第373話:焚き火のこと

 17時。意味があったかなかったか不明な研修を終え、四課に戻ると「ああ山根さん、ここの業務フロー教えてください!」と<リンリン>が泣きついてくる。そうだ、佐山さんから17時半までバトンタッチして僕が教えるんだった。ああ、やっぱり業務フローに意味はあるじゃないか。

 つい研修で説明できなかったことまで話していたらあっという間に時間になり、喋りどおしでへとへとだった。昨日と今日と、これまで仕事でこんなにも喋った日はないかもしれない。

 最後に「あの、よかったらこれ」とリンリンが飴をくれて、ありがたく舐めた。イチゴかリンゴかと思いきや濃厚なチェリー味で、やたらアメリカくさかったけど美味しかった。


 それから、口を閉じて黙っていることに喜びさえ感じながら明日の合同研修の準備。あくびをしたって誰にも気にされないのが有難い。

 ・・・と、後ろに気配がして、椅子の脚をガツガツと蹴られる。あ、まさか。

 慌てて振り向くとその顔はフロアの向こうを見たまま「・・・ちょっと」とつぶやいて、廊下方面へと歩き出す。

 努めて冷静な振りで後を追い廊下に出ると、黒井は間髪入れず「お前何時までかかる?」と。

「えっ・・・あ、えっと、何時って」

「約束してたじゃん」

「・・・っ、ごめん、何だった」

「神社。パンダちゃんにお守り買うって」

「・・・、あ」

「明日までしかないんだから、今行くっきゃないんだよ」

「そうだった、そうか、神社。ごめん、忘れてた」

「調べたら、新宿で、花園神社って、八時までやってるって」

 よく分からない頭でとりあえず腕時計を見る。七時八分、新宿、花園神社、安産のお守り・・・。

 明日が、佐山さんの最終日だ。

 そんなことはもちろん分かっていて、それで引継ぎしていたはずだけど、どこか心の中で月末=三十日と思ってしまっていて、しかし最終日は二十八日の金曜日なのだ。

 ああ、何か買いに行くならもう、今日しかないわけか。



・・・・・・・・・・・・・・



 一目散に仕事を切り上げ、地上からガード下へと歩き、やや早足で東口を越えて新宿区役所方面へ。

 冷たい風に吹かれながら、西口とは違う雰囲気に少し緊張しつつ、同僚への贈り物を買いに行くというリア充的行為(?)にちょっぴり優越感。しかも連れはイケメンだ。

 ・・・ああ、二人きりで歩いてる。

 その事実におののいてまた「この人誰だっけ」状態になり、足がもつれないように歩くだけで精いっぱいだけど。

「ねえ、パンダちゃんのことだけど、さあ」

 半歩先を行く黒井が振り返りつつ言う。

「・・・え、うん?」

「ダンナとヨリ戻すのかなあ」

「・・・さ、さあ、っていうかまだ旦那じゃないし」

「一人で赤ちゃん育てるって、そんなこと、できんのかなあ」

「・・・してる人はたくさんいる。それはきっと、できるってことじゃないか」

「俺だったら絶対無理」

「女性の方が・・・強いのかも」

「ふうん。そういうのって、どっから来んだろ」

 途中で腹が減ったと言う黒井をマックから引き剥がし、ドラッグストアで特価のカロリーメイト(百円プラス税)を買った。

 チョコとプレーンを一袋ずつ交換し、むしゃむしゃと食べながら早足で歩く。会社で確認したホームページには確かに八時までと載っていたが、行ってみたら閉まっていたなんてことも十分ありうる。


 ネットの写真で見た<花園神社>は、そろそろかなと思う頃唐突に現れた。

「あ、ああ、・・・ここだ」

「ほんとだ」

 その参道(?)は暗くて、どこへ繋がってるのか、敷地内の通路なのかもよく分からず、立ち入り禁止って感じでもないが鎖が張られていたりもして、しかしとりあえず入ってみるしか・・・って、おい、もう少し周りを窺ってからにしてくれ。

「えーっと、こっちかな」

「ど、どうだろう・・・?」

 迷路を楽しむような黒井と、叱られやしないかと後ろからおずおずついていく僕。

 どうやら、右に折れて階段を下り、その左手が本殿だった。周りを見るけど、熊手(?)的な縁起物が売っていたとおぼしき屋台は真っ暗だし、しかし、うん、まあ、本殿が見えているからにはお参りをしなくてはいけないか。

「と、とりあえずあそこで・・・」

「ああ、奥に誰かいるかな」

「うん、まずお参りをして」

「へえ?お守り買いに来たんだよ?」

「いや、そうだけど、・・・いや、ただの通りがかりじゃないんだから、むしろ先に手を合わせないとだめだ」

「お前ってそんな信心深かった?」

「いや、信心はないけど、やるべき場所でやるべきことをするっていう、そういうのが秩序を作るわけで、ひいては行動原理の安定した基盤として」

「・・・わかった行こ」

 階段を上って、意外にも若い女性(しかも一人で来ている)とすれ違い、賽銭箱の前へ。早速投げ込んでガラガラをしようとする黒井を止め、掲げられたボードの説明書きを読む。ふむ、まず礼をして、二回手を打ち、最後にまた礼を・・・って、それは分かってるけど、ガラガラをするのは最初の礼の前だっけ、後だっけ?

 確か、この鈴(?)を鳴らすのは神様を呼び出す合図だとかで、だから願い事の前に鳴らさなきゃ意味がないわけだけど、さてどうしよう。

「・・・ねえ、まだ?」

「あ、うん」

 ・・・ガラガラガラ。

 僕の「うん」を合図に黒井がそれをぶんぶん振って、ああ、もういいや。最初の礼が一回なのか二回なのかも書いてなくてあやふやだけど、ええい、四十五度の礼で文句は言わせまい。

 パンパン、と思ったより響かない柏手を打ち、目を閉じて、どうか安産祈願が買えますように・・・、いや違う、佐山さんが無事に安産しますように、いや、無事、安産で、えー、元気な赤ちゃんを産みますように・・・とお願い事をして、もう一度礼をした。その間に黒井はさっさと歩き出していて、「あ、あそこ、明かりついてるよ」と。


「すいませーん!」

「・・・はい?」

「安産のやつ、お守り、欲しいんですけど」

「はい、安産守りですね」

 そこは小さな社務所(?)で、チケット売り場みたいな感じで、小さな窓を開けて事務の男性が桐の箱を開け、「こちらでよろしいですか」とピンクっぽいそれを見せてくれた。黒井が千円を払い、「お大事になさってください」の言葉とともにそれを受け取る。僕は、何だか自分たちのことのようで少し恥ずかしくなり、「買えてよかった。佐山さんもきっと喜ぶよ」と、社務所の人にまで聞こえるように明るく言った。そう、産休に入る派遣さんに買ったんですよ、別に俺たちがどうとか、決してそういうことでは・・・(なりようもないけど)。



・・・・・・・・・・・・・・



 「俺、くちゃくちゃにしちゃうから」と箱の入った袋を渡され、それを丁寧に鞄に入れて、元来た参道へと戻る。

 時間を気にして焦っていたけど無事に目的も果たせて、少し気が抜けた。

 しかし、ゆっくりと前を歩く黒井は一度立ち止まり、参道の真ん中から脇へとよける。

「おい、どうかした?」

「・・・うん、ちょっと」

 他にも用事があるのかと待ったけど、黒井はただ立って「ん・・・」と小さな咳ばらいが響く。

 その掠れた声が妙に湿り気を帯びて、少しどきりとした。

 ・・・。

「あの・・・前に、今度話すって言ってたこと、だけど・・・」

「あっ、ああ、うん」

 急にまた、この人は僕に何の用なんだ、どうして僕はここに立っているんだとゲシュタルト崩壊。僕も咳ばらいをし、「そう・・・言ってたね、確かに」と何度もうなずいて気を紛らわせる。

「・・・その」

「うん?」

 黒井は大きく息をつくと、うつむいて、小さく「・・・焚き火のことだけど」と言った。

 ・・・。

 ・・・焚き火?

 思わず辺りを見渡し、いや、神社で今焚き火をやっている様子はない。

 焚き火?

 ・・・あ、もしかして、キャンプのことか。ああまさか、僕の部屋でテントを張ってそこで焚き火までするっていうのか?あの和室でやった線香花火みたいに?

「あ、いや、やりたいかもしれないけど、さすがにそれはまずい」

「・・・え、なんで」

「だってたぶん、いや絶対警報とか火災報知機とかが作動して、マンション中に鳴り響いて、消防とか来ちゃって、焚き火は、だから無理だ」

 黒井はふいっとそっぽを向いて、「・・・その焚き火じゃない」と首を横に振った。

 そして、「・・・俺の、焚き火の、こと」と。

 ・・・。

 ・・・。

 ・・・思考は真っ白になって、ただただ、黒井の言ったタキビという発音が頭にリピートした。

 そしていくつかのイメージが実を結ぶ直前で拡散していき、でも公園の青空が・・・はっきりした青空と公園の注意書きの看板が浮かんだら、あとはどこかを経由して脳みそが「小さい焚き火」という黒井の言葉を見つけてきた。

 小さい焚き火が、消えちゃう気がして。

 ・・・して?

 うん、確かあれは、藤井と会った後の公園。秋の空が高くて、黒井は、小さな焚き火が消えちゃう気がするから僕とは最後までできないと言った。だから、プラトニックでよければ付き合って、と。

 僕が、どの焚き火のことか分かったという意味でゆっくり「うん」と促すと、でもたぶん、黒井が言う前に、何だか身体が先にその答えを悟って、ひゅうと全身が透けて幽霊みたいな心地になった。

 ・・・まさか。

「その、もう・・・だいじょうぶって、たぶんね。・・・大丈夫なんだと思う」

「・・・」

「こないだの、結婚式の、後から」

「・・・」

「何かね、違う感じがして。なんか俺、平気なんだと思う。・・・やまねこ」

「・・・」

「意味、分かる?」

「・・・」

「・・・だから俺」

「・・・」

「最後まで、お前と、する」

「・・・」



・・・・・・・・・・・・・・



 思考は頑なに働くことを拒否したまま、ただ、その場で右、左、と足踏みをして、顔は潜水艦の潜望鏡みたいにただあちこちを見た。

 病院の廊下で産声を待ちながらむやみにうろつく父親のイメージがわいたのは、ああ、安産祈願を買った直後だからか。

 ・・・。

 ・・・いや、無理だ。黒井が今言ったことを情報分析にかけようにも、会議室には誰もいない。全員裸足で逃げ出してしまった。ここには誰もいない。僕は空っぽだ・・・。

 ・・・空っぽの僕に、何かが注入されて、満たされるイメージ。

 何かって、なに?

 ・・・黒井のあれじゃん。

 どっから入るの?

 そりゃ、下からだよ。

 ・・・。

 くふっ、と何かが込み上げたら、あとはゲホゲホと咳き込んで吐くまで横隔膜がせり上がりそうで、ここで止めた。

 黒井がこちらを見ているようだけど、そんなことは気にしていられない。僕は生死の瀬戸際だ。

 息をするバランスが少しでも崩れたら、発狂してしまいそうだった。

 え、どうして発狂するかって?うん、それは・・・って、糸口を探して理屈というスコップで少しずつ掘っていく作業を始めたら、何かの拍子に亀裂が入って城が崩れるんだってば。

 だから、黙って、息だけしていないと。

 黒井に「話が終わりなら、帰ろう」と言おう。それで今日のところはもう、この身体を自宅まで持ち帰って横たえて寝かせよう。いや、いやいや、今日は一人でしたりしないよ。何もせずじっと寝るだけ。うん、手は縛り上げて寝れば何もできないだろう。布団のイメージは今は排除して、電車に乗って家に帰ることだけ考えよう・・・。

 ・・・って、あれ、今「帰ろう」って言ったんだったかな、ちゃんと発音したんだったかな。

 ちょっと覚えてないけど、とにかく駅だ。ここだと新宿三丁目が近いんだったか、分からないからとにかく新宿へ・・・。

「おい、やまねこってば」

「・・・へ?」

「置いてくなよ」

「・・・すまない」

「あのさ」

「うん?」

「お前、三課の新人の研修もやるって本当?」

「え、・・・ああ、うん、そうだよ、昨日からやってる。でも、研修っていうか・・・やって意味があるんだかどうだか」

「へえ。何か、すっかりセンセイやってんじゃん」

「別に、っていうか三課はお前がやってくれれば・・・」

 靖国通りに出て少し肩を寄せて話していたら落ち着いてきて、とりあえずは会話に集中しながら歩いた。こうやってあらためて話すと、黒井の声や話し方や、間の取り方なんかは僕が話すのにちょうどいいスピードで、変に茶化したり盛り上げたりもなく、話しやすいやつなんだよなあなんてぼんやり思った。

 ・・・好き、だなあ、なんて。

 また、心拍数が上がり始める。

 まったく馬鹿だな、俺は。

 黒井とセックスすることなんて、好きだと気づいたその日から一年近くほとんど毎日考えてきたっていうのに未だに何の心構えもできてないなんて。

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