第33話:ドキドキおうちごはん

 翌日。何となく、黒井の機嫌は半分くらいしか直らないまま、年始初のノー残業デーが訪れた。

 昨日は、一緒に帰ることは考えていたけど、僕がたまたま用事を言いつけられていて、黒井が先に帰っていた。

 その後帰ってリゾットの残りで夕飯にしたわけだけど、メールも、電話もなし。まあ、毎日する方がおかしいし、それにそういえば、電話代だって、僕からはしないんだから全部あいつ持ちなのだ。それについては悪いと思いつつも、でも、僕から電話するとかは絶対出来なくて。ううん、何か、回線の定額プランとかにすれば安いのかもしれないけど、そんなの、家族や恋人じゃあるまいし。でも、電話代だと言って、何千円か渡すのもおかしいし。

 ・・・まあ、もし電話代が大変なことになったら、あいつだって「半分出してよね!」とか言ってくるか。っていうか、別に、もう、来ないかもしれないし。俺、ろくな心配しないな。


 年始のお達しの手前、全く残業をするムードではなく、本当に、会社に入って初めて、学校の終礼みたいに、一斉にみんなで帰ったのだった。みんな、何これ、と吹き出していた。おっさんも女の子も、課長たちを残してみんなが、17時40分には追い出されるようにしてフロアを出た。廊下が溢れて、エレベーターに長い列が出来る。自然と笑いがこみ上げて、その辺にいた誰彼なく、「何すかね、これ」と声を掛け、笑いあった。

 黒井のことは、この混雑で見失ってしまった。こういう、何だか面白いイベントの時は、ちょっと浮かれて一緒に帰りたくても、許されるんじゃないかと思って。目で探すけど、見つからない。でも、期待してがっかりするのも嫌だから、今日もまともな夕飯づくりのプランでも立てながら、一人でのんびり帰ろう。

 ようやくエレベーターに乗り込んだ。

 すごい。満員。

 途中でドアが開くと、そのフロアの会社員が必ず「ええ?」と驚いて、笑うのが面白かった。エレベーターの中も外も、不思議な笑いが起こり、そして、人の出入りがないまま静かにドアが閉じる。その光景も何だかシュールで、再び笑い。降下して、その階の笑いが上へ遠ざかっていき、また、開いて、同じことが繰り返される。何だか、三谷幸喜の映画みたいだな。え、でも、これ、まさか毎週続くわけじゃないよね?

 人に流され、そのまま新宿地下通路へ。今日のおかず、どうしようかな。今度は和風にしてみようか。鶏肉でも買って、親子丼とか。いや、ここは肉じゃがにしておくべきか。ちらりとかすめる、下心。いや、女の子じゃないんだから。

 改札を通る前に、何の気はなしに、ちらっと携帯を見た。

 ・・・メール。

 慌てて見る。

<ローソンにいる>

 黒井から。13分、前。

「うおっ!!」

 思わず叫んだ。

 ・・・おい!

 僕は一瞬の迷いもなく回れ右をして、それはもう全力ダッシュ。どれだけすごい忘れ物したんだって勢い。通行人も、ちらほら見える同僚たちも、思わず振り返って僕を見る。いや、うん。それはそれはすごい、忘れ物なんですよ!


 今歩いてきた何百メートルかが遠いのか近いのか。とにかく息が切れた。しかし、なるべくそれは見せないように、深呼吸してローソンに入る。黒井は雑誌コーナーで立ち読みしていた。

「よ、よう」

「あ、ねこだ。ちょっと待っていいとこだから」

 おい、お前ね。

 いいとこ、って。そのマンガ、週刊誌じゃなくてリミックスじゃない。一冊読む気?

 仕方なく、店内を適当に見て回る。弁当コーナーなどを見て、今夜のおかずの参考に。ふむ、炊き込みご飯か。

 そろそろ息も整ってきた頃、黒井が「おまたせ」と。後ろから声がかかるだけで、また、心拍数は上がってしまうけど。いや、本当にこれ、救心買うべき?今度の健康診断で、不整脈とか出なきゃいいけどね。

「じゃあ帰ろっか」

「そ、そうね」

 なるべく何でもない振りをして。今日は、何だか嫌な予感がするから、きつく自分に言い聞かせる。

 浮かれない。

 期待をしない。

 スマートに、帰る。

 よし。これだ。この三箇条を守れば、きっと明日も、またふつうに頑張れる。はみ出し、暴走、厳禁。羽目を外さないこと!


 一度歩いた道をまた歩いて、駅へ向かう。黒井の歩調はいつも僕よりほんの少しゆっくりだから、時々早くならないように気をつける。前は、これも余裕の表れだなんて思ってたけど、まあそれは正解でもあり、少しずれているようでもあり。

 余裕というか、たぶん、これが、こいつの時間なんじゃないか。

 みーちゃんが言っていた、見えている世界が、時間が、違うというようなこと。僕とは違うOSで動いてるんだな。それが、愛おしくて、面白い。

「ねえ、まだ、18時」

「な。あり得ない」

「変なの」

「ま、暗いけどな」

 ターミナルの辺りで夜空がのぞく。もしこれが夏だったら、まだまだ夕日の時間だろう。

 ・・・その頃、僕は、何をしているのかな。

 こうして同じように、水曜日に一緒に帰ったり、してるんだろうか。

 しみじみと思いながら、冷えた手をコートのポケットにつっこんだ。

「そういえば、クロさ、あの、マフラー」

「え?」

「お、俺の、マフラー。返してよ」

「あれ、渡してなかった?」

「うん」

「あ、じゃあ今日返す」

「・・・うん?今、持ってんの?」

「持ってない」

「え?」

「だから、うちで返すって」

「え?」

「約束。まともな料理、振る舞ってくれるって」

「あ、ああ?」

 特に説明はせず、先に行ってしまう。まだ少し、ご機嫌斜め。

 ・・・っていうか、え?

 これから、黒井の家で、料理、作るの?

 こういう時に限って、妙な試練が僕に課されるんだよな。三箇条、守りきれるかな。


 ぎこちない会話を交わしつつ、桜上水で降りた。スーパーはまだ主婦や子連れでにぎわっている。っていうか、一緒にスーパーで食材の買い出し、とか・・・。深夜のコンビニで酒とつまみを買うのもいいけど、こういうのは、それ以上に照れるな。

「で?トマトリゾット?どれ買うの?」

「いや、まあ、トマト缶だけどさ。調味料とか、あんの?」

「塩とか」

「・・・。うん。コショーとか、コンソメとか、ケチャップとか」

「ケチャップは、ある」

「それ以外は?」

「ない」

「・・・そこからか。分かった。じゃあいろいいろ仕入れなきゃな」

 スーツ姿の男二人、夕方に、酒のコーナーじゃなくて、缶詰や調味料のコーナーにいるのって、うん、ちょっと浮く。せっかくの楽しいお買い物なんだけど、何だか、上の空で。

 たぶん、黒井の機嫌がまだ直らないから。本当に、なにをむくれているのやら。そして、その割に人を誘ってくるのは、一体何なんだろう。

 ま、分かんないし、それも、いいんだけど。

 僕は、一緒にいられるだけで幸せだと思い直し、「まだ機嫌悪いわけ?」などとは言い出さずに、極めてスマートに買い物を済ませた。

 レジでは、当然僕が出すわけで。

 これも、もう二人の暗黙の了解。

 割り勘とか、いくら払う、とか、なしの関係。それを言い出さないってことは、完全にむくれているわけでもないんだろう。

 たぶん、昨日のぎくしゃくをなくしたくて、この場を設けたのかも。だから、たぶん、食べるまでは、このまま和やかにいけばいいのだ。

 帰り道、当然僕が両手に荷物を持って。忘年会の夜が思い出される。あれから、まだひと月も経ってないけど、ずいぶん<進んだ>んじゃない、僕たち?なんて。

「あ、お酒買った?」

「いや、買わないよ」

「えー、買えばよかった」

「いいよ、今日は休肝日でさ」

「俺別に、昨日も一昨日も飲んでないよ?」

「いいからいいから」

 今日お酒飲み過ぎたら、三箇条が実行できなくなるじゃない。だめだめ、絶対、スマートに帰るんだ。僕は、不摂生な友人を思いやって、食事を作りにきてやった優しい同僚なんだから。


「・・・え、まさか、おたまくらいあるよね?」

「えーと、引き出しに入ってない?」

「あの、計量カップは?」

「・・・何それ」

 ・・・、え。そんな家、あるの?

 材料は基本の調味料から買い揃えたが、まさか、まず最初に、まな板が棚の奥から出てきたところで、開いた口がふさがらなかったのだった。これって、たぶん・・・。

「クロさ、お前、女の子と同棲してたでしょう」

「え?何で?」

「ここまで無頓着で、人が生きていけるとは思えない」

「・・・悪かったね」

「まあ、別に、いいけど」

 おっと危ない。つい、そんなこと、踏み込んでしまった。

「押し掛けてきただけだよ。そんで、出てった」

 あ、当たったのか。あまりにそれっぽくて、嫉妬もあまり起きない。

「・・・、そ、そう」

「ここじゃないよ、前の家」

「ふうん」

 ええと、包丁はとりあえずあって、え、三角コーナーもないの?それから、うわ、排水口も掃除しなくちゃ。あとは鍋と、皿・・・。

「何だよ、訊きっぱなし?」

「え?あ、ああ。その、長かったの?その、彼女・・・」

「彼女じゃない」

「へ?」

「別に、告白されてないし」

「え、じゃあ、恋人でもないのに同棲してたの?」

 ああ、そんな、深入り厳禁なのに。

 黒井のそんな話、そもそも聞きたくないのに、まったく、振るんじゃなかった。

「知らないよ、向こうが勝手に来たんだからさ。夜中に、追い出すわけにも、いかなくて・・・」

 あ、何だろう、感傷的になってる?

 僕はものの分かる友人の仮面をかぶる。そんなこと黒井にはしたくないけど、そうしないと、三箇条が守れそうにないし。

 っていうか、そもそも、こうして僕が今黒井の家で、黒井に夕飯を作っているなんてこと自体、もうゴールみたいなものだから。ゴールテープを切ったら、あとは、お疲れ様、になってしまうから。少しくらいは手を抜いて、追い越されないと、不安で。

「まあ、お前がさ、うん。望んでないかもしれないけど、そういう、気にさせちゃうってとこ、あるからね」

 僕はキッチンから、タマネギを切りながら話しかける。黒井は、またベッドに上半身を伏せて、こちらは見ずに。

「何かそういうの昔、占い師にも言われたなあ。お前も、そう思う?」

「うん?ああ、そうね。まあ」

「何だろうね、勝手に勘違いするんだよね、みんな。だから俺、誤解されないようにさ、なるべく本音しか言わないことにしたんだ。お世辞も、見栄も、嘘も、なしで。そしたら、誤解のされようも、ないじゃん?」

「・・・そう、だったのか」

「でもさ、会社では、なかなかそうも、いかないしさ」

 支社長たちにぶちまけちゃった、くせにね。でも、それも、黒井としては相当我慢した末のことだったのか。

 それきり黒井は黙っていた。

 寝てしまったのかもしれないし、ただ、考えてるのかもしれない。

 ・・・したいこと、してるだけ。

 もしかしてそれはやりたい放題のわがままじゃなくて、黒井なりの、処世術だったのか。だとしたら、一体、掘り出したらどれだけの過去が出てくることやら。

 僕は、もしかしたら昔、その前の家で彼女じゃない女の子が買い揃えたかもしれない鍋とおたまで、リゾットを煮始めた。


 ・・・昨日ほど、うまくない。

 調味料をどれだけ組み合わせても、どうしても、味が違う。

 よほど、自分の家で作りなおして鍋持ってこようかと思ったが、もう仕方ない。ああ、女の子も大変だな。料理の腕を期待されても、練習しても、こんな彼氏のキッチンじゃあ、振るえる腕も振るえないよ。

 ・・・か、彼氏とか。

 う、うん。

 浮かれない。

 期待をしない。

 スマートに、帰る。

 よし。

 僕は、納得行かないもののとりあえず食べられる味にまで仕上げたリゾットと、サラダと、ジャガイモのふかしたやつを皿に盛って、小さなテーブルに並べた。すっかり寝てしまった黒井を起こす。

「おい、クロ。出来たから」

「・・・んん?」

 ベッドに突っ伏している背中をさする。僕はスーツだけど、こいつはすっかりスウェット姿。何か、こういうのも、こう、変な気持ちだ。

 背中が、温かかった。う、うん、これくらいは許されるだろう。

「・・・あれ、なんだっけ?」

「クロ。リゾット作ってやったんだよ。お前、よく寝てた」

「え、そうなの?」

 むくりと上半身を起こすと、とろんとした目でこちらを見る。そして、こちらに、腕を出して。

「お、おい。だ、だから、ええと」

 抱きついて、また、寝てしまう。いやいや、だめなんだってば。受け止めてしまう僕も、僕だけど。

 やや茶色がかった髪が、鼻をくすぐる。ぐんにゃりとして、温かい、黒犬。強く、抱きしめてしまいたい、けど。

 だめなんだよね。

 僕はその場で微笑んで、息を吸い込む。これで、幸せなんだ。

「ほら、ちょっと食ったらまた寝ていいから。起きれる?」

「・・・うん」

 酔ったときとは違う、小さな子どもみたいな黒井。目をこすりながら、何事かつぶやいている。小さな声で、「ねこー」と呼ぶ。

「ん?」

 僕はしゃがんで目を合わせる。友人兼お手伝いさん、兼保父さんだな。

「のど乾いた」

「うん。ちょっと待ってろ」

 冷蔵庫にあったウーロン茶をマグカップに注いで出してやると、子犬みたいに、少しずつ飲んだ。こんなの、見せられたら、野良犬だって、飼っちゃうよ。

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