第30話:僕が黒井を好きな理由

 とりあえず黒井は無事に留守電を消去し、僕は保護したメールを見られることなく携帯を取り返して、和平に至った。どちらからともなく停戦の握手。まったく、こんなところにこんな落とし穴があるなんて。いろいろ気をつけてきたつもりだったけど、もっと気を引き締めなきゃな。

 返ってきた携帯を見ると、始業五分前。

「おい急げ!」

「えっ」

 黒井の腕をつかんで、エレベーターホールへ走る。その感触で「あの感覚」が訪れるけど、その浮遊感を走る勢いに変換して、おざなりな門松を横切った。


 こうしてまた、毎日ただ会社に通うという日々が始まった。

 慌しく駆け込んだせいで、例の騒動の余韻を感じる暇さえなく、何かを知ってしまったらしい課長の視線も受け流して。

 だって、やっぱり黒井のことが好きで、それでキスしたんだし、だから嘘もついたんだし、それなら僕に恥じることなど何もないんだ。会社や世間が勝手に何を騒いだって、知るもんか。僕は据わった腹で一息ついて、黒井とお揃いの微糖コーヒーを開け、2014年の初仕事を開始した。

 後ろを向くと、黒井も冷えた缶を僅か持ち上げ、乾杯。

 僕は颯爽と前に向き直りながら、カッコをつけて、後ろ手に、乾杯!



・・・・・・・・・



「で、何なの、その土下座したとか」

「朝ちょっと早く着いたんだけどね、いや、ほんと、ええっ?って感じだったんだけど、黒井さんが、土下座して謝ってたの」

「え、例の、山根くん?」

「そうそう」

「ちょ、土下座ってさ。どこで?」

「だから、会社の前だって。ビルの前」

「そんなとこで?」

「そう。勘弁してください!って」

「ついに山根くんブチギレってこと?」

「そうそう、山根くんが、何か、卑怯だとか、脅すような真似はやめろとか、弱みを握ってどうのとか、そんなこと怒鳴り散らして、とうとう黒井さん土下座したって感じ」

「ええ?なにそれー。脅されてたってこと?」

「びっくりしたよ、山根くんの剣幕。それが人にものを頼む態度か?とか言って、すごい冷たくて怖かったし」

「な、何があった山根くん」

「ホントだよ、しかも何で、朝っぱらから公衆の面前で」

「え、それってもしかして、狙ってやってたとかないよね。遠回しにさ、そういう、力関係っていうの?みんなにも見せつけとこう的な」

「サル山のサルかっつーの」

「でもどっちにしろさ、山根くん、ほら、ちょっと変わってるっていうか、あんま喋ったこともないけどさ、でも別に、黙っていじめられてるとかじゃなくて、まあそういう人間だったってことよね」

「え、どういう?」

「だから、山根くんも、黒井さんも、そういう喧嘩とかさ、土下座とか、そういうことしちゃうような」

「あーそれは、あるね。何だろうね、不良上がりとか?」

「そうなのかね。別にさ、鈴木くんとかなら、まあ体育会系でちょっと怖いとこもあるけど、別に大丈夫じゃん。あの人ちゃんとまともだし。でも、この二人は何か、裏表があるっていうか?」

「ああ、それあるね。黒井さんは爽やかな人で、山根くんは何か、孤高の人って感じ、もう崩れたもんね」

「ねー。本当はどういう人なのか、分かったもんじゃないよね。・・・あ!お疲れさまでーす!」

「あ!あけおめ!」

「え?ううん、今ちょうど、その新しい髪可愛いねって話してたとこなの!・・・」



・・・・・・・・・・・・



 黒井が声を殺して肩で笑っている。まさかまたもや出くわすとは。当事者二人が後ろの席で笑っているとも気づかずに。

「・・・っ!!」

 黒井が僕の手や膝を叩いて、涙すら流していた。自分のコーラをさっさと空けて、僕のオレンジジュースを勝手に飲んでしまう。まだ、残ってるみたいだけど。僕はその赤と黄色のストライプのストローの、その飲み口を見るともなく眺め、飲もうか飲むまいか逡巡し、噂話とは別に赤面した。

 黒井の手癖は悪く、僕のトレイからポテトを遠慮なしに持っていってしまう。食べるか笑うかどっちかにしろってんだ。

 ついにこらえられなくなりそうな黒井に「しいい!」と再び人差し指をたてると、今度はスーツの内ポケットから上等そうなボールペンがするっと出てきて、ナプキンに無造作に書き付ける。こういうアイテム、どっから入手してるんだ?

<やまねくんが怖かったって!!!おれも怖かったよおおおお!>

 まったく、黒井だけを悪者にするのは申し訳ないと本気で思っていたわけだが、こうして自分が何だかわけの分からない総長みたいになってしまうと、複雑な気分だった。

 今度は、嘘もないし、大幅な勘違いもない。僕が怒ってわめいて、黒井を土下座まで追い込んだのは事実だ。確かにそれはそうなのだが、下地となる虚構の構図があったからか、なくてもなおそうだったのか、ともかく僕たちにはどうにもバイオレンスな匂いがまとわりついてしまうらしい。

 中身は小学生のじゃれあいなんだけど、大の大人が本気でやると、こうなってしまうんだろうか。

 もちろん、同期の男どもだって、たまには「この野郎」だの「てめ、ふざけんな!」だのとじゃれあっていると思うのだが、特に僕はこういう時やたら感情がこもってしまい、しかもいつもとギャップがあるもんだから、こういう認識になってしまうのだろう。

 もうちょっと、ヘラヘラ笑いながらやれば、いいんだろうけど。

 どうも最近、この手の感情が抑えられない、というより、溢れ出るそれが解放感を伴って、新鮮な境地なのだった。

 自分がちょっと、自分じゃないみたい。

 思いっきり大きい声を出すのも気持ちがいい。新たな快感に、目覚めた?

 急に、頭が上からぐいと押さえつけられた。頭を下げれば、一人席の囲いで見えなくなる。例の女の子たちが立ち上がって、トレイを片づけ去っていった。そして、僕たちは遠慮なくげらげらと笑った。


 午後は課内のミーティングと、年明け一番の打ち合わせ準備、資料の用意などで過ぎていった。

 ふと、ぼうっとしたときには、黒井のことを考えている自分がいた。まあ、恋の病というやつなのだ。しかし、交わした会話や、どこを触られたかなんてニヤけた後は、大体同じところにたどり着いた。

 つまり。

 僕はどれくらい、あいつの<特別>なんだろう。

 もちろん社内ではここ最近ちょっとした有名人であり、黒井とともに名が挙がる相手なわけだけど、そんなことは黒井の本心とは関係ないわけで。

 今のところ、僕ほどに黒井と交流を持っている同僚はいないように見えるけど、本当のところは分からない。ラインだのフェイスブックだの、どこでどう繋がりがあるか分からないし、言わないだけで、休日会っていないとも限らないのだ。

 いや、同僚だけじゃない。他の何かの繋がりの友達だって、今時年賀状を寄越さないからって関係が終わっているわけではないだろうし、たとえ本人にその気がなくても、何人の彼女予備群がいるのか分かったものではない。

 たかだか、隣の課の同期で、忘年会とクリスマスにちょっと親しくなり、スリリングなイベントをいくつか共有したからといって、それが何だと言われれば、まあそれまでなのだ。

 考えてみれば、あいつの趣味ひとつ、知らないのだった。好みのコーヒーも、音楽も、タバコを吸うのかどうかさえ、知らないままだ。演劇部だったとか、帰国子女とか年上だとか、断片的な情報はあるけれども、だからって、それはそれだけなのだ。

 そう考えると、一体僕は、黒井のどこが好きなんだろう?

 ・・・うむ。

 なぜ男を好きになってしまったかについては散々理屈をこねたけど。

 黒井のどこがどう好きなのか、という視点は、抜けていたのだ。

 確かに、話していて楽しい。

 今朝みたいなじゃれあいも、面白い。

 でも僕は元々そういう明るい付き合いを好む方じゃないし、行動派よりは思索派だから、たぶん性格が合っているわけではないのだ。

 鈴木や他のアウトドア派は、みんなでスノボに行ったとか言っていたが、僕と黒井にそんな共通点はないし。スポーツ、音楽、飲み会、合コン、旅行、地元友達、マンガやゲームやコンピュータ・・・考え付く限り、社会人がプライベートで仲良くなるような要素など、何も出てこなかった。

 消去法でいくと、とどのつまり、黒井から接近してきて、僕に頻繁に声をかけてきたから、というだけなのだった。声をかけられたら、男でもついていっちゃうのか僕は?その辺りは、例のみーちゃんのことを勘案すると、必ずしも男には全て拒否反応というわけでもないようで、ちょっと空恐ろしくなる。

 いや、この際、男女はたぶん関係ない。

 だから、以前考えた、黒井が女の子の代わりというのもやっぱり消える。

 と、なると。

 接触頻度。

 向こうからの誘い。

 刺激。

 変化。

 ・・・期待しちゃいたくなる、好意。

 たぶんこのあたりなのだ。これが続くと、男だろうが女だろうが、性格や顔に関係なく、僕は動いてしまうのだろう。

 もしそうだとすると、条件のうちいくつかが欠けると、この気持ちも消えていく、ということになる。

 ・・・どうだろう。

 そうなのかもしれない。

 でも、そうじゃない、気もする。

 似たようなことを何度か考えた気もするけど、結局ここで止まるのだ。

 どうも、僕の中で、「気持ち」というステージに黒井へのそれが乗っていなくて、どこか、浮いた感じがある。地面のどこを探してもないのに、突如現れる、飛行船とか、あるいはロケットみたいな。だからいつも、ステージ上には影しかなくて、輪郭はつかめるし、それが上空にあることは確かだが、直接見ることも触ることもできず、立体がつかめない。

 ・・・ああ。

 そうか。

 本当に、僕にも、分からないんだ。

 確かにそれは僕の中の気持ちなのに、僕すら、立体そのものを拝んだことがないのだ。僕にも分からない僕のそれに、僕は驚き、戸惑い、感情が跳ねる。

 ああ、「あの感覚」。

 ひゅっと腹が透ける感じ。自分がどうなっちゃうかわからない、どこかへ落っこちる、眠る直前の痙攣のような。

 それをもたらすのが、黒井で。

 そして、それについて、僕は、たぶん嬉しいのだ。それが他ならぬ黒井であったことが。

 今、急に、小さい頃大事にしていた石を思い出した。魔法使いとかに憧れて、近所で一生懸命さがした、青い石。どこかの駐車場の隅で、近所の子と一緒に掘り出してきた。ただの石ころに、ほんの僅か水色がかってつやがあっただけだけど、僕にとってその時は、魔法のアイテムであり、力の源泉であり、宝物だった。それは、特別なものだった。自分の力で見つけて、掘り出した、それでいて、天が僕に与え、運命と定めた、魔法の石。夜、ベッドの小さな明かりをつけて、よく眺めていたっけ。ああ、昔から僕は、ベッドに何か持ち込むのが好きだったんだな。うん、あの石は、どうしたんだっけ。

 でもとにかく、僕にとってその石は、他のどんなおもちゃとも違う、本物の魔法のアイテムだった。特別、だったのだ。理由なんかないし、証拠もない。たとえば星形が刻まれているわけでもないし、子供心にも、何の変哲もない石だった。でも僕は、その石が物理的には普通の石だということは分かっていてなお、僕に与えられた特別の物質だと信じて、いや、感じていた。

 そうか。

 だから、黒井の性格とか過去も、何の関係もないんだ。僕にとって特別だと感じたから、特別なんだ。魔法の石を握りしめて感じた力と興奮が、今は不埒な妄想もどんどん混ざるけれども、基本的には同じ、僕に何かを与える源泉なんだ。

 黒井という人間、そのものだ。

 何歳とか、何大卒とか、全然関係ない。いやむしろ、人間というより、存在というか、魂に近いかもしれない。石の表面や組成なんか関係なくて、その石が存在して、今自分の手の中にあるというそれが、現在進行形の奇跡で、僕は嬉しかったのだ。

 あれ。

 おかしいな。

 僕は、黒井にとって僕がどれくらい<特別>なのかが気になっていたのに。

 いつのまにか、僕にとって黒井がどれくらい<特別>か、ということを探り当てていて。

 へえ、と、思った。そうだったのか。

 黒井にとって僕が一体、特別なのか、そうだとしたらどんな特別なのか、それはまだ分からないけど。でも今は、僕にとってどうして黒井が特別なのか、分かりはしないけど感じることは出来て。

 まあ、黒井は石じゃないから、簡単に手から転がり落ちるし、跳ね回って、遠くへ行っちゃうかもしれないけど。

 それでも、今はそれを追うのも、嬉しくて。

 ああ、なんだ、やっぱり男とか女とか何の関係もない。

 僕が、自分の人生で、確かに出会って、そして、関わっていて、それは石ころでもない、ましてや僕の夢でも妄想でもない、本物の一人の人間で。

 触ることが出来る。

 これ以上素敵なことって、あるんだろうか?

 僕は長らく止まっていた腕を急に動かし、資料とパンフレットと印刷物を顧客別に仕分ける作業に戻った。「うんうん、そうだ!」と知らず声に出していて、島の何人かが怪訝そうにこちらを見たが、気にしていられなかった。

 僕は今、この現実を生きていること、それを噛みしめているんだ!

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