第63話:変態はやっぱり病院へ行く

 僕はやっぱり指を離していったん立ち上がり、ポータブルCDプレーヤーを引っ張り出してきて、封筒のCDをかけた。もちろんあの時のあの曲が入っているはず。イヤホンが片方馬鹿になっていたから、そのまま音量を上げて床に置いた。部屋に、カシャカシャと乾いたリズムが響いた。

 座って壁にもたれた黒井が無表情で僕を見ている。いいんだ。うちに入ってきたお前が悪い。嫌だったら蹴っ飛ばして縁を切って帰ってくれ。あ、蹴るんならぜひあのブーツで蹴ってほしい。

 僕は黒井の右側に座って、再びその指を舐めた。戸惑いをよそに、あの時と同じく右手を股間に伸ばす。

「なっ・・・」

 腰を引くけど、それ以上は逃げないから、構わず手を置いた。いや、置くだけだからさ。

「お、お前、こんな」

 あ、勘違いしてる。僕はいったん指を口から出した。

「・・・こんな、ことを、されたんだよ」

「え・・・」

 我慢できず、人差し指と、薬指も。ああ、僕が、黒井の指を、舐めまわしてる。こんなこと、したかった。ようやく思い出してきたよ、俺がお前をどんなに好きか。

「や・・・な、に」

 体がこわばるけど、手を引っ込めはしない。そのことに、感じて息が漏れた。

「んっ・・・」

「・・・お、お前、おい」

 お前の手はもう俺の唾液まみれ。藤井さん、こんな気持ちだったのか。きみの気持ち、知ったらさ、結婚なんて馬鹿なこと言い出さないから。そしたらちゃんと、・・・いつか、最後まで。

 ・・・。

 ああ、何だよ。

 僕はまた、他の人のこと考えてしまったというのに。

 僕の右手の下で、それが、うごめいた。分厚いジーパン越しにも、あたたかくなってきて。

 もう思いっきりそれを握りたい気持ちを何とかこらえて、右手はそのまま。やりたいことは、お前の左手に、してやるから。

「あ、ちょっと、ねこ、おれ・・・」

「んん・・・」

「なんなの、これ・・・」

 僕は指を口に含んだまま体勢をずらして、黒井と向かい合った。黒井はへたりこむように座っていて、僕はその前に膝立ち。

 右手をそこからいったん離して黒井の右手をつかみ、僕のシャツの下に入れた。ひい、こんなに、冷たかったんだ。

「う、わ・・・」

 僕の手は黒井の手を離して、さっさと元の、あたたかい場所へ。黒井は僕の腹があたたかいからか、しばらくそのあたりを撫でていた。しかしやがて、もう少し、上へ。柔らかい膨らみがなくて、ごめんね。

 だんだん、黒井の目がとろんとして、無意識にCDと同調している。だんだん、旋律が、速くなり・・・ああ、ここから先、どこまでもいけるところまで、いきたくてしょうがない。僕のだって、もうきつい。

 ・・・でも。

 僕は指を口からゆっくり抜いて、名残惜しいけど右手も離した。黒井は何だか分からないまま僕を見ている。覚えてないけど知っている音楽が部屋に流れていた。

「・・・ここ、まで」

「・・・え」

 お互い、かすれた声。喉の奥が乾いて、僕は唾を飲み込んだ。

「これで、終わり・・・。これ以上、して、ないよ」

 僕はCDを切った。遠くでサイレンが聞こえて、ああ、そんなところまで同調している。

「・・・」

 黒井は何か言おうとして口を動かしたが、声にはならなかった。・・・ブーツ、持ってこようか?

「・・・俺、こういう、やつなんだ。こないだだって、お前の部屋で、あんなこと・・・。あのさ、また、嬉しいの?こういうことされて、また、嬉しいわけ?」

「・・・くない。う、嬉しくなんか、ない」

「だろ?」

 うん。それで、いいんだ。こないだが、おかしかったんだ。

「な、何だったんだ、よ、今の」

「・・・理屈で説明は、出来るけど。ひとことで言えば、俺の身勝手だよ」

 こんなのきっと、<きゅーん>じゃない。それとも、そうなの?分かんないよ。

「か、勝手だよ!お、俺の気持ちも、知らないで・・・」

「全くだ。そのとおりだよ。お前の気持ちなんか考えてないし、最低だ」

 しばらくの沈黙を破って、黒井が口を開いた。

「・・・何で、ここで、止めた」

「え?」

「我慢、出来たのかよ」

「・・・はは。ここでね、見回りの懐中電灯が見えたんだ。公園、だったからさ。慌てて、もうそれどころじゃなかった」

「は、はあ?ば、馬鹿だな、そんなの・・・見つかったって、やればよかったんだ。引き剥がされるまで、挿れてりゃ、いいのにさ」

「・・・そこまでは、出来そうにないよ」

 呆れた。

「そうすりゃ・・・。はあ」

「悪かったね・・・こんな経験、滅多にないんだから、お前みたいに慣れてないんだ」

「何だよ。バーカ」

「ば、馬鹿とは何だ。変態って言え」

「・・・ヘンタイ!」

「・・・変態の家に押しかけてきたのはお前だからな。謝らないぞ」

「そうだよ、全く・・・ああ、もう、行かなくちゃ」

 黒井は立ち上がって、「渡したからな」とCDを見遣った。僕が頷くと、玄関へと、歩き出す。うん、やりたいことやったから、もう満足・・・だよ、な。

 ・・・してない、けどさ。

 全然してない。してないよ。行っちゃうの?もうこれっきり?

 でも・・・今回こそは、嬉しくない、んだもんね。

 覚悟、しなきゃ。

「・・・何、してんだよ」

 黒井が振り返って僕に言う。

「え?」

「準備、して」

 ・・・。

 お別れの、準備。物理的な痛みの準備なら、万端だったんだけど。

 まな板の鯉でも、そんな痛みに、耐えられるかな。

「・・・出来てる、よ」

「このまま行って、いいの?」

「・・・うん」

「本当に?」

 もういいよ。これ以上いたら、引き止めそうだから。

「いいから。・・・行けってば」

「・・・誰が?」

「・・・お前がだよ」

「どこへ?」

「・・・し、知らないよ」

「行くのはお前だよ」

「・・・どこへ?」

「病院」

「・・・ああ、そうだね。頭が、おかしいからね」

「やっぱり、どっかおかしいの?」

「あはは、そうだよ。言わせないでよ、これ以上・・・」


 黒井はつかつかと僕のところに戻ってきて、こう言った。

「何のために来たと思ってんだ。今日土曜だろ?一緒に病院、行くんだよ」

 ・・・土曜?

 その後はよく聞こえなくて、なに泣いてるんだ、とか、言ってたみたいだった。



・・・・・・・・・・・・・・・・・



 血液検査の結果は、何だかよく分からないが、やたら貧血気味ってことらしかった。

「あれから、どうですか、症状は?」

「・・・落ち着いてます」

「ふん・・・そうですね、まあ、食事と、生活習慣でね、改善していけるところが・・・」

 今日もまた、眼鏡の医師。毎週ここにいて、こんなこと言ってるんだろうか。

 本当にここは、時間が止まっている。病院ってやつは。

「はい、お大事にしてください」

「・・・どうも」

 今日は処方箋を無視して、会計だけ済ませた。僕に薬なんて、効きすぎるから、危ないんだ。

「ねこ、お昼、何食べよっか」

「・・・」

「うん?」

 待合の椅子に座って、長い脚を放り出して、黒井が例の黒犬ニット帽で僕に話しかける。

「・・・お昼まで、付き合ってくれるわけ」

「お腹、空いたでしょ?」

「じゃあ・・・ここの食堂で、いい」

「そっか」

 いつまで一緒にいてくれるのって、さっきから百回くらい訊きそうになってるけど、口に出せなかった。病院に来てくれるのは、先週の約束で、責任を取ってくれるってやつ・・・。でもその後は?黒井に<嬉しくない>ことをした僕は、明日から、今日の午後から、どう過ごせばいいんだろう。

 食堂に向かいながら、ふらついて、隣の腕をつかむ。

 薬、もらうべきだったかな。

 もう、背が十センチくらい違うから、肩に頭を預けて寄り添っちゃったりする。それでも拒否されないから、手まで繋いでみたりして。

「ど、どしたの。具合、悪い?」

「大丈夫」

「・・・そう?」

「・・・お前の、彼女の、気分。はは」

 茶化して、手をぶんぶんと振った。

「何だ、それ」

「背が、高いから・・・」

「はあ?」

「こんな感じかなって」

「・・・彼女なんか、いたことない、けどね」

「・・・は?」


 食堂で日替わり定食をつっつきながら、黒井は<イナイ歴>ってやつだよ、と言った。

「イコール年齢、ってやつ。あれ、俺」

「はあ?意味分かって言ってんの?」

「だって、誰にも、付き合ってくれとか、俺の彼女だなんて言った覚えないもん」

「・・・へいへい、そうですか。左様でございますか」

「何だよ」

「デートしてやることやったら彼女だよ。少なくとも向こうはそう思うし、同じだ」

「・・・じゃあ、お前も?」

「え?」

「その、子」

「・・・いや、あの子は、・・・彼女では、ない、よ」

「何で?もう会う気ないの?」

「そんなことも、・・・ないけど」

「じゃあ彼女?」

「いや、そこまで図々しくは」

「一緒じゃんか。ちゃんと告白しなかったら、彼女じゃないんだ」

「・・・あ」

「あはは、ほれ見ろ。だから俺、童貞じゃないけど、彼女は<イナイ歴>なの」

「・・・そ、そうでしたか」

 僕はおひたしをつつきながら、改めて向かいに座る男の顔を見た。・・・そんな、顔で。鯖の味噌煮なんか食いやがって。

「それ、美味しい?」

「うん」

「一口ちょうだい」

「ん」

 僕は黒井の鯖に箸を伸ばして少しいただこうとしたけど、その前に、黒井が食べようとしていたそれが口元に突き出されたので、そのまま、あーんして、食べた。

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