第62話:「・・・彼女、なんだろ?」

 浅い眠りを叩き起こす、音と振動。ドンドンドン!ドンドンドンドン!!

 玄関で、ドアが、思い切り叩かれている。

 ・・・何?

 借金取りが部屋を間違えたか?頭のおかしいやつがうろついてるのか?

 やり過ごすことも出来ず、タオルの手をほどく暇もなく「はい!」と大声を出した。

 ドアの前まで歩いてもう一度「はい!」と声を張り上げる。聞こえたらしく、「お届け物!!」の怒声。は?宅急便がこんなことするか?

 覗き穴から見ると、黒っぽい帽子を目深にかぶり、マスクをした男。手に封筒みたいなものを持っている。こんなの絶対、宅急便じゃない。

 泥棒?強盗?新手の何とか詐欺?

 ・・・たぶん、部屋番号を間違ってる。隣の住人が、最近変な時間に出入りして、変な音が聞こえたりする。クスリだのヤクザだの、僕には関係ない領域の何かだろう。でももう、どうでもよかった。ナイフを出して、有無を言わせず刺してくれたって、もうすっかり覚悟は出来てるんだから。

 タオルを取るのももどかしく、鍵を回してドアを開けた。ああ、むしろ有り難い。何かの犯罪に巻き込まれて、日常世界から連れ去ってくれたらいい。黒いバンに頭からつっこんで、東京湾にでも連れてってください。

 ドアノブを両手で握って、裸足で玄関に立つ。男が突き出してきた二つ折りの茶封筒には、「山根さんへ」の細い文字。ああ、部屋は合ってるんだ。何だろう、どういう、脅迫?

 受け取りたくても手が出せなくて、しばし封筒を見つめる。怖くて男の顔は見れない。ただの運び屋なら、ナイフで刺してはくれないか。

「何?それ」

 怪訝な声。え?ああ、タオルのこと?あんたの手間を省いてるんだよ、脅迫はすっ飛ばして、その先へ連れてってほしいんだ。

「・・・」

 ・・・、いや、封筒だけならさっさと投げ込んで、帰ってくれよ。こっちから述べることなど何もない。暴行するならさっさとして、腕の一本でも折っていけ。

「ねえ、何なの、それ」

 ・・・しつこいな。

「何してんの?」

「え?」

 ・・・。

 封筒から目を離して、男の顔を見上げる。帽子とマスクでろくに見えないけど。

 ・・・あれ。

 黒井だ。

 編み上げのブーツでやたらに背が高くて、分からなかった。

「・・・何で?」

「入っていい?」

「・・・どうぞ」

 僕はドアを大きく開けて黒井を中に入れた。何この人。え、本当に?

「・・・脱ぎにくいんだ」

 狭い玄関でかがむから、僕が入れない。

「いいよ、土足で」

「そんなわけ・・・」

「・・・じゃあ脱いで」

 僕なんか裸足で外に立ってるんだ。靴なんか履こうが履くまいが、もうどうだってよかった。


 結局黒井は玄関に座り込んで、こちらを向いて靴ひもを解いた。

「で、何なのその手」

 マスクを取って、ああ、いつもの黒井じゃないか。

「・・・何でもない。人質ごっこ」

「はは、何それ面白い」

「そっちこそ」

 ・・・。

 何だろう。

 意味がよく分からないけど、僕は落ち着いていた。どきどきもしないし、浮かれたりもしない。何に対しても、何とも思わなかった。顔の筋肉一つ動かない。

 ただ起こるべきことが、着々と起こっているだけだという気がした。それについて僕がどうのこうの、感情を動かすこともない。

 黒井はようやく靴を脱いで、僕の革靴の上にそれをどかっと倒したまま、「お邪魔しまーす」と中に入った。僕は裸足でそれをまたぎ、まあ、入っても何もないんだけど、と思った。

 質問も言いたいこともないから、黙っていた。何しに来たのか知らないが、したいことをして帰ればいい。

 タオルを取ろうとも思わなかった。僕はこれから房に入る囚人みたいに突っ立って、成り行きを見守った。

「これなんだけど」

 黒井はまた例の封筒を差し出した。受け取っても開けられないから、手も出さなかった。

「・・・いらないの?」

「置いといてよ。後で見る」

「・・・うん」

 テーブルにそれを置いて、黒井が僕に向き直る。

「これのこと、怒ってるの?」

「え?何が?」

 無言で封筒を見つめる。え?怒ることなんか何もないよ。それ、何なの?

「俺が届けに来たから、・・・嫌だった?」

 ・・・ああ、お届け物、なんだったね。

「嫌でも何でもない。何が入ってるの?」

「・・・CD」

「CD?ふーん」

「・・・中、見ちゃったんだ」

「あっそう。で、何なのこれ?」

「・・・藤井って子、から。お前に」

 ・・・。

 藤井?

 ・・・何だっけ。

「・・・本当は、一昨日から、俺が持ってたんだ。何となく、渡せなくて」

「そうなの?ふうん」

「・・・知ってたの?」

「え、知らないよ。俺が何を知ってるの?何にも、知らないよ」

「その子から、聞いて、ないんだ」

「・・・うん」

「俺が、預かったんだよ。廊下で、会って。山根さん、いますかって」

「・・・」

「いなかったから、外、出てるみたいって、言ったらさ」

「・・・うん?」

「山根さんって、知ってますかって」

「・・・うん」

「知ってるって、答えた。よく、知ってるよって」

「・・・」

「そしたら、何だか、よく分かんないことを、言ってた。山根さんの、何たらかんたらまで、知ってますかとか」

「・・・うん?」

「何か知らないけどさ、俺、ムカついてきて。そんで、渡すものあるなら預かるって言って、無理矢理ひったくった」

「・・・」

「それで、席に置いとこうと思って、行ったら、あの横田ってやつがいて」

「・・・」

「こいつ、外?って聞いたら、そうだっていうから、置こうとしたらさ」

「・・・うん」

「何ですかって訊くから、廊下で女の子に頼まれたって、言ったんだよ。そしたら、ああ、彼女だ、って」

「・・・うん」

「山根くんも隅に置けないですよね、手が早いし、って」

「・・・」

「・・・大事なものかもしれないし、直接渡すかって思ってさ。机に置くのはやめたんだ」

「・・・うん」

「・・・そのあと何となく渡せなくて、持ち帰って、中見て、CDも聴いて、昨日も何も出来なくて、今に至る、以上!!」

「・・・」

「そんだけ!分かった!?」

「・・・分かったよ。説明してくれてありがとう」

「怒らないの?」

「怒らないよ」

「・・・彼女、なんだろ?」

「別に。そういう関係を、約束なんか、してない」

「でも・・・告白、された、って」

「・・・何だったかな。感情の、発露を?・・・教えてくれただけ、だそうだ。返事はいらないし、するものでもないらしい」

「・・・何それ?」

「さあ。お前と同じだろ?俺がどうこうするのに関係なく、言いたいことを言って、やりたいことをしてるんだ。・・・お前よりは、かわいいけど」

「あ、そう・・・で、どうすんだよ」

「何が?」

「だから・・・これから、付き合うのかって」

「知らん。それに、お前に関係ない」

「・・・そうだね」

「・・・」

「・・・もう帰ってくれって、思ってる?」

「思ってないよ。何でもすればいいし、いつまでいてもいい。俺に構わず、好きなことをしてくれ」

「・・・っ!」

 カーテンを閉じきった薄暗い部屋で、胸倉をつかまれて、そのまま床に押し倒された。背中を打って、次に後頭部を打った。一瞬ぼうっとする衝撃。痛い、痛い。

「何だよ・・・何だよ!」

「クロ、何を怒ってるんだ?まあ、いいけど」

「何がいいんだよ!」

「頭を、打って・・・痛い」

「・・・ごめん」

「もっと、痛くてもいいよ。もっと、もっと」

「・・・は?」

「せっかく縛ったんだ。どうにかしていってよ。あばらとか、折れてもいいんだ」

「何言ってるんだ?」

「どうにかしてほしいって言ってるんだ。俺を、どうにか、しろよ!」

 怒鳴った。

 結果は見えてるよ。

 お前はゆっくり立ち上がって、済まなかったとか言って、出て行くんだろう。一度振り向いて、同情の目を寄越して、去っていくんだ。

 そうするべきだ。こんな親友は要らない。頭がおかしいし、それに、・・・えーと、頭がおかしい。

「お前、普通じゃないよ」

「・・・」

 無言で、微笑んだ。そのとおり。察しがいい。

 やっぱり黒井は立ち上がって、僕を見下ろした。うん、それが似合ってる。

「あの子が言ってたよ。お前は、普通じゃないって。それを、あなたは知ってるのかって」

「・・・」

「知ってるって答えた。・・・知ってるんだ。だから」

「・・・だから?」

「だから・・・いるんだ、ここに。・・・でも、あの子に、取られちまう」

「・・・」

「封筒、ひったくったらさ。あの子、大笑いして帰っていったよ。別に、可笑しいとか、馬鹿にしてるとかじゃなくて・・・こんなに素敵なことがあるもんかって、喜んでた。あの子はお前のことが好きなんだ。俺まで含めた、お前の全てが」

 ああ。

 よく分かった。

 昨日僕は浮かれた頭で、藤井と付き合って、結婚して、一緒に暮らそうなんて思い描いたけど。

 そんなの、まるっきり、無理だった。

 デートして、ラブホ行って、結婚して、家を買うような。

 そんなことをしてくれるかなんて期待する男を、藤井は軽蔑するだろう。僕は相手のことを全く考えていない。僕は藤井のことを、自分を受け入れてくれる女の子としか見ていなかったんだ。

 彼女が好きになったのは、そんな僕じゃない。

 藤井さん。今ならちょっとだけ分かる。

 きっときみなら、僕の「特別な人」が、封筒を渡した相手だって、・・・男だって、見抜いただろ?

 そして、僕がそいつに対してだけ、変態だってことも。

 そしてきみはそのことについて、<きゅーん>なんだよね。意味は分からないけど、きみはきっと、そういう僕が好きなんだ。

 いや。

 きっと、この世界で、そういうイカれたことが起こってるってことに、喜んだんだ。

 きみの願いを叶えつつ、自分の欲望も叶えることにするよ。デートなんか申し込まない。あとでちゃんと報告するから、そういう僕を好きでいてほしい。

「ねえ、クロ。俺、したいことがある」

「・・・なに?」

「藤井さんとしたこと。俺とあの子が何をしたか、お前にも」

 黒井が僕の両手を自由にして、僕の隣に座った。僕はその左手の中指を、舐めた。

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