第372話:不破くんからの宣戦布告
それから少し雑談風になって気を抜いていたら急に挙手があって、一番後ろの不破くんが立ち上がった。
「あ、は、はい・・・不破くん」
「すいませんあのう、僕は三課の事務をやろうと思いますが、可能と思いますか」
「・・・」
不破くんは無表情で縁なしの眼鏡をくいと上げ、二秒後に着席した。テーブルの上で指を組んで僕の返事を待っている。
ああ、不破くんの声を初めて聞いた。意外と高めで柔らかい声だ。
・・・じゃなくて。
・・・三課の、事務??
「え、えーと・・・、それは三課の営業事務という意味であれば、えー、今は島津さんという派遣さんがやっているポジションかと思いますが・・・、い、今のところ、彼女がどうこうという話は聞かないし・・・、事務を二人体制でやるというのも、聞かない、ので・・・、ま、まあ、でもやはり女性ですから、結婚などで急にお辞めになることはあるかもしれませんし、不可能、ということでは、ない、かも・・・」
不破くんは小さく、どうも、と会釈した。
・・・三課の事務をやる?
・・・いや、何だかまだ飲み込めない。男子が事務志望というのもあれだが、そうじゃなくて、何が引っかかるんだろう。
「え、不破っちも事務希望なの?」
「事務っても、営業事務ってよ」
「なにエーギョー事務って?」
前の席で<まみ>と<さとちゃん>がまた控室みたいに勝手に喋る。そこへホステスたちの世話役みたいな<ヨネ>が、「あ、あれでしょ、え、営業の島にいる事務さんのこと」とやや吃音混じりに。細身のミスター・ビーンみたいな顔だけど、女子二人と完全にフラットに話して馴染んでいる。
「ってかほら、い、今やった研修って、まさに営業がやる営業事務の話だから」
「え、まみ分かんない。ん、そもそもジムってナニ?」
今度は後ろでぷっと吹き出す音がして、清楚な女子アナが必死に口を押さえつつ「『事務って何』?え、そこ!?」と一人でツッコんで笑いをこらえている。実は笑い上戸?
ここで真木が「先生、そろそろ・・・!」と時計を指し、ああ助かった。まだ発言していない男子二人がいるが、今日はこれ以上把握しきれない。
「それでは、大変申し訳ありませんが明日と明後日も引き続きこの時間にお集まりいただきまして、えー、研修を進めていきたいと思います・・・」
・・・もしかして、四課より、だいぶ面倒、なのか。
さては中山課長、女子は顔だけで選んだな。そうとしか思えない。
放心しながら真木に連れられてオフィスへ戻る途中、新人たちの島で四課の岩城君や中村君、山田氏と女子会の二人を見かけ、ああ、もしかしたら四課の新人は実は優等生なのかもしれないと思った。そういえば高浦が三課を「激辛料理」に例えてたけど、たぶん未知数の男子二人がキモになるんだろう。そんな気がした。っていうか疲れた。
・・・・・・・・・・・・・・・
四課に戻ると、松田が今週は課長と派遣会社にかけあって17時半までの就業時間にしてもらったと言って、「島津さんが、後は山根さんにと・・・」と心配そうに僕を見上げてきた。そうか、派遣さんは17時までなのだから、あと三十分は僕が教えるってことか。
「ああ、ええと、じゃとりあえず、今日島津さんから教わったのはどんなこと?」
「えー、それは、契約書の全部の紙に書き漏れがないかチェックするのと、見積もりナンバーを確認するやり方と、この<かがみ>っていう紙っぺらに日付を書くところと・・・」
松田の説明はたどたどしかったけど、それでも「ジムってナニ?」よりは数段上な気がして、やや頼もしくさえ見えた。二十三歳ということはさっきの彼らとほぼ同い年だろうけど、やはり高卒で働いている差なんだろうか。・・・いやいや、営業デビューした飯塚君や辛島君だって頑張ってくれているし、やはり三課の新人がクセモノなのか。
「あ、ちょ、待ってください、そこもっかいやって下さい」
「ん、えっとここは<はい>を選んで・・・」
「いや、さっきは<はい>なんて出なかったんすよ!何で今は出てんの?ちょーっと、また頭パンクするー!山根さん助けてくださいマジで!」
細い目を精いっぱい見開いて、松田はうるうると子犬のように僕を見上げてきた。
こう全面的に頼られると、そりゃ、悪い気もしないけど。
「あの、今覚えなくて大丈夫だから。明日もやるし」
「じゃ明日また教えてもらえますか?」
「それは、もちろん」
「山根さん帰っちゃったりしません?私を一人ぼっちにしません?」
「し、しませんって。大丈夫」
何となく新米の野球部マネージャーみたいな感じの<リンリン>は、僕と合うタイプでもないはずだけど、二人だけで話していても緊張や気まずさを感じることはなくて少し安心した。
・・・・・・・・・・・・・・
松田が帰り、自分の仕事と、四課の営業事務と、松田への引継ぎ関連と、新人研修のやるべきことを並べていったらノー残どころかいつもより遅い残業になりそう。ああ、月末の就業システムの締めもあったし、ん、その上年末調整のダメ出しメール?保険の控除はちゃんと貼ったはずなのに・・・って、ああ残業申請も出さないと。
するとちょうど「みなさん、ノー残ですよー帰りましょう!」の声がかかって申請がものすごく出しにくい空気の中、それを見破られたのか「ちょっと山根?」と手招き。
「えっと、何でしょう」
「うん、松田さん、様子どう?」
「あ、はい、とても頑張ってくれてます・・・」
それから何となく長話になり、よし、このどさくさに紛れて後で残業申請を出そう。
「確か彼女、前職では週六でね、十時十時とかって話だよ。いや若いよな。それに比べたら天国ですなんて言ってたけど、はは」
「え、そうだったんですか。じゃあ17時半なんて楽勝なのか」
週六で朝十時から夜十時?いや、どうりで何だかタフそうなわけだ。なるほど。
「・・・ま、確かにガッツはあると思うんだけど、だからって、あんまり焦らせないように。見てると、まあちょっとね、大雑把なとこもあるようだし」
「ああ、まあ・・・いやでも、三課の新人に比べたら、優秀かと」
「んあー?・・・くっ、ああ三課か。どう、研修したの?」
「あ、はい。ついさっき」
「どう?」
「・・・なんて、いうか、個性的なメンバーで」
「はっはっは、ほら見なさいよ、私はね、先見の明があんのよ。ね?・・・ああ、中山さんを悩ませずに済むかどうかはお前の教育にかかってるってわけだ。頑張ったら何か、ねえ、奢ってもらいなさいよ?」
「えっ、いえ、まあ・・・」
「まあとにかく色々、もう少し慣れるまでの辛抱だから」
「はあ」
「ほんと、何だかんだでいつも、『おーい、お前この数字何とかならんのかーっ』って言えないよなあ。ハイ、山根様々です。・・・でも、ほら、まあこうしてお前に早くから営業事務をやらせといてよかったろ?あん時は佐山さんがまさかこうなると思わなかったんだし、こうなってから、だーれも事務わかんないで松田チャンと一緒に右往左往してたって、四課は立ち行かなくなっちゃうんだから・・・」
自席に帰り際、ちらっと三課を見たけど黒井はもう帰ってしまったみたいだった。
それで、ふいに不破くんが言った「僕は三課の事務をやろうと思います」という不穏なセリフが頭をよぎった。
あれ、何だかそれって。
もしかして、三課の営業事務として黒井を支えたりそばにいたいって意味だったんじゃないか?
志望でなく「やろうと思います」という言い切りは、もはや僕への宣戦布告だったんじゃないか!?
・・・そうかもしれない。
・・・いや、そうとしか思えない。
パソコンの画面は残業申請のページで止まったまま、目が据わって、ごくりと唾を飲んだ。
うん、何の根拠もないし、完全に僕の被害妄想だというのは分かっているけど、それでもなおあまりにこの考えがしっくりきすぎて、動かしようがない気がした。
何となく、いつかこういう日が来るような気はしていたけど、それが今日だとは。
なるほどね、うん、なるほど。
後頭部をガリガリと掻いて、頭のてっぺんを手首の内側でトントンと強く叩く。
・・・。
言葉も理屈も何も出てはこなかったけど、何だか、なるほどねと思った。
今、黒井は僕にとって、恋人でも彼氏でも夫でもない。まだ同棲もしていない。僕は何の立場も切り札も保証も持ち合わせていない。
・・・ため息。
黒井くん、きみは知らないだろうが、<恋人>という世間一般の価値観に則って生きないということは、僕が丸腰で若い子と戦って勝たなきゃいけないことを意味するんだよ。
その辺、分かってるのかな。
分かってないだろうな、うん。
・・・・・・・・・・・・・
木曜日。
三課新人への研修第二回。
顔ぶれは大体覚えた。
子どもみたいな<まみ>という子が問題児かと思っていたが、どうやら一番マズいのは昨日は発言しなかった雨宮という男子だと分かった。背が高く一見イケメン風、柔らかい口調と笑顔が爽やか・・・に、見える、けれども。
「あのさ、ここのところ自動化したらもっと楽になると思わない?」
業務フローの説明中、雨宮が隣の友永というスポーツ刈り風の男子に話しかけている。
「ん、自動化って?」
「オートメーションだよ。それかどっか別のとこに委託するとか、そうすればこんなこと俺たちがやる必要なくなる」
「・・・こんだけのために?別の会社に委託まですんの?」
「だってやりたくないもん」
一応僕は説明中なのだが、別に私語を慎めなどと言うつもりはないし、っていうか後ろで女子アナが吹き出すのでみんな笑ってしまった。
「あまみやくんまた始まったぁー」(まみ)
「何がしたいのか、い、イマイチ理解できん」(ヨネ)
「んー、どゆこと?」(サトコ)
「ぷっ・・・」(女子アナ)
「だからな?おめーが変なとこでつっこむからいかんのだろ?」(友永)
「・・・」(不破くん)
「っていうかさ、みんながいろいろ言うからさ、ほら山根さんが困ってんじゃん。せっかく先生やってくれてんのに悪いじゃん」(雨宮)
「いや困らせてんの明らかにお前だから!」(友永)
「え、俺・・・っていうかこういうのって、思いついたことどんどん提案するのが、何とかブレイン何とかって、あれ何だっけな。とにかくそういうのどんどん出すのってアメリカの大企業でも取り入れられてて、そうしていくと改善が進んで、オートメーション化もできて利益率も上がって、そしたらそれが回りまわって山根さんのためにもなる」
「・・・」(僕)
「おい、雨宮・・・、な?見てみろ?山根先生固まってんだろ?いいか、お前がよかれと思ってもそうじゃないってこともあんだぞ?」(友永)
「だって会社の利益になることはやった方がいい。確かカーネギー博士の本にも・・・」(雨宮)
「ねえ何なのまみついてけない!」(まみ)
「つ、ついてく必要ないから」(ヨネ)
「あー何か喉乾いた。ねえこの会社って自販機ないよね」(サトコ)
「・・・」(不破くん)
「くくく・・・」(女子アナ)
「でもさ、友永君だって・・・」(雨宮)
「いいから。いいからもうお前は黙っとけ?な?収集つかんから」(友永)
「うーん、でも収集つけるってんなら先生がつけるべきだし。だって他に誰もいな・・・ってうわ、誰かいた」
雨宮が振り返り、部屋の後ろで立っていた真木を見て楽しそうに笑った。よく分からないけど悪気はなくて朗らかなやつらしい。前に向き直ると「ねえ誰?」と友永に訊き、「いや、知らないけど昨日もいらっしゃったぞ」「えっうそ俺気がつかなかった」「お前寝てたからな」「うん・・・あ、でもあれ友永君の好みのタイプだから覚えてたんでしょ、ふふふ」「は、はあ!?ってか『あれ』って失礼だろ!」・・・って、寝てたのか。いやそうじゃなく、真木のこときちんと紹介するの忘れてた。
みんながそれとなく振り返って真木をチラチラ見たが、本人はニコニコしたまま気を悪くした風もなく、ノーリアクション。この辺り、対応をわきまえているというのではなく完全なる無関心のようで(年下に興味はない?)、真木のスルー力は一部見習いたいと思った。
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