第37話:山猫はトンズラし、あたしの出番
「殿方が来るの、初めてだから、あたし・・・」
「ど、どっかで聞いたような」
「は、恥ずかしいな。あ、うち、三階なの」
「うう、どうしよう、ねこ、早く帰ってきて・・・」
「ねこって誰?あたし以外の人?」
「た、たぶん、そう」
「そっか。黒井さんの、お友達?」
「そう、です。お友達、なんだけど」
「けど?」
「あの・・・」
「あ、着いた。こっちです」
黒井がとても困っている。いや、あたしの方が困ってるんだから、別にいいよね。
ドアの前に立って、定期を出して、あれ、タッチするところがない。
「ち、違うよ。それ違う」
「え、違うの?わ、笑わないでよ」
「・・・ごめんね」
「ウン」
いったい自分が何の行為をしているのか、よく分からない。ここで何かしなきゃ、いけないんだけど。
再度定期をかざそうとするが、黒井に止められた。手首を、つかまれて。どきりとする。何かを、思い出しそうな。
「鍵だよ、鍵」
「あ、そっか。・・・どこかな」
「ポッケじゃない?」
・・・。
「いやあ!」
思わず、飛び退いた。この人、突然お尻触ってきた!
「あ・・・ご、ごめん」
「やめてよ、破廉恥!」
「しいい!静かにしてって!・・・もう、どうしよ。と、とにかく、鍵」
「ええと、鞄、かな。確か」
鞄の内側の、チャック付きポケットの中。ああ、そうだった。いつもここだった。
「お待たせ」
鍵が、カチャリと軽い音で回る。
「う、うん・・・。あの、じゃあ、入っても、いい?」
「・・・それ、変な意味?」
「ち、ちが、何考えてんの」
「変な事」
「も、ほんと、何なの・・・!?」
「狭いですけど、お上がりください」
「あ、ありがとう、ございます・・・」
そうして、黒井がうちの玄関に、入った。これから靴を脱いで、上がり込むんだって。それで、狭いキッチンを通って、お布団が敷いてある六畳間までいって、お酒を飲むつもりなんだって。あーあ、そのあとは、どうなるのかしら。全然、考えてなかったから。あたしの中の何かを、これから、あげちゃうってこと、なのかしら。
「あ、あの・・・」
「なあに?」
「ト、トイレ貸して・・・くれます?」
「うん、こっち。・・・どうぞ」
「どうも」
僕はそわそわしている黒井をトイレに閉じこめて、買ってきたお酒や食べ物を整理した。まだ出てこないから、トイレのドアに寄りかかってやる。
「あ、あれ、ねこ?開かないよ、そこにいる?」
「うん」
「あの、どいて?」
「ううん」
「ちょ、な・・・あの」
仕方ないな。僕はドアを開けてやる。どうしてうちのトイレから黒井が出てくるんだろう。
「あ、あの、ねこ?」
「うん?」
「本当に、どうしたの?」
「・・・別に」
「ちょっと、俺、怖いんだけど」
「何が?」
「ホントに、ねこだよね」
「黒井さんがそう思ってるなら、そうなんじゃない?」
「・・・お、お願いだからさ、クロって呼んでよ」
「え?」
「もう、何でもするからさ。頼むよ、いつもみたいに、ね、クロって呼んで?」
「何でも、する?」
「うんうん」
「じゃあ・・・お酒を飲んだら、ね」
「うう、絶対だよ?」
何でこの人、半分泣いてるんだろう。楽しくないのかな。
「あ、あのさ、明かり、つけない?この、ランプじゃなくて・・・」
「この方が雰囲気があるでしょ?布団で本を読むときにいいかなって、買ったの」
「そ、そうなんだ」
「ね、飲もうよ。せっかく、買ってきたんだし」
「う、うん、そうだね・・・」
僕は黒井のグラスに果実酒を注いでやる。僕の分は・・・いつもは自分でやるんだけど、今日は当然、注いでくれるよね、殿方なんだから。
「ねえ、早く」
僕は自分のグラスを持ち上げる。黒井が、うすピンクの液体を注ぎ入れる。綺麗。
「じゃあ、かんぱーい」
「か、かんぱい・・・」
チン、といい音がした。いつかの結婚式の引き出物、ようやく役に立った。
冷たい液体が喉に心地いい。自分までうすピンクになっていくみたい。全部、飲み干してしまった。ちょっと、はしたない?
「美味しいね」
「う、うん」
「あ、やだ、上着とか。今、暖房入れるから。ごめんね、気づかなくて」
「い、いや、お構いなく」
「こっちが構うって」
にこりと笑ってみせる。後ろから上着を脱がせてやって、さて、ハンガーに掛けなきゃ。
「あ、あのさ」
「なあに?」
「ほら、お酒、飲んだから。さっきの」
「うん?」
「クロって、呼んでよ」
「そうだったね、クロ?」
「何か違うって!」
「え、ちゃんと、呼んだでしょ」
「そうだけど・・・」
「あ、いけない。お風呂、沸かさなきゃか」
「え、いいよいいよ、別に」
「でも、じゃあ、このまんま、お布団に入るの?」
「え・・・いや、別に俺」
「床で寝たら、寒いんだよ?」
「そう、だけど」
「クロは、親切に、ベッドに入れてくれたじゃない?自分の寝床なのに、半分、分けてくれた。だから、ね?」
「・・・わかりました。風呂、いただきます」
「うん」
あーあ、こんなことならちゃんと前の日から準備しといたのに。歯ブラシとか。あと下着と、パジャマも、どうしようかな。それから・・・。
黒井が風呂に入ってしまって、僕はゴミを片して、布団を整えて、あとは、自分も、入らなきゃね。
あ、もしかして。
途中から、一緒に入ったら、喜ぶかな。
・・・そんなこと、ないか。
バスタオルを用意して、脱衣所に置いておく。下着とシャツと、トレーナー上下は僕のだけど、いいよね。あいつだっていつも、貸してくれてるし。
いや、下着は、ないか。
ああ、僕はあいつの家の風呂に入ったことはなかったんだ。だから、下着まで脱いだりしなくて。
ふうん、僕のパンツ、履いちゃうんだ。何だか、そわそわする。いや、待てよ。そのことより、黒井が脱いだパンツが、うちに残されるわけよね。その方が、どきどきするか。
そんな不健全なことを考えていたら、ほかほかになった黒井が上がってきた。
「いい、お湯、だった」
「そう?」
僕の寝間着、着てる。変なの。何だか、兄弟にでもなったみたい。
「お前も、入れば?」
「うん。あの、お酒、適当に飲んでて、いいからね?」
「分かった」
何か、こうして部屋で<お前>とか呼ばれると、まるで、男女の関係みたい。なれなれしいなあ。まだ、何も、してないのにね。
僕は電気をつけないで、風呂に入った。この方が、好きなんだ。
熱い湯で、体が、溶かされていく。何て気持ちがいいんだろう。あ、温泉?いいなあ。やっぱり、明日突然、行っちゃったりして。浴衣とか、着たいし。それで、それで・・・。
ドン、ドン!
うわっ、何?
「ねこ!開けるよ?」
急に、涼しい空気が入ってくる。露天風呂、だっけ?
「・・・!?」
「ほら、のぼせてるでしょ!」
「・・・へ?」
「何十分入ってるつもり?」
「・・・あ、やだ。待ってた?」
「ま、待ってた、けど」
「ごめんね。何か、ふらふらする」
「お風呂で寝ちゃうからだよ」
「寝てた、の?」
「ほら、上がって」
「や、やだ、入ってこないで!触ったら、濡れちゃう・・・」
「・・・っ、な」
「他に、トレーナー、ないんだから」
「あ、そ・・・うか」
「大丈夫、自分で、上がれる」
「ふ、風呂で、転ばないでよ!!」
黒井は何だか、慌てて出て行ってしまった。ちょっとくらい、手を貸してくれてもいいのに。僕は何とか自力で風呂から上がり、しばらく立ちくらんでしゃがんで、それからようやく脱衣所に上がった。
・・・。
何か、見たことがある。この景色。
つい最近。何だっけ。
「ねこ、大丈夫?倒れてない?」
黒井が入ってきた。僕はバスタオルを掛けたまま、固まってしまって。
「立ちくらみ?」
「・・・ううん」
「湯冷め、しちゃうよ」
「・・・うん」
「どしたの?」
「何だっけ。何か、あったんだけど。うまく、思い出せない」
「何のこと?」
「うん。ここでね。何か、あったんだ」
「風呂場で?」
「そう、ここで。ずっとここに、立ってた。すごく、悲しくて、怖くて、つらくて・・・」
「・・・いつ?」
「いつなんだろう。ちょっと、前。とにかく、ここで立ったまま、ずっと・・・」
「俺が電話する、前?」
「でんわ?」
「お正月の、前?」
「おしょうがつ?」
「ね、ねこ、本当は何してたの?俺、電話して、留守電入れてたとき、どこにいたの?」
「・・・あり、じごく」
「え・・・?」
「動けなくなって・・・手を、切って。薬、飲むとき」
「薬?」
「幻覚が、また」
「おい、ねこ?」
「・・・また、あそこに行くのは、怖い」
「どこ行ってたんだよ!なあ、どういうことなんだ」
「すぐ、隣に。ううん、ここに。だから、だめ。せっかく戻ってきたんだから。ちゃんと、してなきゃ、また・・・」
「だめだって、おい、どこにも行くなよ。どうしちゃったんだよ。俺、いるからさ。ずっと、いるから」
「・・・ずっと?」
「うん・・・」
「よか、った・・・」
意識が、遠のいていく。やだな、俺、裸なのに。黒井に、抱かれちゃったりして。恥ずかしいじゃん・・・。
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