんだと思い、ああ、土曜だった、と思い出した。

 クロと一緒に、行かないのか。

 今日と、明日で、もう、会えない。

 一ヶ月したら帰ってくるけど、一ヶ月って、僕がそれをなくしていたのと同じだけ長い。たった、たった何日か取り戻しただけで、また同じだけ過ごさなきゃならないなんて、ちょっとひどくないか?フルマラソンでゴールした途端にまた始まるようなもんだ。まあ、それでも、会えただけマシだけど。っていうかまあ、あの一ヶ月があったから昨夜があって、ああ、しかも今度の一ヶ月があるから、言えた事もある。そうじゃなかったら、普通の日常を覆すような言葉は、飲み込んでいた・・・。

 ああ、言っちゃったんだ。

 その単語は、言わなくとも。

 みんな、伝えちゃった・・・。

 左の肩に乗っている黒井の髪を撫でようとして、しかし左腕の感覚が何もなくて、どうやって動かしたらいいか、繋がっていなかった。

 伝えても、気持ちよかった上に、こうして一緒にいられてるじゃないか。

 ずっと、ずっと我慢して、怖くて、絶対だめだって思ってたこと。言うなって言われたし、受け止められないって言われたけど、後悔はしていない。まだ少し実感がなくて、ふわふわしているけど、お前がこうして僕の上で寝ているんだから、夢なんかじゃないんだ。

 お前のことを完全に取り戻した満足感と、もうすぐ会えなくなる喪失感と、ちょうど半分半分だった。満足感に浸っていると喪失感がやってきて、しかし喪失感に打ちひしがれていると、満足感を思い出して芯が熱くなる。ぐるぐる回って、繰り返し。でも、それでも、自分の足を引っ張りあってどこへも行けないメリーゴーランドに比べたら、うん、比べようもなかった。

 ・・・やっぱり、中身だ。

 この気持ちが真ん中にあれば、どんなことでも乗り越えられる。本当に、お前にもそれが戻るといい。

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