第39話:病院行きは幸せのツケか、それとも
「女がいた。俺の家に女がいたんだ!」
「お、おい・・・」
「誰が連れ込んだんだよ。お前か?夜中に押し掛けてきたら、追い出せなかったのか?」
「え・・・」
「見えなかった。でも、聞いたんだ。気のせいとかじゃない。俺は再生できたんだ。全部、現実の出来事だ」
そこまで一気にまくし立てて、握りしめた両の拳を見つめる。
画像認識じゃない、ただの、見えている視界。どんなに注意を向けても拡大縮小できない、機能性皆無の世界。
ただの、現実。
「・・・」
沈黙。
僕は、どうしちゃったんだ?
「・・・怒鳴ったりして、ごめんね。もういいんだ」
カメラじゃない、頭を、眼球を、黒井の方に向ける。ごく当たり前に、僕の部屋に、座っている。幻覚でも妄想でもない。
僕は手を伸ばして、僕のトレーナーに包まれたその腕に触れる。なでる。ちゃんと、入っている。きちんといるってことは、取り立ても有効なんだろう。
これから僕は、どうなっちゃうんだろう?
「・・・病院、行こう」
「・・・え」
「お前、ちゃんと診てもらおう。タクシー呼ぶからさ、今から行こう。俺も一緒に行く」
「・・・そう、なの?」
そういえば。頭痛は消えていた。余韻みたいなものだけ、霞のように残っている。
「そ、っか」
ふむ。
ツケは病院で払うんだな。
最後に、抱きしめて、キスして欲しいけど。
それしたら、たぶんもう、自己破産。
僕は立ち上がって着替えを済ませ、「行こうか」と、つぶやいた。
・・・・・・・・・・・・・
土曜日は午前中だけの診察だったが、たらい回しにされた挙げ句、耳鼻咽喉科で診察を受けた。採血とか、耳を銀の器具で覗かれたりした。・・・耳?
「・・・三半規管って、聞いたことあるでしょ。バランスをとるところなんですけどね、そこが、まあジャイロみたいになってて、その機能が・・・」
若い男性の医師が何か言っている。僕は黙ってうなずいていた。
「まあ、こういうの最近、増えててね。特に、女性に多いんですけどね」
そうですか。
「とにかくお薬出して、様子見ます。血液検査の結果も聞きに来てください。また症状がひどいようなら、精密検査もしてみましょう。じゃあ、次、いつ来れますか?お勤めなら、また、土曜日?」
お勤め以外の何があるっていうんだろう。
まあ、じゃあ、それでいいです。
失礼します。
初回の手続きやたらい回しに一時間以上費やした挙げ句、医師との面談は五分で終わった。病院って、こういうところだっけ。
僕が廊下に出ると、待合い椅子に座っていた黒井が駆け寄ってくる。犬みたい。
「なあ、どうだったの」
「うん、薬、出すって」
「何だったの?」
「何が」
「その、何か、病気、なの?」
「さあ、よく分からんかった」
「え?」
「・・・女性」
「へ?」
「こういうの、女性に多いんだって」
「・・・」
「そんなこと、言われても、ねえ」
僕たちはまたエレベーターを乗り継いで、一階の会計と、処方箋コーナーへ向かった。最近の病院はすべてコンピュータ管理で、さっきもらったバーコードのカードを画面にかざすと、会計と処方箋が整理番号とともに印字されるのだった。
「これ、すごいね」
「ああ、驚いた」
「でも、やっぱり並ぶんだね」
「待つしね」
どんなにハイテク機器があっても、整理番号が大画面に整然と並んでも、まあ、また小一時間待たされるのだった。
病院というのは不思議なところだ。いつもなら十分二十分を惜しんでせかせかと仕事をしているのに、ここではそんなもの気にされず、お金も時間も言われるがまま搾取されていく。
僕がどれだけの思いで、黒井のことを考えているかなんてことは、これっぽっちも勘案されることなく。
僕は、支払いを、済ませた。
・・・・・・・・・・・
「ついてきてくれて、ありがとう」
「・・・そんなの」
「心強かったよ。助かった」
「別に・・・」
僕はパーカーにジャンバーをひっかけ、ジーンズで、まるで大学生みたいだ。黒井のスーツと並ぶと、えらく不自然だった。
駅でさよならをして、別れた。
黒井はずっと僕のことを心配して、今日も一緒にいると言ってくれたけど、そうもいかなかった。そんなことをされたら、黒井のことをもう、好きとかじゃなく、頼って依存して僕を押しつけて、喰ってしまうだろう。
そこはかとない、寂しさが残る。
・・・強欲なんだ。
いや、現実逃避か。
僕にこんな幸せが訪れるわけがない、と謙遜しているように見せかけて、その実、その奥の僕は、今までの借りを返してもらうぜと息巻いていたのだった。
これまでの僕は、ただの、目立たない男子学生Aだったわけだけど。
本当は、そんなんじゃない。お前らなんかに、分かるもんかって。
様々な偽善や欺瞞や押しつけなんかで、よくも僕を虐げてきたな。いつまでも黙ってハイハイ流されてると思うなよ。そろそろ譲ってもらおうか、この人生の主役は俺だ・・・、なんて。
・・・主役を張るのは、怖いくせに。
実力なんかないんだよ。うまく立ち回れっこない。足だって、どっちに出していいか分かんなくて、夜道でも、そら、こけた。
みつのしずくでみーちゃんに助けられて、今年の上演を決めたけど、早々にチケットが売り切れたら、怖くなって飛び降りたんだ。
ああ。
ふいに、黒井の言葉が降ってくる。<したいこと、してるだけ>。
僕はね、したいことをするのが怖いんだよ。いったい誰に遠慮してるのか、分かんないけど。
今まで、散々、自分を抑えてきた。我を通すことなく、引いて、引いて、限界まで引いて。いいよ、別に、気にしないから、大丈夫です、そっち置いといてください、僕はいいから、先に始めてください。そこまで引いたら、貸しを作ったら、貯めに貯めて、利子まで付いて、いつか、引かずに押すことが出来るんじゃないかと。したいこと、したいだけ、してもいい時間が訪れるんじゃないかと。天からそういうものが、無償で、僕だけに、与えられるんじゃないかと。
でも、僕はこれだけの貸しを作ってもなお、黒井に電話一つかけられない。
それなのに、お前は、話したかったから、なんて理由で、かけてきて。
怖くないの?
したいこと、してもいいって思えるだけの、何があるんだ?
貸し?強さ?図太さ?
信頼?自信?それとも、何?
お前だって、言ってたじゃないか。いつも、勘違いされて、誤解されて、迷惑かけるって。演劇部も追い出されて、彼女じゃない女の人も出ていって、坂本にも、イケメンなのにそっちの気があるから彼女が出来ないなんて言われる始末。
それなのに。
何で。
・・・。
・・・何で、僕に、優しくしたんだ。
その期待は、裏切られるかもって、思わないのか。トイレで同僚にキスなんかして、キレられるって、思わないのか。僕の気持ち知らないくせに、どうしてそんな、自分を見せられるんだよ。僕を信頼、出来るんだよ。僕は、何だと、思われてるんだ。
僕は、お前が、好きなんだよ。
男なのに。間違った、気持ち悪い、恋。
お前は、何なの?
お前にとって僕が、都合のいい、振り回してもキスしても文句言わない、安心してぶん投げて、飽きたら捨てられる、ねこのぬいぐるみだっていうなら。
それでも、いいんだ。
・・・もう少し、見逃して、もらえるなら。部屋の隅に置いといてほしい。お前が、次のおもちゃで遊び始めたら、後ろ向きにして、見せないように、してくれないか。そのうち、ねこはそっと歩いて、出ていくから。それまで、もう少しだけ。・・・たぶん、来週の、土曜日までは。
・・・・・・・・・・・
「ごめん。電話は、あんまり、良くないんだって」
「え、何が?」
「電磁波だとか、耳とか」
「言われたの?」
「・・・だから、ごめんね。ありがとう」
「・・・そっか、じゃ、しょうがないね」
電話も切ってしまった。
かけてきて、くれたのに。
今日、朝まで黒井がいた部屋。しっちゃかめっちゃか、荒れ放題。黒井が脱いだトレーナー。黒井が使ったバスタオル。
うん。余計に、つらいもんだな。誰かが出ていった後って、乾いた寂しさと、イラつきが残るんだ。
何となく、黒井を一人の男として、見ている自分がいた。片想いの相手とかじゃなく、二つ年上で、帰国子女で、同棲経験があって、今は自分を抑えながら会社員をやってる、一人の成人男性。彼には彼の人生があって、彼の選択と生き方があって、そうして僕に電話をかけてきた。切ってしまったって、彼は彼で、うまくやるさ。
どうしようもないみじめさなのに、腹は減るし、怒る気力もあった。アリジゴクには戻らない。みーちゃんにも、頼れない。
今度は崖から落ちたんじゃなくて、ツケが払いきれなくてぶっ倒れただけだから、言い訳も出来ないね。
みーちゃんなら、こんな僕でもまた、抱いてくれるだろうか。いや、だめだろうな。ひっぱたかれて、追い出されるよ。
正直に向き合うことだよ、って、みーちゃんは言っていた。
でも、言えるはずなくて。
その上、あいつは、正直に、本心で、僕に向かってくるもんだから。
僕だけ、お前を、騙してるじゃないか。
それなのに、騙したまま、お前を、部屋に入れて、布団にまで。
部屋に。
・・・。
・・・?
定期券。
何だ、この記憶。
定期を、かざす。ドア。うちの、ドア。
誰が?
黒井が、それは違うって言う。
誰に?
「え、違うの?わ、笑わないでよ」
声が再生された。誰?
「床で寝たら、寒いんだよ?」
誰。
ちらちらと浮かんでくる、女の影。昨日は、他に、誰かいたの?僕と、黒井と、二人だけじゃ、なかったの?
・・・そういえば。
僕は、何をしていたんだっけ?
・・・・・・・・・・・・・
どんなに考えてみたって、女が僕の部屋に来たはずはなかった。じゃあ、あれは。
・・・。
ぼ、く、なんだ。
・・・あれが?
女の姿は全く視界に映っていない。全部、音声だけ。つまり、僕自身だから、自分の顔が視界に入るわけもない。
ぶっ飛んだ、のか。
騙すことに、バレる恐怖に、そのはざまの揺れに、耐えきれなくて。ウルトラCで、逃げきろうとしたのか。即興で仮面かぶって別の主役になりきって、四次元の舞台を急ごしらえで、大道具も小道具も衣装も透け透けのホログラムのまま、アドリブとエアー椅子で演じ続けたのか。そしてとうとう、舞台装置もハードウェアも焼き切れて、オブジェクトのプロパティだけ垂れ流しで、音声も映像も、はちゃめちゃに再生されっぱなし、おまけに僕がデフラグまで同時に実行しちゃうから、CPUが、もう。
・・・。
僕は、本当にまともな人間なのか?
自分で問うて、ちょっと、笑った。
三半規管もイカれるわけだ。舞台と現実の区別を自分で外してしまったら、無重力ではジャイロも効かないか。
・・・。
・・・んなわけ、あるかい!
「ははッ!」
部屋で一人、空笑い。
いくら理屈屋だからって、そんな論理こねくり回して、分かった気になって、どうだっていうんだ。そんなの、俺がちょっとイカれてるねってだけだ。理屈じゃなくて、大事なのは結果だろ。
結果。
あ。
僕は。
きゅるきゅる。再生。
「狭いですけど、お上がりください」
「あ、ありがとう、ございます・・・」
・・・
「そう、だけど」
「クロは、親切に、ベッドに入れてくれたじゃない?自分の寝床なのに、半分、分けてくれた。だから、ね?」
「・・・わかりました。風呂、いただきます」
・・・。
これ、僕が言ったのか。
そう。
僕は、騙してない。
ぎりぎりだけど、黒井のこと、騙してないんだ。僕も知らない、女の僕が、黒井をうちに上げて、風呂に入れて、布団に入れって、丁寧に勧めてる。それは嘘でもなく、下心もなく、正直な僕の、きっと、どこかの一部分だ。
あ、やっぱ、俺。
カッコいい黒井クンに抱かれたい、女の子だったんじゃないか。あは。
そういう一面が、あったってことなんだ。僕が女の子なのか、そうじゃないのかっていえば、もちろんそうじゃないんだけど。僕の中にはそういう仮面があって。喧嘩したり、土下座させたり、電話で怒鳴ったりするのだって、そういう僕の仮面の一部だ。
だから、とにかく。
僕は、確信犯で黒井を騙して、素知らぬ顔でほくそ笑んで一緒に寝たりなんか、してないんだ。何だか突き抜けた回避プログラムが作動して、切り抜けた。たぶん初めて、黒井に対して、僕の、全くの本心で、正直に。
ああ、だから。
この、病院行きは、ツケを払わされたんじゃなく、僕が犯したリスクの結果だ。
僕だって、やったんだ。
出来たんだよ。ぶっ飛んだやり方で。お前みたいに、<したいこと、してるだけ>を。我慢した末に天から降ってくる無償のご褒美なんか待たないで、自分で、一人で、やりきったんだ。おかしなやり方だったけど、僕は初めて、自分の気持ち隠さないで、お前と向き合ったんだ!
「い、いそいで、電話、しなきゃ!」
僕は携帯をひっつかんで、今さっきかかってきた着信履歴を呼び出し、もどかしくボタンを連打した。
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