第102話:人生初の「一緒に帰ろう」をお前に
五秒後に死ぬとしたら最後に何をするか?
はい、5、4、3、2・・・。
・・・やりますよ、もう!
ポケットからチョコの箱を出して、カラカラと音をさせながら手のひらに出し、本当にこんなこと何でもない、ああお腹空いた、全然不自然じゃありません・・・って顔でオランジェットを食ってやった。味なんか分かるもんか。
これ見よがしに机の上に置いて、当然黒井も僕の手元を見ている。たぶん僕の顔も見てるかもしれないけど、無理無理、テキストに目を落として、顔なんかあげらんない。
すると、テキストの端っこに黒井のペンが伸びてきて、<それ、誰から?>と書いた。・・・ああ、僕がもらったチョコだと思ったわけ?もう、違うよ!
僕はその字の下に<俺>と書いた。自分で買ったんだよ!人からもらったもの、こんなところで自慢げに食べるわけないだろ!
そしたら、<俺>の下に字が続く。何、アルファベット?<THA・・・>え、なに?
ページの下の方になり、横から書きにくくなってくる。だんだん曲がって、しかも縦書きで読みにくいけど、・・・<THAN K S>。
サンクス。
僕が読むと同時にチョコの箱は持っていかれて、目の前でそれは手のひらに三つ乗っかって、そのままあおるように、一気に口に放り込まれていった。
・・・。
テキストを呆然と見る。
<それ、誰から?><俺><THANKS>。
思わず、かゆくもないのに後頭部を掻いた。
いや、何か、俺からあげたみたいな、そういう感じで・・・。
こういうのお前好きって言ってなかった?ちょっと食べてみる?・・・って僕がそれとなくチョコをあげてみたりしてみようかって魂胆は、さっぱりと単刀直入に置き換えられて、既にお礼まで言われ済み。もう事は済んでしまった。
何を考えていいのか、よく分からない。
テキストの同じ行を何度も目でなぞる。一文字も意味を成さない。その間にもカラカラの音は何度か続き、あおる動作と微かな噛む音。え、ねえ、それ二個も三個も一気に食べてない?この繊細な味をさ、もう少し味わって食べたら?一粒ずつ大きさが違ってさ、僕は小さいのが好きだけど、こう、細長いのとか、噛み応えが違ったり愉しみ方が違うっていうかさ。そうやって節分の豆みたいにばりばり食べたら、もったいないじゃん。
思わず手を伸ばして、箱を振ったが一足遅くて、何も出てこなかった。食べちゃったのか。僕だってもう少し食べたかったのに。しかし僕には箱すら持たせてもらえないらしく、さっと取られて、それはポケットにしまわれていった。ああ、どこの会社が作ってるか見たかったのに。
そしてまた黒井のペンが伸びてきて、余白に<うまい>と書いた。ああ、そうだろうね。良かったね。
それから僕のテキストに書くところがなくなると、自分のテキストにこう続けた。
<もっとほしい。好き>
・・・あ、そう。そんなに、気に入ったんだ?
いや、あのさ、それ・・・どうして僕のテキストに書いてくれないのかな。滅多に見ない直筆を見るだけでもじんわり来ちゃうのに、よりにもよってそんな単語、え、何で?
どうやったらテキストすり替えられるかな。
僕が真剣にそれを考えていると、十分以上早いのに、いつの間にかセミナーは終わっていた。
・・・・・・・・・・・・・・・
特に何か会話をするわけでもなく、特別一緒に歩くわけでもなく、何となくぞろぞろと解散し、僕たちは元のオフィスへ戻った。黒井のおかげでセミナーの内容は何ひとつ聞いていない。来週もまた出たほうがいいかもしれない。
ちょっと目を離した隙に黒井が望月と榊原に捕まってしまい、仕方なく僕は一人で自席に戻った。ああ、もしかしてまたバレンタインに飲み会するって話?
今日のセミナーには出ていなかった横田が開口一番、「雪」と言ってきた。
「え?」
「何かひどくなるらしいっすよ。会社的に、帰れみたいな」
「そ、そうなの?」
「何か、さっき総務の課長とか来て」
「電車、止まってるの?」
「都心部はまだ。でも、遠方の人から帰されてるっぽい」
そういえば、フロアがどことなく騒然として、一部では何人かが集まって、ネットのニュース動画らしきものを見ているようだった。でも、先週だってそれほどのことにはならなかったし、結局土日だから、台風で運動会が中止に、というような高揚感もさほどわかなかった。今日早く帰されたところで、仕事が消えてなくなるわけじゃないし。
大山鳴動して何とやら、ってこともあるし、僕は普通どおりに残業を始めた。期待しているとバカを見る。黒井にチョコをあげてみたところで、まあ、テキストの<THANKS>以上のことにはならないのだ。
・・・せめて<好き>って文字を、ああ、筆跡を、忘れていく。
いや、別にチョコの味が好きってことであって、僕のことじゃないしね。
うん。
僕だけかな、もうすっかりお互い踏み込んで、ふつうの友達には言わないことまでさらけ出して、特別な関係になった、なんて思ってるのは。
そんなことない、こないだ電話で、雪を見ながら僕は本気で泣いたんだ。だから・・・、って思いと。
いや、そんなこと、とんでもない思い上がりかもしれない、って思いと。
きちんと心に沿って考えれば、僕は黒井という人間にとって、確かに何がしかの意味を持つ存在になってると思う。証拠がなくても、婚姻届がなくても、信じられる。でも、それと同じくらい強い力で、思い上がりだ、幻想だ、って気持ちも確かにあって、そしてそれも、実体がないのに信じることが出来てしまう。自虐と自嘲の誘惑に負ければいつだってそちらに落ちて、まるでフォースの暗黒面。何となく、分かってる。思い上がらず、浮かれず、自分を律して戒める、なんて聞こえはいいけど、その実それは厳しさでも何でもなくて、ただ怖いだけ。それらを隠れ蓑にして、動かないだけ。
今まではそれでも良かった。黒井に会う前は。動かないことで被る損失もたかが知れていたし、惜しくもなかった。
でも、もう違うんだ。
あの、マンションの屋上で信じてくれと言われて、だから僕はもう信じるしかないんだ。信じて突っ走って転んで怪我して恥かいたって、それでも走るしかないんだ。僕が人生で一番嫌いで、怖れて、避けてきたこと。出来ないのに自分から向かって行って、やっぱり出来なくて痛い目に遭って、その上嘲笑されること。ああ、それを、やりなさいと言われてやるんじゃなく、やっぱりやらなきゃダメだよね、でやるんでもなく、もうそんなこと言ってられなくてやるのか。
・・・バレンタインに、他の男に取られてる場合じゃないか。
僕はもう膝が勝手に動いて、無言で立ち上がった。黒井の席に向かう。三課も落ち着かない雰囲気で雪の話題。
「・・・あ、ねえ、京王線の、見た?」
「ちょっと、来て」
「え、なに?」
「いいから」
僕は黒井の腕をつかんで廊下へと連れ出した。ここ最近手を伸ばすだけで震えてたのが嘘みたいだ。
「え、どしたの?電車?お前帰れなくなったとか?」
「ちがうよ」
誰もいない廊下。ドアの横に並んで立つ。
「ん、何?」
「あのさ、さっき何か、誘われてた?飲み会とか」
「え?ああ、もっちーの?何か、雪だし中止だって。別に、今日は出る気なかったけど」
「・・・そっか」
「・・・何で?」
「今日、俺、お前と一緒に帰りたいんだけど」
「・・・いい、け、ど」
「何か都合悪い?」
「そうじゃないけど、せっかく早く帰れそうだから、ちょっと、寄るところあって」
「・・・迷惑じゃなければ、その」
「うん?」
「・・・」
な、何て言ったらいいんだ。人を誘ってこんな風になって、強引過ぎず、諦めず、ってどうすればいいんだ?
「・・・そういや、お前も、好きか」
「え?」
「じゃあ、一緒に行く?」
「どこへ?」
「そこの、本屋。お前を尾けた、ブックファースト」
・・・。
服屋とか、美容院だったらどうしようかと思っちゃった。
本屋くらいなら、どこだって行くよ。行く、行きます。
「何かさ、もう仕事って雰囲気でもないし、そんだったら、さっさと行っちゃおうか」
「そ、そうだよ。ぐだぐだ残ってニュース見てたって、変わんないし」
「よし、帰ろう」
「うん、帰ろう」
二人は我先にとカードをかざし、オフィスに入った。
僕はたぶん生まれて初めて、自分から積極的に、自発的に、純粋な自分の欲求でもって「一緒に帰ろう」と人を誘った。誘われない限り一人で帰るという幼稚園以来のスタンスが崩れた瞬間だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕の家が比較的遠いということで、課長も二つ返事で帰れと言ってくれ、廊下に出て腕時計を見たらまだ18時半過ぎだった。金曜日の、18時半!金曜のそんな時間に外にいるのは何ヶ月ぶりなんだろう。黒井の方は何と言ったのか知らないが、程なくして廊下に出てきた。
腕を、上げるので。
向かい合って、ぱちんと手をタッチした。こんなトモダチっぽいこと、うわ、青春だ。
エレベーターに乗って、地下通路へ。ああ、何か温泉行きたいって話したのを思い出す。あれも確か金曜日だった。ちょうど先月くらい?あの時より時間が早くて、そして、寒い。
「急に一緒に帰りたいとかさ、どしたの?」
「え?ああ、別に。・・・特に、何でもない」
ほら、二人になってしまえば、話せるんだ。こうやって並んで歩いて、僕がちょっと歩調を落として、少し肩が触れ合ってそれを確認する。あれ、もしかして、ちょっと近い?二人の距離、周りの二人連れと比べて、近すぎ?
「ねこさ、お腹減ってる?」
「ああ、まあまあ」
「軽くなんか食べてかない?」
「いいね」
ああ、何かこういうの久しぶりだ!温泉行った朝を思い出す。温泉行きたいって話した夜と、本当に行った日の朝。僕の過去の直線にそれは並んでいて、僕の軌跡。なんか、すごい。
しばらくしてコクーンタワーに着く。黒井は当然、あの物理の棚に行くんだよね。何だかこそばゆくて、一緒にいてもいいのかちょっとどきどきした。
「・・・で?どうやって俺を尾けてたわけ?」
「え?ああ、別に尾行ってほどじゃなかったんだけどさ。お前、全然気づかないの。俺にぶつかっても、気づかないで」
「えっ、そうだった?ぶつかった?」
「そうだよ、謝りもしないでさ。感じ悪かったよお前」
黒井は笑いながら階段を下りた。
「ねえ、クロ。・・・その」
久しぶりに呼びかけるので、ちょっと気恥ずかしかった。
「え?」
「俺さ、どっか、別のとこにいようか」
「・・・何で?」
「いや、一緒にいたら、気が散るかなって」
「そんなこと、ないよ」
黒井が先に立って、理学書の棚に向かう。何だか、黒井の舞台を観に来たかのようだ。・・・え、舞台?何か今まで、演劇部とかってただの分類というか、数ある部活動のうちの一つって感じにしか思ってこなかったけど、それって、黒井が立って、喋って、舞台の上で何かの役を演じてたってことだよね。舞台や演劇なんか観たことないし、文化祭でも足を運んだこともないからちっともぴんと来てなかった。学芸会、大嫌いだったからさ。
今だったら、どうかな。
黒井の演技、観てみたかった?どうだろう。何だかそういうのって気恥ずかしくてまともに見れないんだよね。・・・ちょっとだけ、嫉妬した。僕の範囲外の、黒井の過去に。
「あの、お前暇だったら、別に」
「・・・ううん」
月曜に僕が来た棚。もちろん、そんなことは言わない。お前のやってること、面白そうだしついて行きたいから俺も、なんて、厚かましくてうざったいでしょ。自分が何かに取り組もうとしてるときに、にわかの素人が「面白そう」なんて首突っ込んできたら、僕だったら嫌だね、そんなやつ。
・・・ああ、自分の言葉が痛い。そんなつもりじゃなかったけど、状況としてはそういうことだ。急に後ろめたい気持ちになる。でもまあ別に、わざわざそんな宣言しなければいい話だし。本を読むくらいなら、何を読もうが僕の勝手なわけだし。
僕はしばらく適当にその辺を見て回り、その間黒井は何冊かを読み比べているようだった。本当は気になるけど、タイトルをのぞき込んだりはしない。いや、これはダークサイドで変に遠慮してるんじゃなくて、その、エチケットだよ。
「・・・うん。俺ちょっと、買ってくる」
「あ、ああ」
黒井は分厚いハードカバーを手にレジへと向かった。さすがに何やら専門的っぽい本。すごいな、演劇が出来て、物理も出来るなんて。僕なんか、そんなプロフィールに書けるような単語は一つもないよ。
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