第101話:Xデーをうっかり楽しく過ごすために
席に戻るといよいよXデーの本番の時刻が近づいてきていて、僕は落ち着いてるようなそわそわしてるような、上の空のような、妙に一歩引いたところから眺めてるような、そんな感じだった。ちょっとだけまた、ゲシュタルト崩壊も。
ふと思い出して、菅野に「ありがとう」とだけは伝えた。
「いえ、いいんです・・・どうしよう、緊張してきちゃった」
「きちゃった、じゃないよ、さっきからずっとじゃない」
「そうなんですけど」
「別に、何か仕事だと思ってさっさと渡せば」
「そ、そういうことじゃない!」
「うーん、緊張を解きたいの?それともつつがなく渡したいの?プラン練り直す?」
「・・・もう、男の人ってホント分かってない!」
「・・・すいませんね」
男の人で、本当すいません。
「あーあ、頑張ろうっと」
僕を見限った菅野が定時を二、三分超えて、仕事を切り上げ始める。
女の子で、バレンタインで、異性にまともな告白ができて羨ましいという思いと。
でももし自分が同じ立場だったら黒井に告白できたか、と言われたら、僕ならそんなこと出来なくてきっとひたすら待つんだろう。振り向かれるわけないって諦めながら、自分磨きに励むわけでもなく、ただ奇跡のように訪れる幸運を待つんだろう。
だから、羨ましいなんてのは欺瞞だ。僕はきっと男だから、友達だとか親友だとか、そんなこと出来たのであって、女だったら無理だったんだ。羨むどころか、ほっと胸をなで下ろすところ、というわけか。・・・まあ、男であっても、どうしてここまで近づけたのかは未だに分からないわけだけど。
ちょっとだけ、今までのことがいろいろと思い出されて、何だかぞくぞくした。トイレでのあんなことや、正月明けとか、温泉とか、本番とか。あいつのこと、ちっとも友達だなんて思えない。一緒に馬鹿やってきたダチだなんて、これっぽっちも。焦点を合わそうとすると、記憶の中の顔すらもぼやけてしまって、ああ、見たことあります、三課の黒井さんですよね、って、搬入口のスロープで死体になってた顔だけはやけにはっきり覚えてるんだ。あいつが死んでたら、今僕はここにいない。
菅野は特に僕には何も言わず、用意してきた大きめの箱を持って立ち上がった。にこやかにまず課長の席へ行き、課長が目尻を下げて腑抜けになる。ああ、僕もそろそろ出番か。しかし、何と声をかけたものか。
・・・何か、仕事だと思ってさっさとやれば。
さっきの自分の言葉に責められる。そうですね。ああ、そうですね。ホント、山根さん分かってない!
ああ、もう、やりますよ。やればいいんでしょ?親友の黒井っちに、ちょっと一緒にセミナー出ねえ?って、言ってやりゃあいいんでしょ!?
・・・・・・・・・・・・
「・・・あ、あの」
「・・・うん?」
後ろから声をかける、なんてこと、今まであったか?黒井ってこんな風に振り向くの?そんな無防備に、「なあに?」って顔、やめてよ!
「お、お前さ、今日あの、デモのやつ出る?」
「あ、うん。出るよ」
「・・・そ、そう」
「早く出とかないと、忘れるからさ」
「ああ、うん。そうだよね。お、俺も出ようかな」
「そう?じゃ、一緒に出ようよ」
「あ、うん。そうする・・・」
・・・な、何なの。もう、俺、何なの?やだやだ、こんなの、降りたい。こんな体ほっぽりだして、家でせんべい食って寝たい。何が「俺も出ようかな」だよ、何が「うん、そうする」だよ。お前、何しに来たのって感じじゃん。指くわえて物欲しそうにお菓子見てる子どもみたいじゃん!!
「あれ、何時だっけ。17時半だったよね?」
「う、うん。まだちょっと早いけど、さ。ほら、あれ先着順じゃん?ちょっと早めに席、取っとこう、とか・・・」
思ったり、して、って、最後まで声にならない。本当、人を誘うのって苦手っていうか、無理なんだよ。ランドセル置いて公園に何時ね、ってあれすら一度もやったことないんだよ。そうだよ、何でこんなプラン立てたんだろう。菅野に対してちょっと思い上がって、黒井を連れ出してやるからさなんて見栄張ったんだ。だからこんなことになるんだ、自重しろってあれほど、身の丈に合った、自分の範囲内だけで生きろとあれほど・・・!
「じゃあ早く行こうよ、何してんの」
「えっ?あ、そ、そうだね」
黒井はさっさと立ち上がって、セミナールームへと歩きだした。当たり前だけど緊張なんかしていない。ごく普通に「また雪だね」なんて話しかけてくる。まったく、人の気も知らないで。
「あ、ああ、雪だね」
「そんなに来るかな」
「え?」
「今日、混むの?」
「あ、いや、何か誰かそんなことを・・・」
「ふうん。・・・お腹でも痛いの?」
「へっ?」
「何か、緊張してる?」
「い、いや」
「お前が緊張すると、ろくなことがない」
「そ、そう、ですね」
振り向いて微笑まれたら、うん、だめです。手とか繋ぎたくなっちゃう。会社なのに、抱きつきたくなっちゃう。
セミナールームに着くと、小嶋さんと伊藤さんが準備中で、テキストなどを席に置いている最中だった。あ、まずい、ここで手伝いなんか申し出てしまったら、応接スペースに連れて行けなくなっちゃうか。僕はとっさに「あ、また出直しまーす」とドアを閉じた。
「え、いいの、席」
「あ、まあ、邪魔しちゃ悪いし。・・・ちょっと、そこで雪でも、見て・・・」
言い終わらないうちに、黒井がさっさと向こうへ歩いて行ってしまった。あ、待って、ちょっとそれじゃ任務がこなせない!僕がたった五分親友を留め置くことも出来ない、人間以下の存在になっちゃう!
「ちょ、どこ行くの?ねえ・・・」
「・・・え?せっかくだから、そこでお茶しようって」
黒井は給茶機でお茶を汲んでいた。・・・ああ、そう、よかった。これでまともに生きていけそう。
てっきり二人分汲んでくれるかと思ったけどやっぱり自分の分だけ持って、応接スペースに戻っていく。いいんだ、とにかくそっちにいてくれればそれで。僕も粉っぽい緑茶を汲んで、そちらに向かった。
節電のために、半分電気は消えていた。
その一番暗い方に座って、窓の方を向いて、またあの表情。横顔がうっすらと雪明かりに照らされて、ああ、こういう人と一緒にいるのか僕は。これが黒井彰彦って男か。
僕は無言で向かいに座った。まるでお洒落なカフェみたい。一緒に入ったことないね、そんなとこ。
テーブルに肘をついて熱すぎるお茶を冷ましながら、僕は黒井にかける言葉を探していた。何でも言えそうだし、何でも言いたいし、でも何も出てこない。目ばっかりあちこち泳ぐけど、思考は拡散していく。不自然な沈黙を言葉で埋めたくても、時間ばっかり一秒一秒過ぎていく。あれ、でも、何でだろう、ちっとも気まずくないのは。
ふと目が合って、黒井は、笑った。
僕は二、三秒目を合わせて、とうとう恥ずかしくなって目を逸らし、うつむいて笑った。何だよ、何をどうしろっていうんだ。これ以上無理だよ。僕なんか、逆さにしたって何も出てこないのに。
そして、黒井は少しのけぞって足を組み替え、「それ何茶?」と言った。
「まずい緑茶」
「・・・まずい玄米茶と交換して?」
「はい」
ろくに減っていないコップをずるずると突き出して、向こうへやった。人質の交換みたいに、向こうからも茶色い液体がやってくる。一口飲んでみた。
「・・・こっちの方がマシじゃない?」
「こっちの方がマシだよ」
一瞬の応酬。お互い「ええ?」と納得がいかず、飲み比べ。いや、どんぐりの背比べだよ、どっちもそれなりにまずいから。
何だろうね、こんなことしてるだけで、幸せなんだ。誰もいないから、もうキスしたいんだけど、だめ?
物欲しそうにその唇を見つめていたら、遠くでパタンと遠慮がちな音がして、ああ、そうだ、ここでキスしたらだめなんだった。そりゃまずいよね、バレンタインに、本命チョコ渡す相手が男とキスしてたらさ。
・・・っていうか、まあ別にいくら僕が望んだって出来るわけじゃないんだけど。
「あ、あれ、菅野ちゃんだ」
「え、ほんと?」
ちょっぴり棒読みだけど、振り返ってごまかした。そのまま立ち上がって、そちらへ歩く。菅野の手元の小さな紙袋を見て、ああ、プランは順調だと安心。
「・・・どうしたの?」
「あ、その・・・渡しそびれちゃって」
僕は黒井の方を指さして、菅野はそれを見てうなずく。うんうん、手筈どおりだ。一緒にいてとか言ってたけど、やっぱり、何か、別にいいよね。菅野は大丈夫そうだし、暗いから目立たないし。17時から暗くなるって、知らなかったからさ。
「あれ、菅野ちゃんもセミナー出るの?」
「そ、そうじゃないんですけど・・・あの、実は・・・」
僕はものすごく慎重に給茶機のところの扉を閉じて、騒がしいオフィスに戻って、さて、メモ帳とボールペンでも取ってくるか。
・・・・・・・・・・・
五分前に一人でセミナールームの席に座って、徐々に人が入り始めた。遅刻するような場所じゃないから、結構みんなギリギリまで来なかったりする。僕は一番後ろの端っこに座ったけど、こういうのって黒井の分を取っておくべき?でもどうにも厚かましいような気になって、でも誰も僕の隣なんか座らないからもうほっといた。だって、満席になってもまだ来ないくらい菅野と話が盛り上がってるなら、取っておく必要なくなるわけだし。ああ、そうだよ。じゃあいいや。
頬杖をついてテキストをぱらぱらめくっていると、隣に人が座る気配。ほら、もう誰か来ちゃったじゃん。いや、仕方ないことだし、怒ってないよ。菅野は悪くないし、別に僕だって、少しでも黒井といられて、何か、よかったっていうか、満たされたっていうか・・・。
「チョコもらっちゃった。お前ももらった?」
ゆっくり振り向くと、白い小さな紙袋をテーブルに置いて、隣に座ったのは黒井だった。
「・・・あ、ああ」
驚いていない振り。席取っとかなくてごめんなんて、あわててない振り。
・・・っていうか、まあ、チョコはもらったけど、お前と同じチョコじゃないよ。義理と本命っていう、分かちがたい壁があってだね。
「それで・・・」
菅野とどうしたのか、ってことを、聞きたいけど、野次馬みたいでみっともなくてやめようかな、ってところでセミナーが始まり、ざわついていた部屋がとりあえず静かになった。今日はマイクの、小嶋の声。
「えー皆様お疲れさまです。お足元の悪い中・・・って社内ですから関係ないですね。近いところをご足労いただきありがとうございます。・・・で、予報もちょっと怪しくなってるところもあるので、まあなるべく、ささっと済ませまして、今日は早めに切り上げましょうって話が出てますね。というわけで前置きもそこそこに始めさせていただきまーす」
テキストをめくって、マウスをクリックして、テキストに書き込んで、マウスをクリックして・・・。ああ、もう、菅野のこと聞きたいけど、別にどうでもいいか。とりあえず、今「付き合うことにした」って言われたわけじゃないし、僕がここで聞こうが聞くまいが、大勢に影響はないんだし。
だったら、一瞬だって長くこの安寧を楽しめばいいじゃない。明日殺されるって一日も、明日は遊園地って一日も、同じ一日なら知らんぷりで楽しく過ごせばいい。何をしたって諦めるしかないなら、うっかり楽しく過ごしてしまうのも死んでしまうのも、価値としては同じだ。
光の速度はこの世でもっとも速い限界であり、それは秒速三十万キロメートルだそうだ。だから、たとえば太陽の光は地球に届くのに八分かかる。太陽が爆発しても、僕たちがそれを見るのは八分後だ。衛星やNASAやインターネットがあるから情報は瞬時に知れると思ってるけど、その電波だって光より速くは届かないから、もし何の兆候もなく突然爆発したら、どの衛星もどの機関も経由していないその光が一番速く僕たちに届く。そして、僕たちにはその八分をどうすることも出来ない。八分前に分かっていたら逃げられたのに、というような後悔は、物理的に不可能なのだ。
<コペンハーゲン>と同様、黒井と菅野がお互いどう思っているのかは、それぞれにしか分からない。光の速度の限界と同じように、きっと人が知れる情報にも限界がある。黒井に訊いたところで、「うん、別に」と返されればそれまでなのであって、だから、それ以上の情報がないのなら、僕はうっかり楽しく八分間を過ごす以外にないのだ。
・・・。
そんなことを考えていたら、横から肘でつつかれた。ふと見ると、テキストがずいぶん先に進んでいる。画面も全然違う。ああ、僕だけ遅れてるってことは、三十万キロより離れてる?でも隣を見たら普通に黒井が座っていた。上等のボールペンを指先で器用に回しながら、ああ、案外真面目に授業受けるんだね。
・・・同じ大学だったらこんな感じだったかな、なんて思ったら、ちょっと右半身が痺れてきた。これって六限くらいかな。終わったらすっかり暗いキャンパスをぶらぶら歩いて、腹減ったなんて大声出して、嗚呼、なんて青春!雪なんて降ってたらグラウンドも芝生も真っ白で、もう走り回って新雪に足跡つけるっきゃない。お金なんかなくて肉まんくらいしか買えなくたって、うわあ、僕は本当はそういうことがしたかったんだ!!
・・・。
何食わぬ顔でテキストを数ページめくり、画面のそれっぽいところを適当にクリックし、ちょっと咳払いして椅子に座りなおした。すると、小さくカラカラ、と音がした。あ、ポケットに入りっぱなしのチョコだ。
・・・時間は巻き戻らないから、大学時代の肉まんは共有できないけど、まあ、チョコくらいなら。
あ、もらったばっかりか。いらないか。いらないかな。
欲しいよとか、冗談だろうが、言ったんだからさ。
ポケットの中のこれ、あげちゃったり、してみたりしてみる?いや、ほんの、お裾分けだよ。別にバレンタインだからとかじゃなくて、ただ、小腹が減ったから・・・。
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