44章:行きたくない場所へ
(封印されていたものが次々に解禁され、進んでいく)
第370話:新しい派遣さん
汐留の改札をくぐってからは、黒井はどこか思案顔で、口を利かなかった。
僕は僕で考えることが山ほどありそうなのにぼうっとして、ただただ真っ暗な地下鉄の車窓を眺め続ける。
決して気まずくはない沈黙のまま桜上水に着き、黒井は「・・・じゃ」と手を上げ、一度うなずいて電車を降りていった。黒井が去ってしまえばここには祝日の夜に手ぶらでスーツの僕がいるだけで、でも何だかたぶん、それは夕方に家を出た時の自分とは少し何かが違っている気がした。
帰宅して、スーツを脱いで、それをそのまま半透明のごみ袋の中に入れる。
ガサガサと音がして、何かをやり遂げた気がするけど、それが何なのか頭は働かない。
・・・。
帰ったらスーツを捨てるんだと言い切って、一生結婚もしないしここを犬猫小屋にしてキャンプ的同棲生活(?)もすることになったのに、こうしてたった一人静かな部屋でまだ数回しか着ていないスーツを捨てようしていると何だか、やっぱり僕の方が全面的に間違っているような気もしてきた。
・・・もっとまともな人生を歩むべき?
結婚して家庭を持って両親に孫の顔を見せて親孝行を・・・するべき?
いやいや、だからさっき結婚はしないと誓ったし、僕は<アップルパイの匂い>がする<普通>の道、つまり親の期待に応えて何も文句を言われない道なんかくそくらえだと・・・。
・・・。
・・・ため息。
・・・分かってる。頭では分かってる。僕は親が勝手に選んで買ってきたスーツを後生大事にいつまでも着る必要はないし、自分の道を進めばいいんだって分かってる。
それでも心がざわついて仕方がないのは、たぶん、きっと・・・。
心の中をスキャンするイメージで探り出すと、それは、黒井のことだった。
クロは、もし僕に何かあれば実家に直談判するみたいなことを言った。
それから、黒井の部屋(平日)と僕の部屋(休日)を行き来しながら暮らすのが決まった・・・けど、でも最後は何も話さないままだった・・・。
うん、今まで「男が好きだなんて親には言えない」とは思ったものの、まさか、黒井とうちの親が直接会ったり話したりするなんてのは想像もしなかったから、あり得ないイメージで心が休まらないんだ。加えて、黒井の沈黙は、まさかあいつもやっぱり「もっとまともな人生」の可能性を考えてるんじゃ・・・なんて、まあ、それはないだろう、けど。
・・・確かめても、いい、かな。
鞄から携帯を取り出したけど、かける前にふと答えに行き当たった気がして、パタンと閉じた。
そしてもう一度、ごみ袋の中のスーツを見下ろす。
ああ、もしかして。
もしかして、こうやって意識的に、真正面から親を拒否するのは初めてなのか?つまり、初めての反抗期?いやまさか。
でも、そう思って顔を上げて部屋を見渡すと、何だか、無難なものしかない無難なこの部屋が、違う景色に見えてきた。
そうか、もしかして「親が何かの拍子に押しかけてくるかも・・・」というのが心の奥にずっとあって、それでここはこういう部屋なのかもしれない。僕は実家を出てもなお反抗期未満で生きてきて、ようやく今、「サイズが合わないからと自分に言い聞かせて捨てる」のじゃなく、「捨てたいがために捨てる」のか。
でも、もし親が来た時に部屋がテントや寝袋であふれていたらと思うともはやちょっとだけ笑えて、そしてそんな風に思えたのも初めての境地で、黒井にその旨の空メールを送った。ほどなくして返信(空)があって、ああ、クロは分かってくれてる・・・いや、分からなくてもとにかく僕を受け止めてくれるんだと思って勝手に満足してごみ袋の口を固く結んで寝た。
・・・・・・・・・・・・・・・
十一月二十五日、火曜日。
朝、コーヒーを淹れるのもパンを焼くのも、シャツやネクタイを選ぶのも、たとえセンスあふれる品々じゃないにしても、もう実家じゃなくて一人暮らしをしてるということを再認識したら何とも嬉しかった。そして家を出てごみ袋を出してしまったらさらに心も軽かった。・・・けど、これまでこの重さに慣れ切っていたから逆に今度は、一人で仕事へ行ってちゃんと会社員ができるんだろうかと不安にもなる。いや、まあいい、プラマイゼロということにして理屈で押し切ろう。
会社のビルに着いたらロビーにクリスマスツリーが出ていて、これってつまり黒井と知り合ってから丸一年ということらしかった。ああ、そういえば今年はまだマフラーを出してないけど、去年より暖かいってこと・・・。
「・・・っ」
いきなり背中に、肘鉄みたいな衝撃。
思わず謝りながら振り返ると、それは黒井彰彦だった。
「おはよ」
「あ、ああ・・・っ、お、おはよう」
何だっけ、なんだっけ、このかっこいい顔の人誰だっけ。
「ああ、あのー、ツリー出たね。こんな、もう、早いなって・・・」
意味もなく腕時計を見ながら言うと、「先週からあるじゃん」と少し呆れ顔のイケメン。え、先週から?いや、もう先週のことなんか思い出せない。
「もうすぐ、なんつーか、冬だね」
「あ、うん。本当に、まったく・・・」
ああ、もう、いきなり話しかけられて、朝からろくなことが喋れない。
・・・しかし、いつもの朝八時五十分、エレベーター前の長蛇の列に並びつつ、一年前のあの日以来ここでこんな風に会ったことなんてないけど、・・・これって本当に偶然?まさか、僕を待ってた?
「あの・・・」
先に言葉を発したのは黒井だったが、チンという古臭い音とともにエレベーターが来て列が進み、僕は一瞬後ろを振り返って続きを促したけど、答えは「うん、そのうち話す」。
あとはエレベーターに乗って、火曜だけど昨日の分の全体朝礼でバタバタしていたら「山根、ちょっと」と課長に呼ばれた。
・・・・・・・・・・・・・・・
課長席の前には何だか小さい、中学生みたいな女の子がいて、佐山さんもいた。あ、そうか、佐山さんの後任の件か。え、この子が?
「あ、松田と申します。どうぞよろしくお願いします」
まだ制服ではなく、飾りのついた襟のシャツに緑のカーディガン、黒のズボンに少しヒールのある地味な靴。それでも僕たちより頭一つ分以上小さいけれど、痩せっぽちではなく、しかし太ってるのとも違い、筋肉質な体育会系タイプ?
いやでも、意外と胸があるからむちっとして見えるのかも。
いらぬところを観察していたら課長に「じゃあ頼むぞ!」と言われ、ろくな説明もなく急ピッチの引継ぎ作業が開幕したらしい。・・・あ、もしかして、先週急に辞めた村野川が<オバサン>だったから、今度はやたら若い子を入れたってこと?いやずいぶん極端だろ。
とりあえず佐山さんの席で、ちょっとしたミーティング会。四課のメンバーへの正式なお披露目がないのは、またすぐ辞めてしまうリスクを考慮してもう少し馴染んでからということだろうか。
「本当に申し訳ないんだけど、今週で私がここを去るので、詰め込みになってしまいますが・・・」
「あ、はい聞いてます。一生懸命覚えます。頑張ります」
「一応、私が今やってるお仕事は、隣の三課の島津さんって派遣さんと、えー、こちらの山根さんも大体分かってるので・・・基本は今週で私がお教えするんですけど、随時お二人にも訊いてもらって」
「あ、どうも、山根です」
「はい、よろしくお願いします。いろいろ教えて下さい」
それから火曜だけどジュラルミンの内線が鳴り、黒井の席はもういなくて、僕が行かないとならない。しかしそれが自分たちの仕事らしいと察した松田は早速「あ、自分も行きます」とついてきた。っていうか、「自分」って、やっぱり体育会系か。
今言っても何のことやら分からないだろうなと思いつつ、「月曜に荷物が届くので、まあ祝日だと火曜になるんだけど、ここでジュラルミンを受け取ります」と説明し、松田は「はいっ」と返事はするが、「あっ、メモを忘れました」と。
「あ、いやいや、これは俺がやってるし、まだ覚えなくても」
「そうですか。・・・あ、とりあえず持ちます」
「え、い、いいって。重いし」
「いえ、やることがあるかもしれませんし、どのくらいのものか、やってみます」
松田は「うん、結構重いっすね」と小さな体で無駄にでかいジュラルミンを持ち、「前職で重いものいっぱい持ってたんで、このくらいは平気です」と。
小柄な女の子に荷物を持たせてフロアを練り歩くのは身がすくむ思いだが、彼女のプライドを傷つけても悪いし、とりあえず僕が持っているクリップボードのどうでもいい解説をして間を持たせた。
・・・・・・・・・・・・・・・・
佐山さんに説明を任せて外に出て、先週の自分のふせんによると今日は茅場町。
カフェに入って手帳を確認し、ああ、今週は新人研修で、三課の仮配属メンバーに今までの分を教えなくちゃいけないんだっけ。そうか、じゃあ松田への引継ぎを手伝いつつ、また真木に連絡してミーティングルームの予約や資料をお願いしないとならない。
・・・ふと、ため息。
黒井が言った「そのうち話す」って、何だろう。
でも、そのことも、そして今朝スーツを捨てたことも含めて、何だかこの忙しさに紛れさせて流そうとしている自分がいる気がした。
仕事が忙しいとすごく「一人前の社会人」って感じがして心地良く、スーツを捨てた罪悪感をも消してくれる気がする・・・けど。
そもそもスーツを捨てるのに罪悪感を抱かなくてもいいと気づいて、だから、「仕事を頑張っている=親の期待に応えている=文句は言われない」という図式に逃げ込む必要もなくなったのに、やっぱりこの安心感は手離せない。でも安心感を取るのなら、しかしこれは罪悪感とセットだから今までと同じになってしまう。
ふむ、罪悪感なしでスーツを捨てるのなら、「文句を言われない」という安心感もない。・・・まあ、道理だね。どっちかだけというわけにはいかないんだ。
でも、こんな丸腰みたいな気分と戦うより、仕事仕事で何も考えないサラリーマンの方がよほど楽そうじゃないか?
店内を見回して、誰もかれも、仕事に逃げているように見える。
でもまあ、仕事に没頭していれば常に罪悪感を超える安心感があり、そして仕事以外の週末はこの問題から気を紛らわすお金や恋人や友達や趣味でもあれば、それって一つの幸せの形なのかもしれない。今まではこういうの馬鹿にしてたけど、もしかしてそれは僕が反抗期未満でこの「丸腰みたいな気分」を知らず、それでこの幸せの価値に気づかなかっただけか?
それからふいに、今着ているスーツやシャツの内側の、自分の身ひとつを感じた。
これってサラリーマンでも社会人でもなくて、ただの<山猫>だ。
黒井と<恋人>ではなく、週末は犬猫小屋に棲むことになる僕は、つまり、この王道の幸せパターンから外れて、罪悪感と安心感のシーソーではない道を行けということか。
・・・ん、黒井の言う「付き合って」って、この道に付き合えということ?
前に言われた「俺のために生きてくれたらいい」って、こういうこと?
今まで反抗期未満だったからこそ僕はこの幸せパターンに染まってなくて、だから黒井の奇行にもついていけたけど、でもそれでついに恋人になったら結婚して二人で幸せパターンを得る・・・のじゃなく、やっぱり丸腰の荒れ地を行くってわけか。
「・・・」
少し苦めのコーヒーを飲みつつ、変な笑いが漏れた。
黒井は「もう現実でいい」と言ったけど、それって、絵空事のファンタジーな荒れ地じゃなく、この世の荒れ地を行くっていうだけか。
まったく、お前の言うことはいつも、何だか斜め上の裏がありすぎる。
そして僕は、その意味に追いつこうとしてここ一年、ずっと走ってるような気がするよ。
その旨また空メールをすると、呆れたような文面の(ような気がする)空メールの返信があって、僕は「やっぱりね」と一人うなずいて店を出て、仕事に向かった。
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