第34話:スマートに帰る!

「別に、うまいけど」

「いや、違うんだ。もっと美味しく出来たんだよ。ここのキッチンが悪いだけなんだ」

「・・・悪かったね。じゃ、全部揃えてよ」

「・・・うん、ま、いつか、ねえ」

 期待をしない!を言い聞かせ、適当に濁す。だって、次の土日に本当に一式買って持って来たら、引くでしょ。

「まあ、でも、ふつうに、うまいよ」

「そう?じゃ、良かったけど」

 黒井はリゾットを平らげ、サラダも芋も食べてしまった。自分の作ったものを、好きな人が全部食べてしまって、僕自身はもう喉を通らなかった。僕が作ったものが、黒井の中に、入っていって、溶かされて、とか・・・。

「お前、もう食べないの?」

「へっ?あ、ああ。味見とかしてるとさ、作る方は、お腹いっぱいになっちゃうんだよ」

「そうなの?じゃあ、無理しないで、残しなよ。明日俺食べるから」

「え、いや、でも、取り分けちゃったし」

 皿に盛って、スプーンも、口付けちゃったし。

「え、何かまずいの?そのまま鍋に戻しといてよ」

「そ、そう?」

「あ、やっぱ俺がやると焦がすから、ラップしといて。チンして食う」

「うん、そんなら・・・」

「ごちそうさん」

「お、おそまつさま・・・」

 うわ、恥ずかしい。

 僕はそそくさと立ち上がり、キッチンに戻って早速洗い物を始めた。むしろこの位置の方が、落ち着くのだった。


 シャツを腕まくりして、そこら辺にあった何もかもを、洗う。何かの景品でもらったようなスポンジと、洗剤だけはあったから、徹底的に綺麗にしてやろうと思った。自宅で大掃除をしていないから、その代わりだ。

「ねえ、クロ!使ってない歯ブラシとか、ない?」

「えー、何それ」

 黒井はベッドの背にもたれ、何となくスマホをいじりながら食後の一服中。

 ・・・。一服と言えば。

 引き出しの奥から、小さめの銀の灰皿が出てきた。しばらく使ってないみたいだけど、タバコ、吸ってたんだ。いや、まさかその女の子のか?ま、僕は吸ったことないから、良さなんか分かんないけど。

「あ、洗面台にあるやつ、使っていいよ。買い置きあるから」

「いいの?」

「そろそろ、替えてもいい」

「そう、じゃ、使うよ」

 いつもはゴム手袋を使うが、ないのだから仕方ない。排水口の奥のぬるぬるを、洗剤まみれにした歯ブラシでこすっていく。手の甲とかにもぬるぬるがついちゃうんだけど、これも黒井のためだし、我慢できちゃうか。はあ、俺ってこんなに献身的だったんだなあ。

「ねえ、ねこ、・・・訊かないの?」

「何を」

「俺が怒ってるのかって」

「・・・だって、昨日訊いたら、分かんないって、言ってたから」

「それで、いいわけ?」

「・・・うん。だって、それ以上、ないじゃない」

「・・・ふうん」

「自分でもさ、分かんないことって、あるし。言葉にしても、ちょっと、違ったりとか、さ」

 洗い物に集中しながら。見たり、触ったりもしないで。でも、電話とは違って。

 こういうコミュニケーションが、僕は一番、落ち着いて、本当のこと、言えるかも。

「そういうのって、ねこも、ある?」

「うん、あるよ。理屈は、ついてもね、何となく、腑に落ちないっていうか」

「お前、理屈屋」

「そう。お前と、違ってね。理屈とか、正論ばっかり」

「俺のこと、どう思ってんの?」

 ・・・。

 うん。今なら、ごく、ふつうに。

「分かんないよ。クロのことは、分かんないことだらけ。だから、いつも、一から考え直すんだよ。それが、きつい、けど、楽しい、よ」

 よし、もう少し。ぬるぬるが、全部取れそう。歯ブラシ一本ダメにしちゃった。コンロの五徳もこすろうと思ってたのに。

「どんな風に・・・楽しい?」

「ふむ。そうだなあ・・・新しい、自分がいて、びっくりする。最近さ、自分が、別の人みたいに、感じる。すごい、世界が、新鮮」

 うん。

 鍋、皿、スプーン。ついでに少ない食器全部洗い直して、缶やビンもゆすいで、分別して。

 どんどん綺麗になっていく。だから、洗い物は、好きなんだ。

「だから、好きなんだよね」

「・・・何が」

「うわっ」

 すぐ後ろに、黒井が立っていて、何やら僕の腰に手を回そうとしていて。

「な、なになに」

 何か、白っぽい、布。

 紐で、腰に、巻かれて。

「エプロン、か」

「何か、あったなあって、思い出して」

「もうちょっと前に、欲しかったね」

「うん」

 腰の後ろで、紐がきゅるきゅると結ばれていく。もうほとんど洗い終わってるけど、でも、いいよね。むしろ、もっと、洗うもの、ないかなあ。

 何が気に入らないのか、黒井は一度紐を解くと、再度きゅう、と強く結んだ。

「うぐ、ちょ、きついよ」

「何か、・・・きつく、したくて」

「へ・・・」

 あ、まずい、あの感覚。

 僕は持っていた包丁を取り落とす。ガン、とシンクに音が響いた。音の余韻が消えると、静寂。冷蔵庫の低いうなりだけになって。

 僕はシンクに手を出したまま、振り向くこともできないし。

 黒井は僕の後ろで、ただ、立っているみたいだ。

「・・・クロ?」

 ゆっくりと、小声で。

「何」

「いや、なんでも、ない」

 僕はもう一度包丁を取って、スポンジで洗い直す。何だろう、何かの、爆発の前兆のような、匂い。

 これを、洗い流してしまったら。

 でも、ずるずる引き延ばしても、包丁一本に何秒もかからなくて。

 エプロンをしたばかりなのに、洗い物は終了して。どう、しよう。何か、怖い、よ。

「ねえ。その、指。今、切ったの?」

 後ろから、低い声。左の肩から、のぞき込んでくる。

「え、これ?・・・違う、今じゃないよ」

 アリジゴクにいたときの、薬のケースで切ったやつ。まだ、ぱっくりと、線が。

「ちょっと、見せて・・・」

 僕は黒井の方に向き直り、おずおずと手を出す。湯が、エプロンに、滴る。湯気が立った右手の、人差し指。第一関節から、第二関節へ、斜めに。

「痛かった?」

「え・・・どう、かな。あんまり、感じなかった」

 そして、黒井は、僕の指をゆっくりと、自分の口元へ。唇に、触れる。

「あ、の・・・、洗剤、まだ・・・」

 黒井は目を伏せたまま。

「その、だいじょうぶ、だから・・・」

「・・・っ」

 黒井は突然ひとつ身震いすると、僕の手を乱暴に離した。

 後ろを向いて、肩で息をして。

 五秒の、沈黙。

 そして。

「ごめん!何か、噛み切って、やりたくなって!」

 声は、笑っていた。笑ってないけど、笑っていた。

「な、何だよ、それ」

「知らないよ!しょうがないだろ?」

「はあ?」

 ようやく、振り向いた。少しひきつった、それでも爽やかな、笑顔。何だろう、でも、ああ、やっぱり好きだ。噛み切ってくれても、良かったのに。

「お前はね、Sなんだよ。そうだろ」

「じゃ、お前、M」

「う・・・」

「そうだよ、だって、俺にこんなに振り回されて、でもこうやって飯作りに来てくれるし。そんなやつ、いなかったもん。うん。お前はドM」

「お、俺はただ、親切で・・・」

「うん。親切でさ、俺のこと、分かってないってこと、分かってくれてさ。だから、いいじゃん。・・・いいかな。・・・いいよね?」

「・・・いい、よ」

「やった!じゃ、今日泊まってく?」

 ・・・だめだめ。三箇条!

 スマートに帰る!

「・・・かない!泊まんないよ帰るよ、今日は絶対帰るんだよ何としても!」

「ええ、何で?」

「いいから。お前もう、送んなくていいし、そのまま寝なよ。ね、おやすみ。俺マフラー取って一人で帰るから」

「えー、つまんない!」

「子どもみたいなこと言うな。ほら、おやすみのキスしてやるから」

 ・・・っ、あ、やらかした。

 ゆ、油断。

「あ、いや、冗談だよ。ほら、えっと、マフラーどこ?」

 何て白々しい。あーあ、<スマートに帰る>に気を取られて、<浮かれない>を忘れてた。

 黒井はしばらくきょとんとして、それから「ああ」と言って、カシミアを取ってくれた。うん。もう、忘れてくれ。

 僕は固く結ばれたエプロンを名残惜しくほどき、上着とコートをそそくさと身につけ、カシミアも首に巻いて、玄関に向かった。どうして、ほら、こうなっちゃうんだ。俺の馬鹿。

「じゃ、じゃあまた明日」

「・・・ん!」

 ドアを勝手に開けて、靴を履くのもそこそこに、寒空へ出る。一瞬振り返ると、黒井が玄関から手を伸ばしてドアを押さえていた。

「ん!早く、キス!」

「・・・っ、や」

「嘘つくの?」

「・・・や、ちょ」

 目なんか、つぶる、から。

 いや、無理。

 その時、前髪の間からのぞいたおでこが見えて。ああ、もうこれしかない。

 前屈みなせいで、低くなったおでこに、唇が、触れるか、触れないか。

「お、おやすみ!」

 黒井が目を開けて、なあんだって顔で、「じゃあねー」と僕を見送った。エレベーターが来たとき、ドアが閉まって、鍵をかける音を、聞いた。

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