4章:わが家へようこそ

(好意を隠そうとするあまり、別の自分が出てきた…)

第35話:残業終えて、一緒に帰ろう

 エレベーターを降りて、夜の住宅街を歩く。

 だんだん、早足になる。

 それから、体が勝手に、小走りになって、ついには、走り出した。

 こないだの朝、遅刻寸前でダッシュしたときは、とにかく体を引っ張って、運んで、連れて行かなきゃという感じだった。でも今は、同じ道のりを走っているのに、何だろう、勝手に進んでしまう感じ。

 全然疲れない。

 息は切れるけど、苦しくはない。しかも、どんどん加速する。スキーやスケートで、ものすごく調子に乗った瞬間みたいな。風を切って、どんなに速くても怖くなくって、過ぎ去る景色がゆっくりに見えて。

 スピードに乗っているのが当たり前で、ギアがどんどん上がってく。

 ・・・と、もう駅についてしまった。仕方なくスピードダウンし、喉の奥の冷たい空気を飲み下す。

 電車に乗ると、暑いほどだった。

 ずっとしていたいけど、仕方なくカシミアを取る。黒井の家にあったせいで、少し匂いが、あいつのに戻っていた。早々に僕の汗臭さに染まったら、もったいないし。

 好きすぎて、どうしようもない。

 本当に、どうするんだろう、この、膨張した気持ち。

 さっきのやりとりを、思い出したいけど、一言一句リピートするのはやめて。

 まとめて「新しいフォルダ」に突っ込んで、メインの記憶領域にコピーした。

 輪郭でいい。

 あいつが何て言ったとか、何をどうしたとか、ひとつずつ、確認しなくてもいいんだ。まとめたフォルダをいくつも集めていって、遠くから、遠くから眺めて、それでモザイク模様のあいつが見えてくる。いや、僕とあいつが、か。

 事細かにページをめくらなくても、読んだ本なら、表紙だけで十分。読んでいたときの、状況とか、匂いとか、気分とか、見た景色とか、勝手にわきあがってくるから。

 だから僕は、無意識にずっと指の傷をなぞっていたけれども、自分がどうしてそうしているのかについて、考えなくてもよかった。そうしたいから、しばらくそうしていた。そして、今度は走らずに、普通に歩いて自宅に帰った。帰ってから、やっぱりお腹が空いてきて、結局うどんを食べて、久しぶりにカシミアを抱いて、寝た。



・・・・・・・・・・・・・



 木曜からは、もう、年始ムードは消えていた。

 ただひたすらに、仕事。朝から会議、年始一番の外回り、打ち合わせ、同行、契約書、システムサポート部への連携、報告書、発注書の作成・・・。

 月曜から三日間やってきた準備も早々に使い果たし、あとは自転車操業といった感じだった。あ、名刺も発注しなくちゃ。

 電話は鳴るし、歩いてれば捕まるし、プリンタは詰まるし、へとへとだった。

 何だか分からないうちに一日が終わっていて、帰って寝てまた来て、同じ事が繰り返された。僕だけが忙しいんじゃなく、社内のみんなが全員同じ状態で、これからの三ヶ月、決算までの中距離走が、こうして静かに幕を開けたのだった。


 もう、社内の誰と話している暇もなかった。やることがありすぎて、それどころではないのだ。おい、これじゃあ、まったくのキリギリス状態じゃないか。どうして暮れから準備しておかなかったんだ。しかし今更嘆いてももう遅い。先輩の助言を黙々と受け入れ、後輩の頼みは聞く前から終わらせ、課長に報告だけは忘れずにして、片付けるより増える方が速い仕事と追いかけっこしながら、夜が更けた。

 本当に、会社というやつは、何となく忙しくなるぞと生ぬるく警告しておいて、間延びした警報を鳴らしつつやり過ごした後、本当に忙しくなって、その時にはもう警告も警報もなしでただひたすらに仕事だけがあるという、そういう場所だった。僕の心の準備とはワンテンポずれていて、いつも「え、本当に?」と信じられずに何日かを過ごしてしまう。その間にそれが終わってしまうこともあるけれど、今回は、まだ先が長いから、僕の気分も順応できそうだ。

 金曜の夜。

 ギリギリまで残業して、僅かでも月曜の僕の負担を減らしておく。

 ・・・が。

「山根くんね、月曜は、来なくていいから」

「え?」

「しゅくじつ」

「は」

「いや、来るなら来てもいいんだよ?」

「いえいえいえ、課長、遠慮しときます。ああ、連休、だったのか・・・」

「ま、一日少ないということは、来週は四日で五日分やるってことだからね」

 島のみんながどっとため息をつき、無言で首を横に振った。連休は嬉しいが、先が思いやられる。来週からは派遣の佐山さんまでが残業してくれるというから、もう、みんなで頑張るしかないんだけど。

 22時半を回った辺りで、各課長からそろそろ帰れコール。そうそう、トイレも、暗くなっちゃうしね。

 僕は例の大口案件の提案書を最後まで仕上げて、ようやく両腕を上げて伸びをした。

「はああ・・・帰る、か」

 気づくと、島にはもう誰もいない。うちの課長は三課の課長の席で、何やら相談中。振り返ったついでに、黒井の席を見ると、眠そうな目の黒犬が力なく手を振っていた。

 帰り支度を済ませてしまうか迷ったが、とりあえず立って、三課へ向かう。フロア全体も見渡すが、まだ残っているのは四分の一ほどだった。

「よう」

「終わったの?」

「終わらせた」

「あっそ。先帰れば」

「お前もそろそろ切り上げろよ」

「だって、データの、保存が、こいつ、拒否すんの・・・」

 三、四の両課長がこちらをちらちら見ていたが、知らんぷりをした。ま、見たくもなるだろう。心配とか、面倒とか、本当はどうなんだとか。でも、そういうの、まとめて僕たちですから。なんて、余裕こいてみたり。

「え、何、USBいかれた?」

「違うの、えすでー」

「SD?」

「まいくろえすでー」

「何でそんなん使ってんの」

「ちょっとね。とにかく、さっきまで保存できてたのに、急に、禁止されてますとかいって」

「ええ?」

 黒井が画面でやってみせる。保存しようとしてもエラーが出て、上書きも、新規保存も出来なかった。

「接続が甘いんじゃない?」

「えー」

「ちょっと、一回取り外し、やって」

「ん」

 外部メディアの安全な取り外しを行い、SDカードアダプタを取り出す。薄くて、ぺらぺらで、落として踏んづけて壊しそうな代物だ。

「あ、これじゃん」

「えっ?」

「ほら、この、ロックのとこ。いじっちゃったんだろ」

「なにそれ・・・。もう、何でもいいからさっさと保存して?そしたら帰るから」

 黒井はさっさと席を立ち、隣の席にどっかりと座った。また、隣のデスクまでホッチキスやらふせんやらが侵入している。

「ったく、しょうがないな。えーと・・・読み込んだ、かな。保存すんのこれ?」

「それ。その見積もりのやつ」

「・・・ほれ、出来た」

「マジ?あー、神様仏様山猫様だー。来週俺直行だからさ、データ、ノートで見れないと話になんなくて」

「なるほどね。素直にUSB使えよ」

「それが、・・・どっかやっちゃって」

「はあ?・・・これじゃなくて?」

 僕はホッチキスに挟まれるように埋もれている小さな黒い塊を取り出した。

「え・・・それ、何、どうしたの」

「ここにあった」

「・・・くそ、俺の二十分を、いや、三十分を、くそう」

「だからちゃんと片付けろってさあ。もう、これ、いいの?」

 僕がPCのアプリケーションを閉じてシャットダウンしようとしていると、課長たちが立ち上がった。

「おい!お前らも上がれよ」

 三課の中山課長だ。

「は、はい。今、もう帰りますんで」

「今年は、喧嘩とか、なしで頼むぞ?」

 黒井が、はい、大丈夫っす、と眠たげな声のまま答える。いやあ、中山さんも、大変だな。

「じゃ、ちゃんと帰れ?」

 お疲れ様です、と二人で声をかけ、中山と道重がコート姿で去っていく。最後に道重課長が「仲良く、しろよ?うん」とちょっと意味深なせりふを吐いて、フロアを去った。

 ・・・。

「・・・仲は、いいよな?」

 僕はそれには答えず、「はーあ、終わった」と独りごち、帰り支度をした。 

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