第152話:さくらジェラート

 携帯が鳴って、望月からメールが届いた。昨日の送信済みメールを見たら、欠席の返事は結局送信できてなくて、それでも黒井がさっき「連れていく」と言ったから、出席扱いになったようだった。

 望月たちが準備はするけど、持ち寄れる人は食べ物とお酒を適宜持ち寄って、その分会費から引くので、的な案内だった。地図とかいろいろくっついてくるけど、スマホじゃないから見にくいったら。

 結局、部屋の片付けが先延ばし出来るわけだから、少し早めに出て何か買うことにした。

 

 ・・・でも、何も、言えていない。

 黒井は手ぶらでいいと言われているけど僕は買うわけで、それに付き合ってよ、と言えていない。

 花見の後も、一緒にいたいって言ってない。

 明日何か予定があるのか、もし許されるならぎりぎりまで・・・って、言ってない。

 鍵をもらって、でもまだ封は開けてないし、具体的にどういうことなのか訊けてない。

 三十一日は本社らしいけど、その後、いつどこからどうやって千葉に行くのか、訊けてない。

 荷造りはどうなってるのかとか、僕に手伝えることがあるのかとか、要するに、僕がいったいどこまで関わっていいのか、何も言い出せないままでいる。

 これこれこうだから、こうしよう、とか、こうしてよ、とか言ってくれれば、もちろんそのとおりにする。でも、「公園まで時間かかるかなあ?」では、一緒に行くのか、別行動するのか、それまでに済ませたい用事でもあるのか、全然分からない。僕だけすっかり一緒に行く気でいて、でも途中で「あ、じゃあ俺はここで」って言われたら、・・・ヘコむ。まあ、あらかじめ聞いてがっかりするか、その場で言われてがっかりするかで、先延ばししてるだけなんだけど。

 部屋を片付ける口実があれば、「出かける予定あるの?」とか「必要なものあったら探しとくよ」とか、自然に切り出せそうなんだけどな。鍵をもらっちゃったからそれも必然性が薄いし、無駄に居座ることも出来ないわけで・・・。お前の人生の命題の話なら「俺の人生かけてそれをやる」って断言できるけど、花見に行くのに「俺と一緒に、早めに出てくれ」だなんて、そういう次元じゃないよ。たとえ本当に深い話が出来たって、買い物に付き合うかどうかってまた別だよね・・・。

 そうやって何も訊かないままごそごそと身支度をしていると、黒井が「もう出んの?」と。

「え、ああ、うん・・・」

「ちょっと待ってよ。俺、着替えがさ、もう」

「いや、俺、先に買い物が」

「ああ、それさ、俺の好きなやつ買おう。だってさ、花見とか、あんま好きじゃないやつばっかだったら食うものないじゃん」

「え、まあ、そうだけど」

「どこで買う?」

「え、えと、新宿のどっか、デパ地下とか」

「じゃあ伊勢丹行こうよ」

「え、う、うん」

「どっかに・・・、ええと、あのジーパンどこやったかな」

 僕の立ち位置も決まらないまま、まあいつもこうして何となく目の前の予定だけが決まっていく。未来は分からないまま、黒井が、僕の踏み出す一歩を現在進行形で示していく。それが心地いいようであり、しかし半分は不安でいっぱいだ。次の一歩はどうなる?その次は?そのまた次は?僕の期待はどんどん高まって、でもその時お前がふいに「そんなの知らない」って向こうを向いてしまったら、どうすればいい?

 ・・・そんなもの、自分で抱えるしかないな。

 僕の中身はお前かもしれないけど、お前に全てを委ねて生きるって、そういうことじゃないだろう。たぶん中身を取り戻した急激な変化で、自分が、器の方まで侵食されてるんだな。だから自分で決められないし、黒井が望むとおりに、としか思えなくなっている。

 こんなんじゃ、だめだよな。一緒にいたいって、思われないよな。

 反省しながらぼうっと着替えを見ていたら、黒井が「ちゃんと、洗ったやつだよ!」と、パンツのゴムを伸ばしながら、わめいた。



・・・・・・・・・・・・・・・



 三月の最後、土曜の昼下がり。

 陽射しは暑いほどで、日陰を歩くと風が気持ちよかった。

 せっかくの日和なのに、別にお洒落でもないスーツが何だか無粋に感じたし、そういえばシャツだって昨日の涙と鼻水でまみれたままなのだった。

 黒井は古着っぽい色褪せたジーパンに長袖のTシャツを合わせて、ちょっとどうでもいい感じの薄手のジャンバーみたいのを羽織ったら、吉祥寺にでもいるような若い人になった。年のことを気にしてたけど、アラサーになんか全然見えない。相変わらず、単なる会社員ぽい僕は全然つりあってなくて、一緒に歩くのが少し恥ずかしかった。

 桜上水までは「春だね」「あったかい」「ってか暑い」を繰り返して、電車に乗ったら何となく黙っていた。何も言わなくても気まずくない心地よさはいつもより少なくて、やっぱり今夜とか明日のことを考えてしまう。今この場で一緒にいるんだから、今を満足すればいいのに。でも、この気温とか、ちょっとした春の匂いとか、周りの雰囲気だとか、そういうものがみな<出会いと別れ>みたいのを演出しまくっていて、僕は窓から遠くの景色を眺め、目を細めるしかなかった。途中で黒井が一度、「ああ、あれ」と中吊り広告を見ていたけど、字がぼやけて読めず、「ううん?」と曖昧にうなずいた。花粉が飛んで、また目のかゆいシーズンが来たのかもしれない。

 新宿に着いて、東口の方から出て伊勢丹を目指した。何だかすごい人手で、クリスマス前のサザンテラスを思い出す。ああ、冬から、春になったんだ。喧騒の中でこれといった会話もせず、時折人を避けて縦に並んで、感傷的な気持ちは勝手に膨れていった。ふいに、相手の肩に手をおいて「お前、頑張って来いよ。こっちも何とかやっとくからさ」なんて口にしたくなっちゃうけど、今更フツーの友達ぶれないことに思い当たって、行き場のない手は腕時計を見たり、後頭部を掻いたりした。近づきすぎると離れたくなって、後悔はしてないけど、元の関係に戻りたくなってしまう。何でもただのトモダチで済ませられて、手を繋いだり、キスでさえおふざけで、たとえ喧嘩しても謝れば仲直りできる存在。でも今は、どうなのかな。恋人ではないけれども単なる友達ではなくて、でもそれは、<友達以上恋人未満>ではなかった。恋人ではなくて、その上友達という枠からも半分はみ出しているだけ。でも半分は踏みとどまっているから、こうして今は、友達っぽいふりで買い物なんかに来ている。

 ・・・まったく、どんな顔でいればいいのやら。

 伊勢丹に着いて、エスカレーターで地下に降りる。中も人でいっぱいで、しかも大体は女性か夫婦か家族連れで、僕は自分が、そして僕と黒井が浮いているような気がしてならなかった。

 しかし黒井はそんなこと全く気にならないみたいで、「うわっ、あれすげー」とか「高っ」とか、テンション高く浮かれていた。ああ、僕は浮いていて、お前は浮かれてるのね。意味が全然違うんだ。

 まるで順路があるかのように少しずつ進みながら、「で、何がいいの?」と訊いた。花見でみんなで食べるものなんて、どんなものがいいのかよく分からない。スーパーなんかの行楽用オードブルセットみたいなものしか思い浮かばなかった。

「ちょっと待って、何がいいかなあ。あ、あれは?」

 指さした先のショーケースには、何だか蟹の甲羅に入ったグラタンみたいなやつ。え、一つ850円?何個買う気?来るのは十人プラスアルファらしいけど、あんな小さいの十個で八千円とか、予算オーバーだって。

「あ、久しぶりにまい泉のカツサンドがいっか」

 なに、9切れで千二百円?っていうかまあ別に、しっかり人数分なくたって、好き勝手食べればいいのか。通り過ぎたらもう戻ってくるのが嫌になりそうで、その場で6切れ入りを買った。別に、どうせみんなが寄ってたかって適当に食い荒らすだけだ。

 何だか、千円札がただの引換券みたいに見えてくる。とりあえず三枚分くらい、このフロアの何かと交換すればいいわけだ。

 それからぐるりと回って、言われるがままサンドイッチの詰め合わせを買い、「今カツサンド買ったばかりだ」と言っても「やっぱりこっち」だなんて、何て気まぐれ。そのままなぜかマドレーヌを買って、「花見でマドレーヌ?」「どうせ女の子が食っちゃうよ」と。お次はケーキに心惹かれてるようだけど、そんなのこの陽気で何時間も保たないってば。

 っていうか、「あれ欲しい!」「これも!」だなんてねだられて、ほいほい買ってしまうというのはこんな気持ちか。これがやがて服になり、アクセサリーになり、ついには宝石とかも買っちゃうのか。それでもあとからにっこり微笑まれて、「○○クン大好き!」とか言われたら、ああ、だめなんだろうな。僕は自分が堅実な人間だなんて思ってたけど、案外ダメ男だったんだ。

「えー、ケーキはダメかあ」

「だめだめ、保冷剤入れたって無理」

「なんかここ暑いしさ、冷たくて、甘いのが食べたい」

「ええ?・・・じゃあ、ここでジェラートでも食う?」

「食べたい!」

 さっきイタリアンジェラート屋を見たのを思い出して、回れ右で黒井の腕を引っ張った。また、腹がひゅうと透ける。な、何だ、二人でアイスとか食べちゃうのか。っていうか、俺、ちょっとあざとかった?物でつって、喜ばせようとしてる?でも、もう、いいじゃんか。下心見え見えだって、黒井が喜んでアイス食べたら、それでいいじゃん。



・・・・・・・・・・・・・・



「さくら!俺さくらが食いたい!」

 目を輝かせて、僕の肩を揺する。お、お店の人が見てるってば。

 行列に十分以上並んで、ようやくたどりついたレジで黒井は大喜びした。うん、雪の次は、桜が好きなんだね。そのさくらのジェラートと赤桃のジュースというのを買って、出口近くの通路で早速食べ始める。本当に暑いし、人混みのせいでろくに何もしていないのに疲れた。

 僕は左手に鞄と惣菜の袋を持ち、右手でジュースを持って、立ったまま一口飲んだ。ああ、冷たくて美味しい。飲み干してしまいそう。だめだめ、半分残さないと・・・。

 ・・・。

 うん?

 一つしか買わなかったけど、二つ買うべきだった?いや、本当に、狙ってやったんじゃなくて、何も考えてなかったんだ。一緒のストローで仲良く飲もうなんて、そんな、卑しい魂胆なんて・・・。

「んー、っー!」

 何だかくぐもった声がして、見ると黒井が桜の花のつぼみを口にくわえて、どや顔で笑っていた。ジェラートの上に乗っていたらしい。思わず僕も笑って、するとそのままちょっと上を向いて、ぱくっと食べた。

「桜って、食べてどうなの?」

「うん、ちょっとしょっぱくて、美味しいよ。食べたことない?」

「・・・そういえばないね。さくら味ってのも、あんまり」

「そっちは?」

「え?」

「あかもも」

「あ、ああ、美味しいよ」

 僕がちょっとためらいながら差し出すと、黒井は少し前かがみになって、ジュースはぐん、ぐん、と減っていった。

「ぷは、うまい」

「うわ、ほとんど残ってない」

「え、そう?あとあげるよ」

「う、うん」

 それから僕は心してストローをくわえ、意地汚く、ほんの一滴ずつジュースをすすった。やがてなくなってしまうと、あとは手の熱でジュースの氷を溶かしながら、その溶けた水をずるずると吸い続けた。だって、もうしょうがないじゃないか。僕はこういう人間なんだ。

 その隣で、黒井はうまいうまいとさくらジェラートをひとり食べ続けた。ソフトクリームみたいにコーンに乗ったやつじゃなくて、普通のカップだから交代で舐めたりだとかそんなことは出来ない。いや、もしそうだとしても、一口もくれないみたいだけど。でもいいんだ、そうやってお前がうまそうに食べてるのを見るのが、好きなんだから。

 でも、もしかしたらまた少し残ったのを「やるよ」なんて、くれるかな。そのスプーンを舐めちゃおうって期待して、その時ふと、目が合った。あ、いや、アイスが食べたくて物欲しそうにしてたわけじゃなくて・・・。

「あ、食べてみたい?」

「い、いや、別に」

「言えばいいのに」

 そう言って、スプーンですくって、僕の口元へ。

「い、いいよ、お前食えって」

「嫌いなの?」

「いや、そういうわけじゃ」

「じゃ、ほら・・・」

 ・・・。

 ・・・その、声が、ちょっと湿った感じで。

 僕の方に一歩近寄って、両手がふさがった僕はただ、口を開けるだけ。

 さっさと食べさせてくれればいいのに、ちょっとじらして、「おいしいから」なんて顔を寄せるから、何だかいけないことをしてるような気持ちになる。開きかけた口を所在なく閉じて、スプーンが唇に触れる前にまた開けて、目を逸らしてそれを、口の中で溶かした。ゆっくりとスプーンが引き抜かれて、冷たく、ほのかに甘いそれだけが残る。僕の頭も、これと同じくらいうすピンク色だ。

「・・・どう?」

「・・・うん」

「好き?」

「・・・好き、だ」

 ・・・。

 昨日言えなかった一言を口に出して、僕は一人赤面した。



・・・・・・・・・・・・・・



 適当に靖国通りをぶらぶらと歩いて、日が暮れかけた新宿を歩いた。会社のビルの裏手を歩いて、いつもならこれから残業ってところだなんて、何だか別世界。毎度のことだけど、黒井といると、すぐに昨日までのことがすっ飛んでいって、まったく違う地平を歩かされる。今は今しかないんだって、思い知らされる。

「・・・花見だなんて、そんな季節か」

 思わずつぶやいた。ああ、今日が特に新鮮なのは、たぶん黒井と会ってからずっと、冬だったからだ。こんなに夕方で冷えてきても、まだ<底冷え>ってほどではないという瞬間を、一緒に過ごしたことがないからだ。

「大学以来だな、こんなの」

 独りごちると、返事が来た。

「え、去年もやったじゃん。あ、お前、いなかったっけ」

「・・・去年?そうなの?」

「ほら、あん時は、御苑で」

「・・・そっか」

 思わず目を背ける。ああ、お前は本社だったけど、こういう同期の飲み会にはちょくちょく来てたんだな。僕は二年目からそんなのさっぱり出なくなって、何かにつけ断り続けたから、会う機会もなかったんだ。どおりで支社に来たとき、みんな「誰?」って雰囲気になってなかったわけだよ。わかんなかったのは、僕と横田くらいだったんだ。

 もしかして、そういうのに出てたら、もっと早く会っていて、もっと、早く・・・。

 ちょっと、胸がきりきりした。

 そうじゃなかったかもしれないし、むしろそうして会っていたら、支社に来てからこうはなってなかったかもしれない。懸命に自分を肯定するけど、飲み会に出なかったのをここまで後悔したのは人生で初めてだった。・・・だから、今こうして二人きりで歩いてるんだから、もういいじゃないか。過去を悔やんでも意味はないぞ。大事なのは、今だ。

「ここへ来て、半年か・・・」

 黒井が、会社のビルを見上げる。僕もつられて、そうする。静かな土曜のオフィスビル街。夕暮れの空と、スカイスクレイパー。

「何か半年が、あっという間だ。そんでたぶん、一年もあっという間・・・」

「そう、だね・・・」

 このまま本格的に春になって、やがて夏になって、そして秋が来て、また冬になる。せめて季節が一巡りするまで、一緒にいられるだろうか。ここを半袖のシャツで、汗を拭きながら一緒に歩いたり、ようやく涼しくなってきた、なんて晩酌したり、出来るだろうか。

 絶対、一ヶ月で、帰って来いよ。そのまま本社に戻ったり、するなよ。

 そう強く願いながら、前を歩く黒井に追いつくべく、止まってしまっていた足を動かした。そして肩を並べて歩いて、やがて、公園が見えてきた。

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