第151話:せっかくかわいいうさぎ
途中からご飯を入れて雑炊風にしてやり、結構大盛りだったんだけど全部食べてしまって、「何か気持ちよかった」と皿を渡されたら、もう腰抜けだった。何でも、もう、何でもやります。あなた様のためなら、何だって。
しかし胸を熱くして掃除の計画を立てていたら黒井の電話が鳴って、「はーい?」なんて気安い声で出て、相手はたぶん望月のようだった。ああ、送別会の件かな。何となく立ち聞きするのもなんだから、緊張と安心で腹も痛いし、トイレに入った。
別に、聞きたくはないし、聞くつもりもなかったんだけど。
つい、ドア越しでも聞こえてきてしまうんだから、しょうがない。
いいよ、とか、大丈夫、とか、ああ、いいじゃん、とか。
そんな普通の相槌のほかに。
・・・ああ、連れてく。だって今、一緒にいるから。
・・・。
ちょ、ちょっとそれってまさか、やっぱり、僕のこと?
今すぐ出て行って、大きく手を振って、ばってんを作りたいような、・・・もうどんな顔して出て行ったらいいか、わかんないような。
会話は、うん、うん、わかった、じゃあねー、と言って終わった。はあ、どうしよう、と思っていると足音が近づいてきて、コンコンとノックされた。
「は、はいっ」
「今日、飲み屋じゃなくて、花見になったって」
「・・・そ、そう」
「何か、新宿の、中央公園とかいうとこだって」
「・・・あ、ああ」
「お前、わかる?」
「えっ、あ、あの、都庁の奥だよ」
「ふうん。桜、咲いてるのかな」
「ど、どうかな」
「ねえ」
「なに」
・・・。沈黙。
・・・トイレでじっとしてるのもわけがわからなくて、とにかく、もう用も済んでるんだし、立って、流して、出た。
ドアの前に突っ立っている黒井に、「な、なに」ともう一度訊く。
「いや、その」
「な、何だよ」
「俺もトイレに行きたくて」
「・・・あっ、そ、それは、ごめん」
しかし、入れ替わりにドアをすり抜ける黒井をすんでのところで止めて、腕を引っ張って、「ちょっと待って!!」と外に出した。あ、まだ手を洗ってないのに、ってそれどころじゃない。
「え、どしたの」
「ちょ、ちょっと、いいから!!」
僕は急いでトイレに入って、ウォシュレットの<脱臭>みたいなボタンを探すけどなくて、消臭剤のスプレーとかもなくて、窓もなくて、仕方ないから外に出た。・・・直後に入るのやめてくんないかな。でも我慢してとも言えないし、どうしたものか。
「・・・もう、いい?」
怪訝な顔でせかされる。そりゃ、そうか。
「あ、あの・・・ちょっと、ごめん」
もう、こんなことならコンビニにでも行けばよかった。しかし黒井は、「ああ、俺そういうの気にしないよ」と言って、さっさと入って、ドアをパタンと閉じた。・・・もっと気にして!客が来る可能性があるなら、消臭スプレー置いといて!ってまあうちもないか。っていうか順番が逆ならよかったのに。それなら・・・、うん、それもどうかと思うけど、それなら、よかったのに。
右のものを左に移して、左のものを下におろして、これ意味あるのかって、減少しないエントロピーと戦った。そのうち黒井がトイレから出てきて、何だか気まずいから僕は清掃作業員です!ってなりで、振り向くことなく手を動かし続けた。
「あのさ、その、公園?遠い?時間かかる?」
黒井がいろんなものをまたぎながら、また部屋の隅に座り込む。
「・・・いや、一時間もみなくて、いいんじゃない?でも、あの、俺は」
「ああ、何か持ち寄るもの、買ってく?」
「いや、その」
「何か俺、手ぶらでいいって、送られる側だから?でも、お前は・・・」
「・・・」
俺は、送る側だから。
いや、ここで待ってるよ、と言おうとして、でも胸が詰まった。
本当にもう今日と明日しかなくて、今日もすでに半分以上終わっていて、そういえば別に明日だって、一緒にいるって話でもないわけだ。だったら一緒に行くべきなんだろうか。明日一緒にいる理由がなくても、同期の集まりに出る理由ならある。花見の間話せなくても、みんなの輪の中にいるお前を見てるだけだとしても、せめて公園まで一緒に行けるし、帰りも・・・。
・・・一緒にここへ帰ってくるってことでも、ないのか。
勝手に、片付け終わるまでここにいられるんだと思ってたけど、そんなことは僕が思ってるだけか。・・・だったらやっぱりここで片づけをしながら午前様のお前を待って、なし崩し的に泊まっちゃった方がいいのかな。どっちの選択肢ならあと何時間一緒にいられるんだろう。一分一秒でも長く一緒にいたいだけなんだ。行ってしまう、ほんの、ぎりぎりまで。
・・・。
僕はゴミを片付ける手をふと止めて、思考も何秒か止まった。
・・・一分一秒とかいうなら、今、こうしてる時間は何だ。
ゴミと向き合って時間を計算しながら、何が一分一秒だ。いったいいつの話をしてるんだ。でも、じゃあ、どうする。片付けは放っておいて、無理やり黒井の隣に座り込んで、また話でもする?それとも一緒に早く出て、持ち寄りのオードブルなんかをデパ地下で見て回る?でも、ここを片付けないまま黒井が行ってしまったら、帰ってきたときどうなってんだ。何か、異臭騒ぎになったりしないだろうね。・・・あ、合鍵とか、貸してくれたり、しない、かな。
・・・そ、そんなの。
「ねえ、どうすんの?」
思い出したように呼びかけられて、僕はいったん手を洗い、落ちているタオルで強引に油を拭って、僅かな床の隙間の、黒井と同じ獣道を通って部屋に行った。
「あの・・・」
ぐんにゃりと座っている、その前の床を何とかかきわけて座り込む。正座で、真正面から向かい合って、切り出した。本当、切羽詰らないと、こういうこと、出来ないんだ。
「クロ、お願いがある」
「・・・な、なに、あらたまって」
「お前が千葉に行ってる間、俺・・・、その、ここを、片付けてしまいたいんだ。私物を荒らしたりしないから、もし、よければ、・・・合鍵を、預けてくれないか」
「・・・」
黒井が黙っているので、やっぱり気まずくなって、続ける。
「そ、その、生ゴミとかもあるし、何かで火事にでもなったら大変だし、今やろうと思ったんだけど、時間が、足りなくて・・・」
「・・・」
「お前が花見に行ってる間にやってしまおうと思ってて、でも、その・・・、俺も、行きたいなんて・・・、い、いや別に、行かないで、片付けてるならそれはそれでいいんだけど、やっぱり送別会だし、とか」
「・・・」
だんだんと視線がそれて、うつむいて、それでもちら、と顔を見ると、黒井は憮然とした表情で僕を睨んでいた。僕は慌てて目を逸らした。
「・・・ごめん。わ、悪かった変なこと言って。今やれるだけやっちゃうから、気にしないで。忘れて」
立ち上がる僕を見送って、黒井は黙っていた。思わず部屋のドアを閉め、何かを踏みそうになってよろけ、壁に手をついた。
部屋から、ドアの向こうから、刺すような声がした。
「お前さ、何で、先にそういうこと言っちゃうの?」
・・・先に、って、何だ。
「俺がせっかく用意したのにさあ、何か、これじゃ、おもしろくない」
何を、用意したって?
乱暴にドアが開いて、僕を見ないまま黒井は何かを蹴っ飛ばしながら玄関に歩き、会社の鞄から、茶封筒みたいなものを取り出した。そしてそれを、僕に、思い切り投げつけた。
「・・・てっ」
ひらひら落ちるかと思ったら、何か重いものが入っているようで、直線で顔に飛んできた。とっさに上げた手に、硬いものが当たって、落ちた。拾い上げると、まず目に入ったのは見慣れない切手。いつもの鳩みたいな80円切手の下に、白くて丸いうさぎが貼ってある。額面は2円・・・あ、消費税分か。
そして、宛先には、僕の名前があった。
うちの住所の横に、<山根 弘史 様>と、ボールペンの直筆で。
・・・初めて、見た。お前が書いた、僕の、名前。達筆ではないけど下手くそでもない。それほどクセがなくて、筆圧は濃い目。お前はひらがなはちょっと子どもっぽいけど、漢字は結構綺麗に書くんだ。
裏返すと、住所はなく、あの見慣れた<黒井 彰彦>。
そして上から触ると、封筒の中には、何やら小さくて硬いもの。これ、もしかして・・・。
「お前、こ、これ」
「送るつもりだったんだよ。部屋、何とかしてって」
「じ、自分で片付けるつもりはないのか」
「ないよ。俺にどうにか出来るわけないじゃん。んで、お前これ見たら驚くだろうなって、楽しみだったのに」
そう言って、床を見渡す。・・・た、楽しみ?
「はあ?」
「それなのにお前は来ちゃうし、でもまあ全部片付くはずないからいっかって思ってたら、鍵寄越せだの、片付けるだのって、まったくうるさい!」
「・・・、う、うるさいとは何だ」
「切手、無駄じゃん。せっかくうさぎ、かわいいのに」
「うさぎは関係ないだろ」
「もういらないんだから、中開けて捨てて」
「い、いらないことないよ。切手だってうまくやれば剥がれるかもしれないし、それに」
「・・・それに?」
「・・・」
僕はもう一度その宛名を見て、トメだのハネだの、間隔だの大きさだのを何度も眺め回して、そして封筒を胸に当てた。
「お、俺宛てなんだからさ、俺のだよ。今受け取ったんだから、俺の郵便物だよ」
「郵便出してない!」
「そうだけど!」
郵便物なら所有権は僕にあるかもしれないけど、郵便に出してない封筒は差出人のものなのかな。でも出す意思があって、切手まで貼ってあって、ん、でも2円貼ってあるってことは四月に入ってから出す予定だったということであり、逆に言えば今の時点での投函の意思はないわけだから、たとえ宛名の本人がそれを手にしたとしても、所有権は未だ差出人に帰属する・・・。
・・・そんなこと、どうでもいいか。
いや、どうでもいいわけじゃなくて、うん、お前が書いた俺の名前を手にするためなら、俺は法律だって犯すんだって、そういうことだ。僕は少し暑いけどスーツの上着を着て、その内ポケットに封筒をしまった。そして、その後、ああ、ある日疲れて家に帰って、郵便受けを開けたらこれが入っていたとして、そしたら僕はどれだけ驚いて狂喜乱舞しただろうと思うと、「余計なことしてごめん」と、黒井と、いたかもしれない未来の僕に謝った。
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