第36話:僕のうちに好きな人がやってくる

 18時などという夕方にここを歩いて、リゾットなど作りに行ったのが、遥か遠い過去のようだった。たった、二日前なのに。

「何かさあ、その辺の、高速バスとかに乗っちゃってさ、どっか遠くにでも行きたいよね」

 黒井はいつもより更に遅いペースで新宿地下通路を歩く。どうして会社にはあんなに人間がいるのに、こいつは僕と一緒にいるんだろうなあ。

「ああ、温泉、とか、ね」

「温泉!」

「いいだろ?」

「最高。何もかもが最高。熱い温泉浸かってさ、浴衣でさ、座敷でさ、刺身とか、鍋みたいのつついて、そんで・・・」

「そうそう。何か、畳ってか、い草とか、座布団の匂いがして。で、いまいちあったかくない布団敷いて」

「猥談」

「・・・情緒がないやつだな」

「えー。お約束だよ」

「お約束っていうのは、好きな女の子の話とか、そういうこと」

「別に、誰でもいいよ」

「はあ。そんなんじゃ一緒に行けないね」

「えっ、何で?じゃ、ねこ、好きな女の子の話できんの?」

「うっ、それは・・・今は、ちょっと」

「自分で出来ないこと、人に言う?」

「・・・そうね。すんませんでした。一緒に行こう」

「そうだそうだ!・・・で、いつ行く?明日?」

「・・・ぷっ、そうね。明日ね。って、そんなの」

 地下通路を経て、改札を抜ける。連休前の、金曜の夜の、新宿西口。たったの一週間前だ。僕が「みつのしずく」に向けて、ここを徘徊していたのは。そのことを言ってしまいたくなるけど、もちろん、みーちゃんとのことが言えるわけもなく。それに、結局携帯に出ないまま僕が何をしていたのか、改めて聞かれることもなく。ちょっぴり淋しいけれども、それでいいと思った。

 うん、みーちゃんにも、伝えたいな。こうして、今僕が、笑いながら黒井と温泉話なんかしてるって。僕が今ここにいるのも、みーちゃんの荒療治?のおかげなのだから。

「ん、どしたの?」

「ああ、何でもない」

「ねえ、次でいいよね。座りたい」

「うん。座って帰ろう。疲れたし」

 そして。

 座ったのはいいものの。

 寝ちゃうんだから。

 僕は、黒井が僕の反対側に舟を漕ぐのを、腕をつかんで強引に止め、僕の肩に引き寄せた。い、いえ、同僚がご迷惑をおかけして。ええ、責任持って僕が、はい、引き受けますので。え、よだれ?はあ、それも込みで、はい。

 ま、聞こえてないんだし、言っても言わなくても、考えても考えなくても、結局はちらっと見るだけで誰も何も言ってこないんだから。いいでしょ。

 そうして僕は、黒井がまたあっちへ行かないように腕を取って、自分も寝た振りをした。どんなに素晴らしい大義名分を考えたって、貼り紙にして貼っておけないんだよな。ああ、もう、うっとおしい。ふたりっきりにしてくんない?なんて。

 ・・・。

 ・・・?

 ・・・。

 音が、感覚が、浮かぶように戻ってきて。

 あれ。

 僕、寝た?え、うそ。

 今さっき、大義名分が、どうとか。あれ。

 タイムスリップした?

 ・・・席が、空いている。さっきまで、席も、目の前に立っている客も、いっぱいだったのに。

 ずり下がった体を起こして、黒井の頭も肩から落っこちるけど、車両を見渡す。

 え、ここ、どこ?

 うわっ。

 黒井がぐらりと揺れて、僕の、膝に。いや、股間、に。だめだめ、何か、僕寝てたから、その。

「おい、ちょっとクロ、起きて」

「ん・・・」

「ねえ」

「・・・っ、ふうん・・・」

 ああ、もう、またぐんにゃりして。やっぱりよだれとか垂らしてるし。ハンカチで、拭いてやった。

「ねえ、クロ。ちょっと、何か、寝過ごしたっぽい」

「ふぇ・・・?」

「やばいかも。下手すると帰れないよ」

「なにが」

「とにかく、次の駅・・・」

 そのとき、車内アナウンスが流れ、僕の自宅の駅の、次の駅だと告げた。とりあえず僕は帰れるけど、うん、黒井はどうなるんだろう?

「とりあえず、降りるから。鞄、持ってほら」

「え、着いたの?」

「桜上水じゃないよ。もう俺んちも過ぎてんの。すっごく寝過ごしたってこと。上り、まだあるかな」

 駅に着き、黒井の腕を抱えて何とか降りた。寒い。

 黒井をベンチに座らせて、時刻表を見る。ギリギリ、あと何本かあるけど、桜上水まで行ってくれるかどうか。最終で間に合わなければ、うちに泊めるしか・・・。

 え。

 ・・・。

 いや。

 無理だよ。

 だめだめ。次の電車。乗せなきゃ。絶対。

「クロ、よく聞いてよ。次の電車ね、途中で止まっちゃうから、乗り換えるの。たぶん調布で向かいに電車待ってるから、それに乗れないと、お前帰れないからね」

「・・・ねこは?」

「俺は、ここ、隣の駅だから大丈夫だよ。歩いて歩けないこともないとこ」

「・・・ふうん。こういう、とこに、住んでんだ。・・・静か、だ」

「うん。・・・まあ、この時間ならどこだって静かだよ。あ、電車来るから、乗るよ」

「ふうん・・・」

 分かってるのかな。心配だけど、桜上水までついていったら当然僕が帰れないし。

 ほとんど無人の電車がホームに滑り込んで、あっと言う間に僕たちを乗せていった。僕は一生懸命乗り換えを説明するけど、黒井はあんまり聞いていなくて。

 すぐに、駅に着いてしまう。

「おい、頼むよ。俺、ここで降りなきゃ」

「うん。大丈夫。たぶん」

「そうかな。分かんなかったら、電話してこいよ」

「うん」

 電車が、減速して。止まって。ドアが、開いて。

「じゃ、その、ちゃんと・・・」

「だいじょぶって」

「・・・うん。じゃあ」

 僕がホームに降り、黒井と向かい合う。まるで、お別れみたい。いや、お別れだけど。僕と黒井の間に見えないドアが立ちはだかって、本当はそんなの、もう、ああ、乗っちゃおうか。

 ジリリリとベルが鳴って。そういうわけにもいかないし、僕の足は凍ったまま。ドアが、閉まりはじめ、て・・・。

「えいっ」

 あ、れ。

「っ・・・!」 

「やった!」

「お、おま・・・」

 飛び出してきて、しまった。ドアをすり抜けて、僕の駅に、黒井が、降り立った。

「やった、泊まり。明日、温泉!」

 楽しそうに、笑いやがって。

「こ、このやろ!人が一生懸命・・・!」

「ふふーん。分かんないもーん。全然聞いてなかったもーん」

「な、何だよ、人の気も知らないで」

「良かったじゃん、だって俺、電話かけて泣きついたらお前、どうするつもりだったの?タクシーで迎えに来てくれた?」

「え、それは・・・」

「だからこれで良かったんだって。知ってた?俺、乗り換え苦手なの」

「し、知るかよそんなこと。・・・ったく、しょうがねえなあ!」

「そうだよ。俺んちばっか文句言って、お前どんな部屋住んでるか見てやるって、ずっと思ってたもん」

「大丈夫、お前のとこより綺麗だから」

「言ったな?」

「はいはい。じゃあ・・・帰る、か」

「あはは、何か、楽しくなってきた!」

 どうしよう。

 うちに連れ込んだりして、僕、大丈夫かな。大丈夫だよ、って自分からの返事、まったく返ってこないけど。

「よし、酒買って帰ろ!」

 ・・・一日が、長い。

 こんなことになっちゃって、今年中の運を全部使い果たして、もうマイナスになってる気がする。たぶん週明けくらいからもう取り立て人がぞくぞくとやって来て、身ぐるみ剥がされてしまうだろう。

 ・・・来るなら、来い、か。

 それならせいぜい、この連休を楽しんでやる。先のことなんか知るもんか。今このチャンスをつかまないで、何が人生だ。

 よし!とにかく・・・帰ったらまず、あの皺になったネクタイとボタンのちぎれたYシャツを、クロゼットの奥へ丸め込まなきゃな!



・・・・・・・・・・・・・



 駅からうちへ歩くほんの十数分。

 途中、コンビニでまた深夜の買い出しをして、帰るわけだが。

 酒なんて、また、買ってしまって。

 ・・・。

 黒井が。

 この、隣の、少し背の高い、傍目には爽やかイケメン風の男が。

 僕の、片想いの、相手が。

 うちに、来て。

 ・・・どこで、寝る気、なんだ。

 ぼ、僕の、ふ、布団に、こいつ、一緒に入ったり、なんか、したら。

 おかしくなりそうだ。

 そんなの、僕の妄想が異次元から出てきて、都合のいいハーレムマンガみたいに、僕の夢を叶えにきたとしか思えない。

「ね、どしたの?」

「いや、ちょっと。人が来るなんてないから、緊張、してる」

 もう、黒井が、どこの誰なんだかよく分からなくなってくる。

「別にさあ、いつもとおんなじだよ。お酒飲んでさ、何か食べてさ。お前どうせ、寝ちゃうし」

「ああ、そうだな。確かに。寝ちまうかもな・・・」

 だめだ。

 たぶん、目が据わったまま、ぎらついている。いや、襲ってしまいそう、という意味ではない。そうじゃなくて、ただ、黒井が現実で、自分の布団にいるという事実が、歪んで、ぶっ飛んで、おかしくなって、僕は家を飛び出してどこかで野宿するんじゃないかって、そういう心配だ。

 酒を飲んで、酩酊して寝るか。

 穴が開くほどこの男を眺めた後、飛び出すか。

 どっちかなんだろう。

 もう、好きな人なんだか、異次元の存在なんだか、よく分からなくなってくる。黒井の家に行くときは、僕は自分が主人公の小説を読んでいるような客観的な感じだが、今は、僕が主人公の僕になって、僕をやらなくちゃいけないんだ。それって、僕が腕を動かしたら動くし、足を動かしたら歩くし、ああ。

「・・・てっ」

「あ、こけた」

「・・・はは」

 意識すると、歩くのさえ困難だ。僕は僕をうまく操縦できてない。

「なに、もう眠いの?肩貸そっか。あ、おんぶしてやろっか」

「け、結構だよ黒井くん。自分で歩かなきゃだめなんだ。慣れなきゃ、無事に、朝が来ないよ・・・」

「何言ってんの?もう寝ぼけてんの?」

「そういうことにしといてくれ」

「変なの」

 もうすぐ、ああ、見えてるじゃないか。僕の、マンションが。

 どうしよう。

 あと五分、いや、三分後には、玄関を開けて、黒井が、僕の部屋に入ってきてしまう。空間が、侵される。黒井のことを何時間考えたんだって部屋に、本人が侵入するなんて。ものまね歌合戦の、ご本人登場じゃないんだから。来るって分かってても、目を見開いて口に手を当て、絶句のポーズ。・・・それがあと、三分後!

 今までの妄想が全部部屋に浮いていそうで、それをくまなく見られそうで、もう半分、白状しちゃおうか、と思う。俺さ、実は、お前のこと好きなんだ。いや、そうじゃないよ。ウマが合うとか、親友だねとかじゃないんだ。ちゃんと、好きなんだよ。キスの先まで、考えちゃうくらいに。意味、分かるでしょ?お前が言うような、好き、じゃないんだ。お前がするような、キス、じゃないんだ。ね、分かった?俺のこと全然分かってなかったの、お前の方なんだよ。こんな妄想してるなんて、知らなかったでしょ。だってもし知ってたら、ふつうに付き合えるはず、ないもんね。でしょ?

「ねえ、まだ?」

 ああ。我に返る。今の、口に出してないよね。

「うえっ?あ、ええと」

「ちょっと、どしたのさっきから?」

「あら?通り過ぎちゃってた」

「はあ?ねこ、大丈夫?」

「あはは、何だろうね、お客さん怖い症候群?」

「・・・俺が来るの、そんなにやだった?」

「いや、そういうわけじゃ、ないよ。ただ、ひたすらに、緊張してるんだよ」

「あ、まさか」

「・・・え」

「分かった。何か、すごい部屋なんだ?すっごい濃ゆい、マニアックなポスターだとか、グッズだとか、人に見せるの初めてとか」

「・・・いや、そういうの、別にないかな」

「アニメファンとか、エロゲマニアとか」

「何それ。僕が好きなのは、事件ものの海外ドラマと、ミステリ小説だよ」

「・・・そうなの?」

「ああ」

「本当?」

「うん」

「知らなかった」

「僕も今思いだしたよ」

「ぼく、て」

「あたしでもいいよ」

「・・・ほんとに壊れちゃったのかな。俺、どうしよう」

「ああ、黒井さん、着いちゃったわ。ここなの、うち」

 黒井が僕から顔を背けて、どうしよう、と囁いていた。それは、あたしのせりふだってば。

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