第32話:美人受付の妹尾さん

 会社は、政府と同じで、いつも、後から微妙なやり方で僕たちを地味に締め付けてくるものだ。今までも何度かあったが、今回もやはりそうだった。

 社内メール。

<ノー残業デーの徹底について>

 何だか、モラルだのコンプライアンスだの綺麗な文書になってはいるが、要するに、水曜日はもう残業してくれるな、するならきっちり面倒な申請フォームに自分で入力しろ、っていうか、残業しないで帰れるように効率よく仕事しろ、ただし書き入れ時だから仕事量は増えるけどね。という内容だった。

 そういうことを、まるでいい事してるって顔で平気で「お達し」出せちゃう上の人間は、一体どういう神経をしてるんだろうといぶかしむが、今の僕にはもうどっちでもいいのだった。

 例の喧嘩騒動は蒸し返されていないようだし。

 それに、残業しようが早く帰ろうが、黒井がいれば、それでいいし。最近は電話というものを覚えてしまい、歯止めが利かなくなっているのだ。

 今は、隣の課でいることをしみじみと、ありがたく思った。だってもし一緒の課で、隣の席とかだったら、もうどうなっちゃうか分かったもんじゃない。あ、何だろう、いわゆるオフィスラブをしてる人って、こんな感じなんだろうか。前に見た浅田さんと鷹野も、課が離れてるから出来るのかもしれない。

 ・・・いや。

 オフィスラブって・・・。

 僕は一人で赤面して、男同士でよかったなあと思った。それってどうなんだ?というつっこみが入りつつも、そうでなきゃ、とっくに噂になって、破局しちゃうだろう、こんな、関係は・・・。

「ね、コーヒー。行こ」

 ただふらりと隣に立って、僕の方を見ることもなく、無造作に背中をつつく。

「え?ちょっと、印刷しちゃうから待って」

 僕も、見上げたりしないで、画面を見たまま。返事は一言、「ん」と。

 うちの課の鹿島が黒井に声を掛ける。

「おたくのとこの課長、今日どうしたの」

「ああ、大口のとこ行ってるんですよ、御自ら」

「へえ、年始から回るねえ、中山さんも」

「こないだの懇親会で、向こうのお偉いさんに気に入られちゃって」

「あの人?意外だねえ・・・」

 一部で土下座騒動も噂になったようだが、それで僕が復権した?こともあり、徐々に白い目で見られることもなくなった。正月休みをはさんだことも大きかったのだろう。結局、本人たちがギスギスしていなければ、周りもそんな雰囲気にはならないものだ。

 それに。

 騒動のおかげで、黒井と僕とが不自然な取り合わせだという、本来正しいその認識が、強制的に麻痺した面がある。「何だかひと悶着起こした二人」という変な枠組みでセット扱いされているようだ。一緒にいて普通に喋っていることに、むしろほっと胸をなで下ろしているのか、白い目ではない、見守る目で見られて、邪魔されないのが僕としては大変嬉しかった。

 だって普通、同期と二人で話していたら、大体誰か寄ってきちゃって、みんなで歓談して僕はそれとなくフェードアウト、って展開になっちゃうじゃないか。

 まあ、いつ豹変して殴りあうか冷や冷やして、敬遠してるのかもしれないけどさ。それだって全然構わない。いや、むしろそれを実行してもっと防衛線を張った方がいいだろうか?なんて。 

 黒井はたぶんそんなこと、思ってもないんだろうけど。

「俺さあ、少し大人になったかも」

 給茶機へ向かいながら、黒井が言う。

「前から大人だろ?」

「いや、そうじゃなくって。もう、何それ。変な意味?」

 い、いや。そうじゃないよ。っていうか、その意味では当然もう大人だよね。そりゃそうなんだけど、何だか、複雑。

「それスルーしていい?・・・で、何」

「うん、だからさ、コーヒー。まずいじゃん」

「まずいよ」

「前は別に、何も思わなかったんだよね。こんなもんだろうって。でも、こう、違いの分かる人?」

「旨いコーヒーでも飲んだ?」

「いや、飲まないけど」

「あ、そう」

 給茶機につくと、黒井は懲りずにまずいコーヒーのボタンを押した。紙コップを僕の分も取って、抽出を待つ。

 こうして、無言で、熱い液体が注がれる音を聞いていたり。

 黒井がしゃがむ時、ズボンの膝のところをちょっと上げる仕草だとか。

 汲んだコーヒーを先に僕に渡してくれたりとかは絶対なくて、自分のはさっさと飲み始めて、まずいと舌を出したりとか。

 好き、なんだよなあ。

 思わず目を逸らす。

「出来てるよ」

「・・・ああ」

 僕は自分の分を取って、クリープの粉をどかどか入れた。

「うわ、それそんな入れちゃうの?」

「うん。別に、何入れてもまずいしね」

「じゃあ、俺もそうする」

 そうやってわけの分からない液体を製造していると、給茶機の向こう側の扉が開いて、支社の女の子とはちょっと違う制服の女性が現れた。向こう側はセミナールームと応接エリアになっていて、そことオフィスの中間の部屋に給茶機があるわけだ。

「あ、いいとこに。はっけーん。悪いんだけど、ふたり、ちょっと手伝って!」

 妹尾さんだった。

 妹尾はいわゆる会社の受付の女性で、外向きの制服で来客の相手をしている。美人なのだが、受付は美人という暗黙の認識のせいで、それを当然と思われている節がある。どうやら派遣のようだが、長く勤めているし、どこの課にも属さないこともあって、彼女は「受付の妹尾さん」という独立した存在だった。だから、僕たちでなくても、課長や支社長にさえも、語尾を「~して下さいな」に変えるだけで何でも言えてしまうすごい女性だ。

「お客様15名分、コーヒーの準備なんだけど」

「いいっすよ。15個、注げばいいの?」

 黒井が気安く請け負う。うう、こういうの、やっぱり女の子にモテるんだろうな。

「7個と8個でお盆に載せてね。お盆は・・・」

 妹尾が上の棚に手を上げて背伸びする。そこを、後ろから黒井が軽々と取ってやった。

「お、さっすがあ!惚れちゃうね」

「え?別に。届くから」

「むむ、ご謙遜?」

「うん?」

 後ろにいる僕の方が惚れちゃってるわけだけど、黒井は美人のヨイショには鈍いみたいだった。僕だったら、そんなこと言われたら絶対うまく乗せられて、十も二十も余分な手伝いをさせられているだろう。

「あ、じゃあ、お砂糖とミルクのカゴも、お願い出来る?」

 せっせと紙コップをセットする黒井の横で、今度は僕が呼ばれる。

 あそこあそこ、と指をさして。美人の笑顔には逆らえない。

 棚のガラスの引き戸を開けると、小さなカゴに砂糖とミルクがすでにセットされていた。二つ取って、それぞれお盆に載せる。ついでに、隣にあったマドラーとナプキンも添えた。

「お、出来るじゃん。その調子。はい、じゃあ君、私と一緒に来よっか」

「え、僕ですか?」

「ほら、冷めるから。私と同じことすればいいからね。笑顔、笑顔!」

「は、はあ・・・」

 大体こういうとき僕は呼ばれないお約束なのだが、どうしてこうなったんだろう。ウエイターなんて、やったことないのに。


「どうも、むさ苦しくてすみません」

「そんなことないわよ。いいじゃない、うちの男連中なんて、絶対やってくれないんだから。ねえ?」

 応接スペースにいたのは、15人のおばちゃんたちだった。たぶん、経理や庶務の面々で、うちの主催するセミナーに訪れたのだろう。

 おばちゃんの発言に妹尾が笑顔で返す。

「ですよねえ?普通、そうだと思いますよ。彼はね、うちでも稀な人材」

「いいわねえ」

「でも、おだてたらね、おじさんも、案外やってくれますよお?」

「そりゃ、あなたみたいに若い子だったら、いいけどねえ。あたしなんか、もう介護保険払うような年よ」

「ええ!?本当ですか!見えない~!美魔女ですよ美魔女。ねえ?」

「やっだ、美魔女だなんて・・・ほら、男の子が困ってるじゃない」

「いえ、そんな。うちには美魔女、いないんで。お目にかかれて・・・」

「やあね!もう!」

「何、あなた、満更でもない顔しちゃって」

「そんなことないって!・・・あ、そうそう、そういえばね・・・」

 ・・・。

 う、うるさい・・・。

 僕は「ごゆっくりどうぞ」と一礼し、妹尾に「もういいよね?」と目配せして、盆を持って下がった。妹尾がチラッと、指でオッケーマークを作ったのが見えた。うん、やっぱり、美人はいいな。


 給茶機のところで、黒井が暇そうに待っていた。待ってて、くれたんだ。あ、まあ、ヘルプ要員として、気を利かせて待機してたんだろうけど。

「何が、お目にかかれて、だ」

 いきなり口をとがらせる。

「いや、あれは・・・」

「ばーか」

「な、何だよ、妬いてんの?」

 うっ、何、馬鹿なことを。

「な、何で俺が妬かなきゃなんないんだよ!」

「お、仰るとおりで」

「何で思ってもないことぺらぺら出てくんだお前は」

「あ」

 もしかして。

 妹尾の人選は、それかもしれない。黒井が歯の浮くようなお世辞が言えるタイプではないと見抜いたのだろうか。さすが、毎日様々な来客に接しているだけある。

「ほら、俺、演技に身が入っちゃうから。演じる役が自分と違うほど、燃えるんだ」

「へえ」

 黒井はそっけなく言って、肩をすくめた。何か、気に食わなかったらしい。

 結局冷めてしまったクリープコーヒーを流しに捨て、しかし新しくもう一杯注ぐ気にもならず、フロアへ戻った。

「お前、何怒ってんの。妹尾さんに指名されなかったから?」

「違う」

 やっぱり、怒ってるのか。

「妹尾さんに指名された俺が、案外うまくやったから?」

「何だそれ」

「じゃ、俺がお世辞言ったからって、怒ってんの?」

「さあ。そういえば、・・・何でだろうね」

「しっかりしてくれ」

「よく分かんない。コーヒー飲み損ねたからじゃない?」

「あ、それか。・・・って、本当に?」

「知らない。ねこ、昨日のやつ、買って来て」

「昨日のって?ファイア微糖?」

「それ。早く」

「あーもう、人使いが荒いんだから。はいはい」

 僕はそのまま外に出て、一階の自販機まで走った。まったく、黒犬の機嫌を取るのも大変なんだ。これだから、またパシリに降格したとか、言われちゃうんだきっと?

 ・・・でも。

 あの、「ばーか」は。

 おばちゃん相手に何言っちゃってんだ?っていう、からかいの色はなくて。

 僕がうっかり「妬いてんの」と口走っちゃうくらいの、雰囲気があって。

 いや、そんなはずも、ないけど。

 確かめる術などない。黒井が「よく分かんない」と言っている以上、たぶん、仮にもし「そう」だとしても、本人にその気はないわけで。

 いや、いいんだ。

 か細い糸でも、もしかして、っていう希望さえ持てれば、僕はそれだけでこの世の天国なんだ。僕はまた缶コーヒー二本をポケットに入れ、黒犬に届けるべく、エレベーターを往復した。

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