第371話:三課の新人研修スタート
夕方帰社すると、松田が三課の島津さんのところにいて、隣に背の高い黒井のシルエット。
ああ、あれこれ考えてメールに満足したりしてたけど、実物を見るとそんなの関係なく心拍数が上がる。おいおい、どうしよう。
「えー、リンリン二十三歳って、それ大学出たばっか?」
・・・ん?
リンリン?
何だそれ、松田さんのこと?
だめだな、急激に嫉妬と独占欲がわいて、ここを無言で通り過ぎることなんかできやしない。
「あ、いえ、高卒で働いてるんで、一応職歴は四年ばかし」
「へえー、何してたの?」
「古本屋チェーンですね。でかいところだったので、一応リーダーみたいなことしてて」
「ふえー、すげー。それって接客?」
「あ、はい。だからこういう、事務って初めてなんですけど」
黒井は「ふうん」とうなずくが、島津さんはキョトンとして目が据わっている。ああ、僕だってオバサンより二十三歳がいいが、まさか引継ぎの時間もないのに事務のイロハから教えるってこと?
そこへ佐山さんがやってきて、「あ、山根さんお帰りなさーい」。島津さんと松田(リンリン?)もそれで僕に気づき、「ただいま戻りました」と返すと、黒井も一拍置いて「ああ、おかえり」と爽やかに目を合わせた。
・・・。
「あ、うん、ただいま」
何だこれ、・・・まずい、顔がにやける。
嫉妬や何やが吹っ飛んで、ただ気にかけてもらえたというだけでガッツポーズすらしたくなる。まったく、どうしていつもこう全てがリセットされちゃうんだろう。僕たちはもう「結婚しない」約束までしてるっていうのに!
「ああ、そういえば、今度さ・・・」
「えっ、な、なに?」
「あ、ちょっと、まあいいや。・・・それじゃリンリン、こいつに色々教わってね。でもあんまり訊くと説明が長いから、テキトーに」
「えっ、あ、ハイ!っていうか説明長くても聞きますんで!」
僕は「お前、変なこと言うなよ」と顔をしかめたけど、黒井は「リンリンかわいいなあー」とつぶやいて、でも僕に向けて手を振って自席に戻っていった。
ああ、くそ、嬉しい。
また何かを濁されたけど、でも深刻な感じじゃなさそうだったからきっと大丈夫だ。
よし、これで頑張れそう。残業、残業!
・・・・・・・・・・・・・・・
松田に退勤のやり方を教えていた佐山さんが戻ってきて、五時を過ぎているけどお菓子片手の一服タイム。
「いやあ、教えるのも大変ですね。頑張りやさんだから一生懸命やってくれてるけど、でも四日間で引継ぎってそもそも無理があるし・・・」
「そうだよね、確かに四日ではいくら何でもね」
「本当は私がもうちょっといたいですけど、産休の手続き的にも、そうもいかなくて」
「でもまあ、俺も、島津さんも、・・・一応、黒井もいるし」
二人で三課を見遣ってそれとなくうなずきあい、少し沈黙があり、ふと机の上を見ると、分厚いバインダーの表紙には佐山さんの字で<四課・営業事務マニュアル>。
「あれ、もしかしてマニュアル、作ってくれた・・・?」
「あ、はい。ちょっとずつ作ったのを、せめて渡そうと思って」
「ああ、これは助かります。全然手が回ってなくて」
「いえいえ、今までのマニュアルと、ちょっとワードで作ってみたのを合わせただけで」
「・・・っていうか、今週末って。・・・早い。早いなあ」
「ええ、早いです。何だかあっと言う間」
ちょっとしんみりしてしまって、僕は今までの感謝を伝えたくなるけれども、そういうのは最終日の最後の最後で言わないと空気がおかしくなると思い、引っ込めた。するともう帰ったはずの松田が戻ってきて「すいません忘れ物ー!」とテンションの高い声。ああ、なるほど四課の島の平均年齢を彼女が大幅に下げるわけか。
佐山さんは「かわいいねー」とにこにこし、「かわいくないです!断じてかわいくはないです!」と否定する<リンリン>(松田凛子さん、二十三歳、派遣、四課の新しい営業事務)は、でも少しかわいいかと思った。
・・・・・・・・・・・・・・・
十一月二十六日、水曜日
気温が下がって雨。佐山さんがめまいと貧血で休んでしまい、朝からてんやわんやだった。
島津さんが四課の分までやってくれれば何とかなる話だけど、しかし来週からこの状態になると思うと、簡単なものだけでも松田に教えながら進めなくてはならない。
・・・え、来週から、リンリンが四課の事務?
佐山さんの席に座ったそのシルエットはえらく小さくて、とても何かを任せられるとは思えない。
入って二日目で電話対応が出来るはずもなく、外線は無視で内線のみ取るだけ取って内容をメモしてもらう。前職では店員同士のトランシーバー?みたいなものがメインで、会社相手の電話経験はないとのこと。うん、もしや、「今度はオバサンじゃなく若い子」・・・というより、このくらい無鉄砲、もとい、チャレンジングな転職をする子くらいしか、四日での引継ぎ事務なんて引き受けてくれなかったんじゃないか?
昼前に佐山さんから電話が入り、「少し良くなったので、行きます」というのを「いや、だめです、島津さんに怒られます」と止め、デスクの仕掛かりの処理をざっと聞き、やれるところは僕がやってあとは四課に出張中の島津さんに電話を代わった。
それでようやく「行ってきます」と島を出て、一応<後をよろしく>と島津さんに目で訴えると、彼女は<大丈夫>とうなずいてみせ、声はいつもどおりの淡々とした「行ってらっしゃい」。
「・・・」
「・・・あ、あのね松田さん、営業さんが出て行くときは、なるべく『行ってらっしゃい』って」
「あ、あ、すいません。あの、山根さん、無視したわけじゃないんです。見えてなかったんです。・・・い、行ってらっしゃい!・・・こうでいいですか!?」
島津さんが苦笑いで顔を横に振りながら額に手をやって、僕も苦笑いで一礼してオフィスを出た。ああ、何だか、変化っていうのはこうしてふいに訪れるんだな。
・・・・・・・・・・・・・・・
昼過ぎには帰社して月末の営業事務の処理に追われつつ、夕方16時からは三課の新人たちへの研修が始まる。高浦から新人に送られた慇懃なメールには<四課の山根さんが講師を務めて下さいます>なんて書き添えてあるし、さらに小嶋先生からはいつものミーティングルームでなくセミナールームAの方を使って構わないというメールが来た。・・・えっと、それって何がいいんだ?よく分からないけど何を考える暇もなく「恐れ入ります」「何卒宜しく」云々とメールを書き、15時を過ぎると営業から今月計上に間に合わせようとする小さな契約がいくつも舞い込んでくる。
・・・って、僕を事務の人としか見てないなあんたたち。横田まで「これお願いしまーす、直送、急ぎで」って、だからそれをかがみにきちんと書けって・・・ああ、これ佐山さんが全部書いてたのか。まったく、甘やかすからこうなっちゃうんだ。
教えられそうなことを松田に教えつつ、次々にどうでもいい仕事や用件を振られてそれについても説明しつつ、佐山さんのマニュアルを参照し、そんなこんなで16時が近づいて真木が迎えに来た。
「山根センセーイ!ほらほら時間だよ。これからでしょ?」
「あ、うん、分かってる。今行く」
「えっ山根さんは先生なんですか?行っちゃうんですか?」
「あ、ごめん、いろいろ中途半端で、ぐちゃぐちゃだと思うけど」
「・・・は、はい、頭パンクしそうです!」
「まったく申し訳ない。たぶん明日は、佐山さんも来れると思うから」
「はい・・・」
「それじゃ」と島を離れると後ろから松田の(覚えたばかりの)「い、行ってらっしゃい!」が響き、ちょうど帰社した飯塚君がつられて「山根さん行ってらっしゃい」と僕を見送った。それに横田が乗っかって夕方から行ってらっしゃいコールが連なり、いや出かけないから、社内だから!まったく恥ずかしい!
・・・・・・・・・・・・・・
セミナールームAは以前と比べて見違えるほど小綺麗になっていて、洒落たヒーリングミュージック?みたいなものまでかかっている。そういえば前に改装の片付けを手伝わされたっけ。
そしてミーティングルームよりこちらがいい理由は、一人一台パソコンが用意されていてホワイトボードも馬鹿でかく、何より机をコの字にセッティングする必要もないからだと納得させられた。ああ小嶋先生ありがとう。
セミナー部所属の真木はこちらの部屋ももう慣れているのか、資料を次々と配ってまた僕のところにミネラルウォーターを置き、「先生、そういえば結婚式はどうでした~?」なんて訊く。こう忙しいと「先生はやめて」の一言も省略して「ああ、とっても良かったよ」・・・って何か、秘書じゃないんだから。
しかし隣に立たれるとふわっと何かの匂いがして、リンリンと比べるとやけにグラマラスな大人の体つきで、でも、どうしてこんな女性が僕に言い寄ってきたりするんだろう?
・・・ああ、僕が独身の正社員でパッと見、まともそうだから?
<王道パターンの幸せ>を与えてくれそうに見えるのか?
・・・そうなのかもしれない。だとしたらやっぱり、その幸せには大きな価値があるってことだろう。残念ながら持ってないけど。
そして16時。知らない顔ぶれ(不破くん以外)の若い男女七人が席に着き、研修開始。今回は事前アンケートを取る暇もなかったから本当に何も分からない。
「えー、三課配属の皆さん、今日はお集まりいただきありがとうございます。お疲れ様です」
軽く頭を下げると、「お疲れ様です」と控えめな返事。・・・あ、フレッシュマン岩城君がいないとこれくらいが普通なのか。
「それでは、ええと、大変申し訳ないのですが、・・・私も今回メールさせていただいたのが初めてで、正直、顔とお名前がまったく一致しておらず、前の方からお名前を・・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・
男子四人、女子三人が軽く自己紹介をして、あとはこれまで四課の新人向けにした説明を繰り返した。しかし、今週の金曜には四課に追いつかなければという焦りと、説明が二回目でかなりスムーズに済んでしまい、十五分も余ってしまった、どうしよう。
っていうか、ああ、僕がこのメンバーを覚える気もあまりなくて、雑談タイムなども設けず一方的に話してしまったのがいけないのか。また黒井が助っ人に来てくれればなんて思うけど、一人で何とかしなくちゃ。
「えー、それでは、もし何か質問等あれば、何でも・・・」
沈黙。
まあ、そりゃそうだろう。
じゃあ後は四課への事前アンケートをこっちにも配って終わるかと考えていたら、女子二人が何事かささやきあって、「訊いてみれば」「でも・・・」の応酬。するとその二人の隣の男子が「あの、川田さんが質問があるそうです!」と代弁した。どっちが川田か忘れてしまったけど、「ヨネのばかぁ!」と甲高い声でなじった方か。確か男子が米村で「ヨネ」なんだろう。
川田は「えっ、まみ無理だよぅ・・・」と自分のことを「まみ」と呼び、しかし隣の女子にも促され「あ、あのぉ!」と質問を開始した。
「あの、あの、わたし事務希望なんですけど、事務って、なれるんですか」
中学生みたいな童顔だけど、松田とはまた全然違う印象。化粧をしてるからか?
つい思考を停止させていると、保護者みたいな隣の女子が補足。
「あの、あたしたち事務希望なんですけど、全然、ここって女性の先輩の営業さんいないじゃないですかあ。それって逆に、女性はみんな事務になれるっていうより、もう事務はいっぱいで、あたしらみんな営業にさせられるんじゃないかって、それが不安で。・・・ね?」
「うん、まみ、それが言いたかったの。さとちゃん上手」
「そう?ありがと」
さとちゃんと呼ばれた女子は栗色の髪をアップで巻いた、少し派手な顔立ち。でも発音に東北っぽい訛りがあって、何だか控室のホステスみたいだ。・・・じゃなくて、答えないと。
「あー、えっと、女性の営業もいるにはいたのですが、辞めるか他に移ってしまって、確かに今はほとんどいないですね。・・・まあ来年の人事のことは何一つ存じ上げないのですが、・・・えー、私の同期も半分くらい女性でしたが概ね希望通りの部署へ行ったような、気がします。さすがに、その辺りは採用段階ですでに想定している・・・と思うのですが」
とりあえず頭の中で知ってる情報をかき集め、言ってはマズイことはないよなと精査しながら答える。うん、まあ女子が気になるのはそこなんだろう。
しかし、ふうんという顔の女子二人の後ろ、もう一人の清楚な美人風の女子が「それで希望が通るかはいつ分かるんですか?」と。顔も声も女子アナみたいな雰囲気だけど、妙に冷たくてトゲがある。
「あの、山根さんは、黒井さんと同期で私たちと同じく三十人くらいいたって聞いてますが、全員が希望どおりになったんですか?あと離職率っていうか、そういうのも知りたいんですけど」
「え、ああ、えーと・・・」
黒井の名前が出たところで思考が飛んで、えっと、何だっけ。
「う、うちの同期でいえば、今は女性は数人しか残ってないので、離職率は高い・・・ってことになります、かね。希望については、うん、まあ、大体・・・としか」
・・・さらに追及されるかと思ったが、美人はこのくらいで手を緩め「・・・ありがとうございます」と締めくくってくれた。
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