第31話:勝手に恋人気分の幸せ

 その日は、何だかわくわくしてしまって、すぐに帰ることにした。

 年始第一日目はさすがに残業ムードではなく、18時を回るとみな帰り支度を始めた。四課も道重課長の「そろそろ上がろうか」の一言で早々に腰を上げ、仕事を切り上げた。

「はい、今年も宜しくお願いしますね。じゃ、お疲れさん」

「お願いしまーす」

「お疲れさまでーす」

 ドキドキしながらちらりと三課の方を見る。黒井は隣の秋山とPC画面を見ていたが、僕に気づき、ちょっと残念そうに片目を閉じ、「じゃ」と無言で手を上げた。僕も「しゃあない」という顔でうなずき、その一、二秒のやりとりで胸を熱くして、フロアを出た。

 何となく一緒にエレベーターに乗った四課の面々と、正月どうだったかなどの世間話を軽く交わしつつ、僕はさっきの「しゃあない」について考えた。

 僕としては「一緒に帰りたかったんだけど、仕方ない」って、意味だったんだけど。

 向こうはただ単に、「先に上がれて羨ましいな」っていうだけだった、かもしれない。

 っていうか、別に、朝も昼も帰りも一緒って、普通ないし。特に何か約束してたわけでもないし。

 熱くなった胸が急激に冷めていったが、それでも種火は残っていて、熱が消えはしなかった。だって、僕が声を掛けもしないのに、一瞬ですぐ気づいて、わざわざ顔を上げたんだ。ああ、やっぱりだめ。また温度は急上昇。マフラーをしなくても歩けてしまうくらい。

 ・・・あれ、マフラー?

 そういえば、コートは返してもらったが、マフラーはまだだ。あのカシミア。黒井が自分でしていた?いや、今日はあいつもしていなかった。どっちにしろ、僕はひとつしかマフラーを持っていなかったのだから、返してもらわなくちゃ。

 僕は今夜メールする大義名分を得て、ほとんどスキップでもしそうな勢いで、京王線に向かった。


 仕事から帰って、20時前に家にいるのは久しぶりだった。せっかくだから、何かまともな夕飯でも作ってみるか。

 とはいえ、あのアリジゴクの間ろくなものを食べておらず、そこから急に今日マックを食べたせいで腹が痛くなったので、やっぱりおかゆ的な何か。トマトチーズリゾットとか、どうだろう?

 そうはいってもトマトもトマト缶もチーズもない(チー鱈しかない)わけで、近所のスーパーまで出向くことにした。

 鼻歌交じりに歩いていると、ジャンバーのポケットに、メール着信。

 黒井から、<やっとうちついた>と。

 もう、ニヤけをこえて、道ばたで笑ってしまう。何だよ、これ。もう、恋人ってことで、よかないか?

 何と返信したものか悩んでいると、スーパーに着いてしまった。カゴを持って、用もないのにカートまで押して、傍迷惑な歩きメールに専念する。

<お帰り。今日は、トマトチーズリゾット作るぜ>

 よし、送信。長すぎず、短すぎず。

 ・・・自分でも、<お帰り>は目を背けたくなる。何て恥ずかしいんだ。

 そしたら、一分もせず返信。

<それ今から俺んちで作れ?>

 ・・・。

 やだな、もう、心臓が痛い。救心か養命酒でも飲もうかな。

 僕はいったん携帯をしまい、トマト缶コーナーへ向かう。もう、別のことをしないと、この場で倒れて床で寝ころんで笑いながら泣きそう。

「トマト、トマト・・・あ、これだ。カットと、ホール・・・うん、カットだよね・・・」

 わざと独り言。そうそう、倒れてないで作るもの作らなきゃ、黒井だって呼んでくれないぞ?

「あとは、チーズか。それから・・・コーン?違うな。にんじんと、タマネギか?豆?」

 理想とするトマトチーズリゾットの具を想像する。今日くらいはまともで栄養のあるものを食べようかという僕のささやかなプランは、すでに黒井に振る舞うディナーへと切り替わって、ついには雑誌コーナーのレシピ本にまで僕の足を向かわせたのだった。


 レシピを暗記したおかげで、僕にしては大層まともなものが出来た。鍋で二日分作ってぐつぐつ煮ていると、ついに着信。そうだ、結局返信してなかった。

「おーい、まだ着かないの?」

「へっ、何が」

「お前が」

「・・・っ、い、いや、まあ、すまん、うちで作った」

 だめだなあ。もう、ジョークすら言えてない。

「何だよずるいじゃん。俺さ、自分で作れないから」

「自炊しないの?」

「全然。炊飯器で米炊くのが精一杯」

「そんだけかよ。冷蔵庫、何入ってんの」

「えー、マヨネーズとか、瓶詰めの海苔とか、ハムとか」

「じゃあ俺、行っても作れなかったよ。だってさ、結構調味料とか、野菜とか、いろいろ使ったし」

「そうなの?全部買ってきてくれていいんだけど」

「お、俺お手伝いさんじゃないんだからさ」

 ま、お手伝いさん、やってもいいけどね。

「何だお前料理とかすんのかー。いいなー出来て。俺が作るとさ、まずいか、焦げるか、どっちか」

「お前部屋も汚いし、どうしてそう、出来そうな顔してるのになあ」

「うん、そうみたい」

「何だそれ。でもまあ、別に俺だって料理できるってほどじゃないけどさ。これが食いたい、ってもんがあれば、それをこしらえてみようか、って気持ちには、なるね」

「そっかなあ。でも、そろそろ、弁当とかさ、何か、もたれるっつーか。年だね」

 進んでマックを食いに行ったくせに。

「そうかあ?・・・あ、そっか、お前、年上の黒犬様だったな」

「年下の山猫くん」

「はいはい」

「変な感じ。年下っつっても、お前、全然感じない」

「そ、そりゃ、そんなの聞いたのこないだだし」

 <感じない>って言われてるのに、語感で何だかどぎまぎするのは何でだろうね。

 鍋の火を止める。こんなこと話してたら、僕が焦がすよ。

「何だよ、年上扱いしてほしい?」

「え、やめてよ気持ち悪い。今日だって、俺に土下座させた山根くんじゃん」

「な、あれは、お前自分で・・・」

「まあね」

 僕はキッチンから移動して、クッションに座り壁に背をもたれた。こんな、何でもない長話、三日もしちゃって。嬉しいけど、ちょっと、不安にもなる。こんな幸せ、いつまで続くかな。

「・・・お前、じゃあ、今日何食べてんの」

「え?米と、買ってきたコロッケ」

「そんだけ?」

「そんだけ」

「もっとさ、サラダくらい作れば」

「俺ね、包丁使うのも下手なんだ」

「トマトくらい切れるだろ」

「だめだめ。何か、べちゃっとしちゃって」

「切り方が悪いんだよ」

「だから下手って言ってんじゃん!」

「しょうがねえな。そういうのはさ、コツがあるんだよ」

「そうなの?」

「うん。そしたら今度、・・・教えてやるからさ」

 僕は今日一番の勇気を奮った。自分から誘ったり、提案するのは苦手なのだ。

「そう?」

 しかし黒井の反応は素っ気なく、早々に撃沈した。かのように、見えたけど。

「教えてくんなくても、作ってくれればいいって。持ってきてよ」

 おいおい。

 会社に愛妻弁当持って行くの俺?なんつって。

「だ、だめだめ。ちゃんと自分で出来るようにならなきゃ、俺、心配だよ黒犬先輩?」

「心配とかしてくれんの」

「そりゃ、するよ。昼はマックで、夜は総菜のコロッケじゃ、体壊すって」

「ふうむ。あ、そうだ。じゃあさ、お前ブログ作ってよ。山猫クッキングブログ。んでさ、俺、一日遅れでそれ挑戦する」

「なっ・・・何だそれ。で、黒犬ブログは失敗記録?楽しみだな」

「し、失礼な。じゃあもうさ、一緒に住んじゃって、ルームシェアして、お前が炊事担当なの。俺、ゴミ捨て係」

「お、お前ね、じ、自分でちゃんと、う・・・」

「ど、どうした?」

「お、お腹痛い」

「何だよ、まともな料理食べたんでしょ?」

「む・・・ちょっと、いろいろ、無理だよ。これ以上は、げ、限界だ」

「ね、ねこ、どうしたの?」

「とにかく、今日の全エネルギーは使い果たしたんだ。クロくん、ぜひ今度まともな料理を振る舞わせてくれ。それじゃ」

「え?何、他の電話でも入った?」

「違う違う。ただ、腹が痛くてめまいがするだけだ。まだ味見だけで食ってないんだよ。そういうわけで、また明日」

「そ、そうなの?じゃあ、おやすみ・・・」

「おやすみ」


 僕は断腸の思いで電話を切った。これ以上話したら、何を言ってしまったことか。

 ・・・一緒に住んじゃって・・・とか。

 住んじゃって・・・

 一緒に、住んじゃって・・・!!!

 それってプロポーズ?違うって!!

 僕は一人噎せながら、美味しいはずのリゾットを味も分からず掻き込んだ。

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