第38話:コントロール不能な僕の脳内にいる僕

 目が覚めると、真っ暗だった。

 暖かいけど、寒い。

 手を少し動かしたら、誰かの手がついてきた。

 ・・・また、幻覚?

 そうかも、しれない。

 温かい手。誰なんだろう。

 何か、言ってる?

 う、ん。

 あれ。俺って、誰だっけ?


「ねこ、気づいた?」

「あ・・・クロ、だ」

「良かった。ちゃんと、ねこだ」

「俺、なに、して」

「いいから。今は、寝よ?大丈夫だから」

 ここは、どこなんだろう。黒井のうち?あいつの、ベッド?分からない。とにかく隣に黒井がいて、僕の手を握って、ほとんど、寄り添って。背中に、服の、触感が・・・。

 背中?

「あ、れ」

 太ももをこすりあわせる。肌、だ。

「えっ」

 慌てて手をふりほどき、身体に触る。な、何も、着てない。何一つ、着ないまま、布団に!

「うわわ、お、俺、何!何しちゃった!く、クロ、俺・・・もしかして、何か、しちゃった・・・?」

「お、落ちつけって。べ、別に、何も・・・」

「な、何で言わないの?え、言えないようなこと?しちゃったの?」

「ちょっと・・・」

「だ、だって何で俺、何も着てないの?は、裸で、何、してんの・・・」

「ごめん、着せれなくて・・・でも、とにかく布団入らなきゃ、風邪引いちゃうって・・・」

「ん?なに、が、あった、んだ?」

「ふ、風呂。のぼせて」

「え?俺が?風呂に入ったの?どこの風呂?っていうか、ここどこなの?」

「自分ちだよ、ほら、自分の布団!ねこのだよ」

「ここ、俺んちなの?何で、お前、俺の、布団・・・!」

「ちょっと、どっから覚えてないの?いや、もう、いいじゃん。夜中だしさ、もう寝ようよ」

「寝れるかい!何で俺が裸で、お前が急に俺の布団にいて、お、お前、俺を・・・」

「ど、どうもしてないよ!」

「そうかな。そうなのかな。何で俺、覚えてないの?っていうか、服着たいよ。寒いよ。でも」

 こらえきれないよ。

 黒井に、抱きついてしまった。

「あの、何だ、ちょっと、だけ」

 もう、下半身とか、知らない。

「び、びっくり、したからだ」

 言い訳して、しがみつく。でも、でも、いいよね。だってこんな状況で、ただの同僚ですなんて顔、しないよね?いや、出来ないでしょ?そうだよね?


 しばらくして、何となく、電車で黒井の終電がなくなりそうで、ってところを思い出して、ちらりと何かに行き当たり、僕は慌てて布団を飛び出した。さ、寒い。何かを踏んづける。着替え?とにかくひっつかんで脱衣所へ駆け込んだ。

 電気はつけないまま。

 手探りで、パンツを履いて、シャツを着て。ああ、少しずつ、落ち着く。トレーナーを着て。トイレに行って。

 ・・・いつもの、うちだ。

 あっちには、黒井がいる、みたいだけど。

 俺は、どうしたんだ?

 よく分からない。全てが霧に包まれて、よく分からない。

 黒井の言うとおり、今日のところは寝てしまった方がいいのかもしれない。たぶん金曜日だったんだから、少なくとも明日は休みなんだ。だったら、とにかく寝てしまおう。

 黒井が横にいても?・・・いても、だよ。布団はひとつっきゃないんだ。でも、さっき、他にも誰かいたよね。何か、女の人・・・。黒井が連れ込んだ?嫌だな、誰だったんだろう・・・。


「ちょっと、落ち着いた」

 部屋に戻ると、普段あまりつけないランプがついていた。さっき自分でつけた、記憶というか、映像というか、そういうものはあるけれども、それが何なのかはよく分からない。

 他にも、グラスだの、酒の瓶だの、出した覚えも、見覚えもある。コンビニのビニール袋に、ゴミを入れたりも、した。

 でもそれは、まるで、ホームムービーのような。切り取られたひとコマ。

 今夜の出来事であろう全ては、そんな感じで僕の中に記録されていた。

 ゆっくり思い出せば、確かに、思い出せる。音声はあまりついてないけれども、夜道を歩いたり、果実酒を注いだり、風呂をためたり。あ、やっぱり自分で風呂を沸かしたんだな。でもそれは、ミュージックビデオだとか、カラオケの背景映像のような、ただの映像であって。それ以上の何も付随してはいなかった。

「取り乱して、その」

「いいって。ちゃんと着せなくて、こっちこそ。でもさ、倒れてる人に服着せるの、あれ無理だよ。だから、湯冷めしちゃうし、さっさと布団入れちゃおうって・・・」

「・・・そうだったのか。うん。変なこと言って、ごめん」

「びっくりしたよ、ほんと。でもさ、べ、別に、男同士で裸見たくらいで、そんな、どうってこと・・・」

「そ、そうだよな。今考えれば、確かにそうだ。ちょっと混乱してたな。・・・何だ。誰か女の人がいなかったか?それで動揺して・・・いや、うん?そんなはず、ないか。誰も、来てないよな」

「・・・来ては、ないけど」

「ああ、夢か。そうだ。忘れてくれ」

「え、と・・・うん」

「とにかく、クロ、せっかく来たのに、済まなかった。夜中にぎゃあぎゃあ、女々しくわめいたりして」

「べ、別に、謝ること、なんか」

「そっか。うん、そんならいい。俺、皿洗ってから寝るからさ。お前、先に寝てて」

「・・・うん」

 僕はランプを消して、手探りで部屋を出て、ひもを引いてキッチンの電気をつけた。

 こうして見ると、いつもの、キッチン。

 流しには、見慣れないグラスがふたつ。取り皿がいくつか。コンビニのサラダや総菜のプラスチックカップ。グラスは、確か、奥にしまってあった引き出物で、引っ張りだした記憶はあった。箱が横に置いてある。

 まだ立ちくらみがするのか、たまに、見える映像が一時停止して、ぐにゃりと歪む気がした。一瞬で戻るけども、次の瞬間にも、また。

 グラスを洗おうとしたけれども、結局、その場でしゃがみ込んだ。世界が回る。どれが現実なのか、よく分からない。隣に黒井がいるのかも、もう自信がなかった。そんな人、いるわけない。もうきっと、消えてる。僕はいつものように、一人で、どこまでもきっと、ひとり、で・・・。



・・・・・・・・・・



「おい、ここ、一体どこなんだよ。何て駅で降りたんだ、覚えてないよ俺。なあ、どうしてお前んちの住所すら知らないんだよ俺は!」

 後ろで黒井が、一人でわめいている。またデータの保存が出来ないのか?だから、アダプタの出っ張りだってば。

「・・・っ、もう、何なんだ。病院とか、何科とか分かんないだろ。そんなに酒飲んだわけでもないし、こないだの急性なんとかとは違うだろきっと?もう、どうすりゃいいんだよ・・・!」

 後ろ手に僕の足のあたりの布団をどんどんと叩く。埃がするから、やめてくれよ。

「なあ、ここでいい?この、大学病院とかいうとこでいい?タクシー?それとも救急車呼ぶ?ねえ、もう、こ、たえ、て、よっ!!!」

「・・・っさい、なあ」

「え?」

「うる、さい・・・」

「あっ!起きた!」

 焦って半泣きになった黒井は、もうキレそうなのを僅かな理性で抑えていた。

「起きたの?俺のこと分かる?生きてるの?」

「・・・静かに、してくれ」

「出来るか!」

「っ・・・、あ、頭に、響く」

「・・・、ご、めん」

 頭の中から圧力がかかってるみたいに、脳味噌が膨張収縮の渦で、そろそろ爆発しそうだ。

 何が、あったのか。

 目ん玉が、潰れそうに痛い。世界はまだぐるぐると回っているが、今度は、意識はちゃんとあった。ぶ厚い幕に覆われているが、僕はここにいる。

 ・・・一体、何があったのか。

 金曜日の夜の、残業だったはずだ。そういう、時間軸だった、はずだ。

 黒井と一緒に帰れて、浮かれていた。そうだ、たぶん、心拍数がメトロノームみたいになって、救心を飲んでいないし、不整脈が出たんだ。そうに違いない。振り切れてしまったんだ。

 ツケが、回って。

 だって、うちに、泊まるだなんて。

 正月明けてまだ十日で、何回、言葉を交わした?友達以上の会話を、何十分?今年中、いや、来年分も、全部使い果たしてる。今までいろんなことに期待して、そのまま叶ったためしなんかなかったじゃないか。ましてや、こんな、間違った、恋が。

 やっぱり、週明けを待たずに、それは来たんだ。もしかしたら、一緒に布団に入って、何か、しちゃったのかもしれないな。だから、もう、ゲームオーバー。取り立て人は待ってくれない。

「不整脈って何だ。もしかしてお前、心臓が悪いのか?ツケって何のことだ!」

 何でお前が、知ってるんだよ。

 黒井に説明したのは、誰だ?

 だって今さっき、夜道で、一緒に歩いてて。

 だって、今、見えてる。うちを通り過ぎていて。振り返る。

「あら?通り過ぎちゃってた」

「はあ?ねこ、大丈夫?」

「あはは、何だろうね、お客さん怖い症候群?」

 ほら。ちゃんと聞こえるじゃないか。

「何、うなされてるの?お前、もう、一体どうしちゃったんだよ!」

「・・・俺が来るの、そんなにやだった?」

 うるさいな、いっぺんに喋るな!

「いや、そういうわけじゃ、ないよ。ただ、ひたすらに、緊張してるんだよ」

 僕まで喋るんじゃない。ちょっと、静かにしててくれ。

「頭に、響くから!」

 手を必死に動かすんだけど、動いてるのかどうか、全然分からない。ほとんど絶叫、ってくらいに叫んでるんだけど、喉が震えてないみたい。息だけが、ずっと苦しい。あ、もしかして、これ全部いつもの幻覚?全てのことが、全て幻覚?

「・・・あり、じごく」

 そうだ。風呂から出て、立ちすくんで。

「ずっとここに、立ってた。すごく、悲しくて、怖くて、つらくて・・・」

 あれ、僕は、何回、立ってたの?

 映像が、間違い探しのように切り替わる。

 見えるものが、少しだけ違う。

 タオルは、ここに。洗濯機の洗剤の、向きが。

 パソコンの画面みたい。クリックして拡大すれば、どれだけ細部でも見える。一時停止も、角度を変えるのも出来る。一生懸命思い出すのなんかとはわけが違う。自分の家だって、こんな、洗剤の成分表示とか、思い出せるわけないだろ。でも、だって、読めるんだ。読んでやろうか。界面活性剤、ポリオキシエチレンアルキルエーテル、直鎖アルキルベンゼンスルホン酸ナトリウム・・・。

 一回目の方が、明るい。ああ、風呂場の電気がついてるからだ。二回目は、脱衣所の電気しかついてない。光量が違うから、見える色も違う。

 この、場が、全部、パソコンみたい。

 どの映像も、音声も、記録は好きなだけ再生できる。僕が認識できなかったところまで正確に。たぶん、僕が生まれるところまで、無限に遡れる。

 二回目の映像に、黒井が映り込んだ。ああ、これが、僕が風呂でのぼせたってやつなんだな。

 ・・・じゃあ。

 僕は、あのアリジゴクのことを、話してしまったんだ。会話をリピートして聞く。うん、これじゃ、意味は分からないだろうけど。

 そして、僕が、倒れて。

 みっともないなあ、バスタオル一枚で。

 あ。

 すっごく頑張って、お姫様だっこ、らしき運び方で。運んで、くれたんだ。かっこ、悪いけど、やっぱ、かっこいい。また、惚れる。

 それから。

 映像がきゅるきゅると早送りされる。ああ、コントロールが効かない。手元のリモコンが、いや、そんなのないから、暴走する。僕が僕の記憶領域を、コントロール不能だ。いや、コントロールなんて元々出来ないのか。ここはただの倉庫だ。現実という空間を認識し直す、中間の給茶機コーナーだ。応接エリアで「お目にかかれて」なんてほざく僕と、自席で仕事しながら黒井の方を意識してる僕の、中間の、まずいコーヒー。こんなとこにいたら、また妹尾さんが来てしまう。「じゃ、君は私と来よっか」「笑顔、笑顔!」

 きゅるるる・・・。

「なあ、どうしてお前んちの住所すら知らないんだよ俺は!」

 それは、さっき、聞いた!

「お願いだから、戻ってきてくれよ」

 それは、今初めて、聞いた!

 何だ、クロ、泣きそうな顔、しやがって。

 あ、見える。画像認識。内蔵カメラが、オンになってる。

 あれ、お前、やっぱりキレてる?

 二人、いるじゃないか。もうどっちかにしてくれ。

 現実が、二重写しだ。

 それから、天井が抜けたみたいに、声が、バケツをひっくり返したみたいに降ってくる。止められない。声、声、声。僕が注意を向けた言葉が、DJがやるみたいに何度もきゅるきゅる繰り返されて。連想が連想を呼んで、幹から枝が、地平線の向こうまで、何千、何万の枝分かれ。これって、何の世界?ああ、脳内なんだな。ニューロンてやつだ。向こうにはシナプス受容体が待ってるんだろ?僕は今、自分の脳内に降りて来ちゃったんだ。

 ・・・降りるって何だよ。どっから?

 最初から、ここにいたはずだけど。


「ねこって誰?あたし以外の人?」


 ・・・。

 誰。

「・・・誰だよ今の声は!!」

 僕の怒声で、僕は起きた。

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