19章:送別会
(桜が舞う新宿中央公園、僕たちは神社にたどりつく)
第150話:恋の障害物<料理の鉄人>競争
動かせる右手を軋ませながら上げて、締めっぱなしだったネクタイを緩めた。
何だかそれで、自分が会社員だってことを思い出した。どこの誰でもない山猫じゃなくて、新宿の会社に勤めている、東京在住のサラリーマンだ。同僚のことが好きで、ほとんど告白みたいなことをした。そして、その男を腕に抱いて夜を明かした。
・・・端から見れば、同性愛者だとか、ホモだとかゲイだとか、言われてしまうんだろう。ネクタイ一つから、いろんなものに名前がついて、型にはまって分類されていく。そして、今までならともかく、もう、僕は行動に移した確信犯だった。最初の頃はそのことに強く抵抗を感じて、自分は違うって思ったけど、でも今は、そんなことは割とどうでもよかった。どの枠に入っていようが、世間からどんな目で見られようが、どうでもいい。だって、この男を見ろよ。僕が抱いてるこいつ。こんなの、惚れないわけない。人間として、いや生き物として生まれてきて、この男を愛さないわけない。こんなに素敵なもの、手離せるもんか。絶対、誰にも渡さない。
・・・あ、やっぱり、喪失感と、そして、その先に、嫉妬。だって千葉って、あそこに缶詰で泊まり込みで、一ヶ月?人事の人は何人行くの?男?女?誰と一緒の部屋で寝るの?・・・え、ちょっと、そういえば新入社員って何人いるの?その全員から「くろいさーん」って頼られちゃうの?うわ、あり得ない!女の子は何人?お、男でも?ど、どうしよう、そんな心配してなかった!不安が具体的になっていく。ああ、もう、時間がない!
そして今日、18時から送別会だったことも思い出した。一応主役というか、送られる人間なんだし、みんなといろいろ話すんだろう。僕は結局欠席で送っちゃったけど、あれ、書くだけ書いて送信してなかったかな、まあどっちでもいい。とにかく、そんなところに僕が今日行くかどうかだ。クリスマスイブの記憶が蘇る。みんなが何か適当に話していて、微妙に入れない感じの僕。まあ、同期ばかりだからそれほど気負いはしないけど、だからって、またみじめな嫉妬でいじけるんだろうし、だったらここで部屋の片づけでもして待ってようか・・・。
玄関のドアには覗き穴の一点の光。そして、部屋のドアの方に、ぼんやりと二本の縦線が浮かんでいた。ドアの、すりガラスみたいになってる部分だろう。部屋のカーテンも閉まってるんだろうが、僅かに光が入ってきている。まだ近所の喧騒も聞こえないから、早朝、なのかな。
ああ、冷凍庫のものが溶ける。
そんな心配とともに、尻の下に何かはさまっているのと、腰が痛いのと、そして足が寒かった。ああ、僕は靴下だけど、そういえばクロは裸足だったか。こんなとこで寝て、今風邪でも引いたら大変だ。やっぱりベッドに連れて行かなきゃ・・・。
右手でその頭を撫でようとして体勢がずれ、黒井が「うう」と唸った。ごそごそと寝返りをうとうとし、その肩に思いっきり重心をかけて、い、いてて、感覚が麻痺してるけど、そこは床じゃなくて僕の肩なんだ。そして黒井は腕を引き寄せて、ちょうど僕の心臓の真上にその手のひらを置き、ぐいとつかんだ。「ん・・・」と声が漏れ、そして唐突に、耳元で「届かないよ・・・!」と言った。
「・・・クロ?」
「・・・」
・・・寝言?
「届かないって、何に?」
「・・・まるいの」
「え?丸い、何?」
「・・・うん?」
「クロ?」
たっぷり何十秒か沈黙してから、黒井は「・・・なんだっけ?」とつぶやいて体を起こし、「なんだこれ」と言って僕の胸や肩を手で探った。ただの異物と思われていた僕は、しかしふいに体重が離れた左腕に血が流れ始め、指先を動かそうとすると腕全体が痺れた。そしてそこを、黒井がまた無遠慮に叩いた。
「ひい!」
「うん?」
「く、クロ、手、離して。さわんないで・・・!」
「・・・ああ、ねこ、いるんだっけ。あれ?ここに?」
「やっ・・・!だ、だから!・・・だめって言ってる・・・!」
「・・・何が?」
「おねがいだから、手、はなして・・・」
「・・・何で?」
「し、しびれて・・・」
「・・・ここ?」
「やあっ!・・・っ、やめ、やめて」
徐々に神経が繋がり始めて、線香花火みたいなじわじわした刺激。軽く手を置かれただけで、痛みでもくすぐったさでもない、で、でもとにかく、だめ!
「ああ、ねこ、痺れてるんだ」
「そ、そう、だから・・・」
「くすぐっても効かないんだから、やるなら今だ」
「な・・・!そ、そういうこと、言わない・・・ひ、ひいっ!」
黒井の楽しそうな笑い声と、僕の悲鳴。そ、その、遠慮も容赦もないとこが、好きなんだけど・・・。強引に何かされちゃってる気分に浸る余裕もないまま、「おねがいおねがい!」「んーん、聞かない」で、それは僕の腕の感覚が完全に戻るまで続いた。・・・好きな人に笑いながらいたずらされて、身体に触られて、もう、胸や腹がきゅうきゅうする。うん、告白したって片想いは変わらないから、こうして何かされたらどきどきしてしょうがない。もう、お前といたら、何をしたって幸せすぎるよ。心拍数なんか、たぶんずっと100を切らなくて、事切れそう。クロ、心臓マッサージと、それから人工呼吸、覚えといてよね・・・。
・・・・・・・・・・・・・・
何とか這いずって玄関まで行き、ドアを開けたら眩しかった。
散乱した靴をどけて、ブレーカーを上げる。
電気がついて、部屋の状態を見てしまったら、もう、そのまま出かけたくなった。お腹が空いてるけど、キッチンは使い物にならない。シンクに溜まってるのが米や卵がこびりついた皿や鍋じゃなくて、カップ麺のプラスチックカップや惣菜のトレイばかりなのを見て、呆れる前に悲しくなった。もう、俺をお前のお嫁さんにしてくれ。ちゃんと毎日作るから。栄養だって、コストパフォーマンスだって考えるから。
拳を握りしめるけれども、ここを全部片付けて、材料をスーパーで買ってきて作っている時間もない。朝の六時くらいかと思ってたのに、もう十一時だったのだ。
「クロ、どっかに何か食べに行こう。ちょっとまともなもの、食おう」
黒井は曖昧に微笑んで、「ん、んん・・・」と、<別に>って顔をした。未だカーテンを開けずに部屋の隅に座り込んで、物に埋もれて壁に寄りかかっている。一応冷蔵庫を開けてみるけど、緑のハイネケンの六缶入りが並んでいるだけだった。そのケースというか厚紙の破片が奥に溜まっていて、どれだけ飲んだんだって、思わず顔をしかめた。昨日だってどうせ屋上で飲んでいたんだろう。
「こんなんじゃ、体壊すから・・・」
僕がつぶやくと、黒井は案の定「別に・・・」と力なく返した。
「別に、体なんてどうでもいいんだ。俺、バカと何とかは風邪引かないってさ、あれだし」
「・・・それ、バカと鋏は使いよう、だ」
「うん?・・・そっか」
「でも、やっぱり・・・」
「いいんだって。それどころじゃ、ないんだ。中身がなきゃ、外身も意味ないんだからさ。・・・大丈夫、向こうでは食事、出るから」
「・・・うん」
僕はこの近くでまともな飯を出す店があったかと思い浮かべるけど、駅前のチェーン店以外はよく知らないし、新宿まで出たって、まあそんな店に詳しいわけでもなかった。
これだったら、スーパーの方が、近いか。
ちくしょう、ゴミとゴミじゃないものにまみれたキッチンを、一から綺麗に片づけることなく、とりあえず鍋と火だけ使えればいいってことで、やっつけるしかないか。背に腹は代えられない。そう思ったら、財布だけ持って「お前!待ってろ!」と靴に足を突っ込んだ。何回ここからスーパーに通ったと思ってるんだ。僕は玄関を飛び出して、非常階段を駆け降り、走った。外が暖かくて、すっかり春の陽気だった。
・・・・・・・・・・・・・
カゴに、とにかく放り込んだ。面倒だったり難しいものはつくっていられないから、もう、すぐ思いついた鶏肉と野菜のスープ。カットされてるもも肉と、たまねぎ、にんじん、チンゲン菜、半分サイズの大根、あと、それから、れんこん?違うな、パプリカ?悪くないか。そうだ、しめじ。あとは?野菜コーナーを引き返してイチゴのパックを上からつかみ、いつもなら悪くなってるのがないか選別するんだけどな、なんて、言っていられない。ビタミンと、カロチンと、それから?目に付いた豆腐を、これもありかとカゴに入れ、あとはカフェインレスの何だかおしゃれなペットボトルのお茶。それから総菜コーナーで白米を追加し、昼時で混み始めたレジに並んだ。
帰ったらもうクロがいないんじゃないかって、なぜか不安に駆られて、袋詰めもそこそこにスーパーを飛び出した。お前が千葉に行っても耐えられるかもしれないが、倒れたり、入院するような事態になったら、発狂しそうだ。生きていれば失っても取り戻せる。でも、そうじゃなかったら・・・。目の前が真っ暗になりそうになって、大丈夫、その時は一緒に行けばいい、と自分を落ち着かせた。離れていたって、「せっかくだから一緒にいけたらいいね」って・・・、やめろよ縁起でもない!
首を振っていらぬ心配を追い払い、美味しいスープを作ろうと、それだけ考えた。
具材は、サイズをそろえて一口大に切って、でも鶏肉は少し小さめでも、よりダシが出て、硬くもならないし美味しいかも。柔らかい葉ものはなるべく最後に入れて、さっと熱を通せば緑も鮮やかだし、シャキシャキ感も残るし・・・。
胃がきりきりして、焦って腹が痛い。
エレベーターを待つのももどかしく、階段を駆け上った。息切れがして、汗もかいている。ふらふらになって鍵のかかってないドアを開け、「クローっ」と声を振り絞った。
返事がないのでいろんなものを踏みつけながら部屋に急ぎ、ドアを開けると、ベランダの窓を全開にして、黒井は両手を上げて天日干しされていた。上はTシャツ一丁で、うつらうつらしていた目を開けて、僕を見るとただにこりと笑った。
僕は安心して、袋からいちごのパックを出し、その顔の横に置いてやった。「甘いにおいがする」と、黒井は言った。
・・・・・・・・・・・・・・
自分としては許せないことをする度、「スープ!スープ!」と言い聞かせ、汁漏れしたカップを床に放り出したり、裏がソースまみれの皿を食器棚に戻したりした。こんなタブーを犯したって、快感なんか訪れない。・・・あとで、全部、掃除するから!!クロが送別会に行ってる間、シンデレラのごとく、家事に勤しむから!
野菜を切りたくても、まな板と、それを乗せるスペースが見つからない。僕が持っている武器は今持ち帰った大きめのレジ袋のみで、とにかくキッチンの邪魔なものをそれに突っ込んで、あとは小さな半透明のポリ袋をもらってこなかったのを後悔した。野菜の皮だとか、ちょっとした・・・ああ、もう!歪んだ笑みが漏れて、頭のてっぺんがちりちりしてくる!水道の水を出したらスプーンを直撃してびしゃっと跳ねるし、にんじんの皮をむいていてすべって落とし、拾ったら髪の毛や埃まみれでもう捨てたくなるし、もう、ハウスメイドとか呼んじゃおうかな!っていうか、完全にサバイバルだと思ってやるか。いや、サバイバルならとにかく食べられればそれでいいけど、今は、<美味しい>ものが食べたいんだ!
・・・もう、頭の中でゴングを鳴らした。この状況でうまいものを作るっていう、障害物<料理の鉄人>競争。これはわざわざ用意されたスタジオであり、自分がどこまで出来るか試すだけだ。うん、タイトルの最初に<恋の>を付けてもいいかもしれない・・・。
たかだか、全部を鍋につっこんで煮込むだけのスープに、小一時間かかってしまった。だって、にんじんと大根を、頑張れるだけ頑張って薄めに切ったのに、煮えるのに時間がかかったんだもん・・・って、どこの乙女の言い訳だ。味付けはコンソメ先生と鶏のダシに任せてあるから、ごく無難に着地した。いつか買っておいたコンソメが元の場所にあって、本当に助かった。
何とかスープ皿に盛って、またパセリとか買わなかった、と仕上げの甘さがよぎるけど、とにかくクロに食わせてやろうと思った。・・・犬かい。
「クロ、とりあえず、ちょっとこれ食えって!」
両手に皿を持って部屋に入ると、黒井は陽射しを浴びて丸くなっていた。いつものように、やっぱり、何もせずごろごろしたり、うとうとしながら待っている。本当に犬なのかな。だったらご飯の後、散歩に連れて行かなきゃ。
僕は皿を置く場所を探して、もうえいや、でベランダに置いて、黒井の隣にしゃがみこんでまた声をかけた。今度は優しく、肩を撫でながら。
「・・・クロ、起きれるか?スープ、作ったから、・・・よかったら、ちょっとでも」
「んん・・・」
更に丸まって目をこすり、その手が宙を掻いて何かを求めるので、手を、出したら、握った。
「・・・、なのかなあ」
むにゃむにゃと、何かつぶやく。
「え?」
「ねこ、なのかって」
寝ぼけてるのか。でも一応僕を認識してくれて嬉しい。
「・・・うん、俺だよ」
「お前なの?」
「・・・うん。俺、だけど」
「そっか。やっぱり、お前か」
黒井は握っていた手を離し、僕の膝をひと撫でして、体を起こした。「何かあんの?」と言うのでベランダを指差すと、「うまそ」と言って、食べ始めた。
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