第100話:ホワイト・バレンタイン
豚肉の生姜焼きを作って食べながら、ふと携帯が点滅しているのに気づいた。開けてみると、藤井からメール。
<こんばんは。如何お過ごしですか?
こないだのCD、何とか作ってみましたので、是非・・・といえるほどの出来映えではないのですが、進呈します。
もしよければ、明日の朝、こないだのコンビニ前で待ってます>
返信。いや、生姜焼きが冷める。先にかき込んで、返信。急ぐくらいなら、後でチンした方がよかったか。
<こんばんは。いつもどうもありがとう。楽しみです。では明日、コンビニ前で。
おやすみなさい>
それ以降返信はなかった。どうして男女の友情みたいな繋がりがあって、僕は男が好きなんだろう?何だかよく分からない。風呂に入って寝てしまうべきだろう。
明日BGMが届くと思えば、勉強もそこそこにうっちゃって、だから三日坊主なんだよなと思いつつ眠りについた。明日は菅野のXデーで、僕にとっては、ああ、ただあいつを応接スペースまで呼び出すという、うん、それだけでも接点が持てるなんて、嬉しい、というか、緊張しちゃう、じゃない、か・・・。
・・・・・・・・・・・
ついいつもどおりに目覚ましをかけてしまい、早足で新宿の地下通路を突っ切る。まあ、CDを受け取るのに五分もかからないわけだし、始業の二十分前にいれば十分・・・。
人混みをかき分けて走った。そうだよ、藤井は更衣室で制服に着替えなきゃならないんだから、僕みたいにぎりぎり五分前ってわけにもいかないじゃないか。女子の着替えに何分かかるか知らないけど・・・って、朝からそんな妄想してる場合じゃないって。
・・・あの子、いつもブラジャーしてないのかな。
・・・って、やめやめ!知らないよそんなこと。もしそうだとしても、そうじゃないとしても、僕には関係ないし、知ったところでどうにもならないよ。男女の友情はどこ行った。僕たちはあくまでプラトニックな関係でだね・・・。
腕時計を見た。ギリギリ、十八分前。
「お、お待たせ。ごめん」
いつものように、フードをかぶって座り込み、まるでジャンキーみたいに人差し指が幾何学模様を描いている。しゃがみこんで腕に触れると、ゆっくりとこちらを見た。
「ちょっと、遅く、なって・・・」
ようやくイヤホンを取った藤井が「走ってきたんですか」とつぶやいた。
「あ、ああ。ごめん」
「・・・どこから」
「え?」
「どこから走りました?」
「え、えっと、どうかな。ロータリーくらい?」
まだ息を切らしている僕を、藤井が上目遣いに見上げた。遅刻とかして、やっぱり怒ってる?
藤井はそれについては何も言わず、手元の紙袋からCD-Rの薄いケースを出した。
「あ、どうも、ありがとう」
「いえ。昨日も書きましたが、拙い出来で」
「そんなこと。きっと気に入る」
「・・・感性の問題は希望的観測でどうにかなりませんよ。では、これも」
藤井は元の紙袋にCDを突っ込んで、袋を僕に押しつけた。これも、って、他にも何か?
僕が袋の中身を見ようとすると、それを止めるかのように「あの」と、僕の手に冷たいその手がそっと触れた。ああ、走ったから僕が温かくなったのか。
「え?」
「私・・・」
「うん?」
「今朝、急に生理が来たんです。いつもちゃんと来るのに、一週間も早く。また血を見なけりゃなりません」
「・・・そ、そんなこと」
「山根さんも、これを食べて鼻血くらい出して下さい」
「え?」
「デパートの地下も揺れるチョコレイト・ディスコでした」
「・・・は?」
「千二百円です。千、二百円。麦チョコなら何グラム?それでもこれっぽっちしか入ってません。こんなんじゃ、鼻血も出ないか」
「な、何の話?」
「バレンタインです。まったく馬鹿みたい。こんな日を設けなくたって、何月何日だって好きなときに言えばいいんですよ。好きな人に好きだなんて、こんな義務的なお祭りしなくても、ただ言えばいいだけなのに」
「・・・、お、お説ごもっとも」
「ではそういうわけで、やっぱり走ってくる男の人はいいですね。その心臓に触りたいですけど、今日はトイレも行かなきゃなりませんので、これにて」
藤井がぱたぱたと走って行ってしまい、僕はしばらくそれを呆然と見送って、それから紙袋を見た。分厚くて、高級そうな、ゴディバの紙袋だった。
あまりに恥ずかしくて、そそくさと紙袋を鞄にしまいこんだ。二月十四日の朝からチョコの袋を見せびらかすなんて、そんなこと!
頭の中は真っ白なままエレベーターに乗り込み、一緒に乗った男全員に聞いてやりたい。ねえ、チョコもらいました?今日、バレンタインですよ?
藤井のご高説も、お花畑の脳みそには届かなかった。あはは、チョコ一つで人生ってこんなに違うの?なに、この余裕?勝ち組ってやつ?いや、会社の女性陣からもらう義理チョコじゃありませんから。個包装のお土産みたいなやつじゃなくて、ちゃんと、箱に入ってリボンのかかったやつですから。あはは!いやまだ見てないけどさ。
やっぱり紙袋を出してひけらかそうかな。朝イチからもう、どういうこと?こんなバレンタインがかつてあったかな。まさか藤井がくれるなんて思ってなかったから、余計に嬉しかった。よく考えれば一応告白されてるんだし、もらってもおかしくなかったかもしれないけど・・・ああ、お返しとか、考えなきゃいけないね。来月、ホワイトデー。うわ、お返しだってさ。黒井くん、きみ、これ十個もお返し用意してたの?一人一人に手渡したりして?本命ばっかり十個ももらって、いったいどうやって返事してたわけ?想像もつかないね。僕は一個でいっぱいいっぱいだ。
「あ、菅野さん。おはよう」
「お、おはようございます」
「あのさあ、今日はバレンタインだよ」
「し、し、知ってますよ!」
席に着くのも、パソコンの電源を押すのさえ軽やかだ。朝礼が始まっても、課長に何を言われても、まるで風呂上がりみたいにリラックスしていた。腰に手を当てて牛乳でも飲みたいね。
「じゃ、行ってきます」
「あ、や、山根さん」
「ん?」
「は、早めに帰ってきて、くださいね」
「分かった。今日は早く帰るよ。・・・きみのために」
僕が夫婦ごっこを始めると、菅野も乗ってくれた。
「あなた・・・待ってます。行ってらっしゃいまし」
「うむ、行ってくる」
「どうかご無事で」
二人で吹き出して、照れ隠しか、菅野が手を振るので僕も振り返した。ちょっとやりすぎたかなと反省しつつ、いや、今日ばっかりは仕方ないだろと勝手な例外を作って、それでも恥ずかしくなってさっさと廊下に出た。今日は菅野からもチョコをもらえるそうだし、ああ、もういいや。男の子から男の子にチョコを渡す日じゃないんだから、黒井からもらえるかを心配する必要もないんだし。ああよかった。なんて気楽なんだ。
・・・・・・・・・・・
得意先で受付に出てきてくれた女性からも「いつもお世話様です」と小さなチョコを渡されて、「ああ、これは、どうも」なんてにやけたりして、嫌だなあ、僕こういう人間じゃなかったはずなんだけど。
外に出ると、土日からと言っていたのに、もう雪が降ってきていた。ああ、ホワイト・バレンタインだ。
もう今日はいいよねなんて、昼食は豪勢にちょっと値の張る居酒屋のランチなど食べてみる。いえいえ、座敷なんていいです、カウンターで。
うわ、山猫さん、マグロのカマなんて昼から食べちゃうわけ?すっごーい。これが千二百円?ランチってお得。っていうか、千二百円・・・ああ、ゴディバのチョコ。袋はえらく軽かったけど、っていうかまだ中身を見てないけど、そんなにするのか。
・・・待ってる間、中を、見てみようか。
いや、こういうのって、家に帰ってからじゃない?いやいや、ちょっとのぞくだけ・・・。
うん、自分でも馬鹿だなあって思いながら、鞄から紙袋を出して、のぞいてみた。さっきのCD-Rと、小さな、本当に、信玄餅かってくらいの、綺麗な包み。
本当に入ってたよ。僕宛ての、チョコが。バレンタインの翌日から付き合い始めて一年ももたなかった、苦い記憶はもう思い出すまい。頭を振ってそれを追い払い、山猫はようやく出てきたマグロのカマにかぶりついた。あ、熱々で、うまい!
残りの仕事も上機嫌で片づけて、傘もなく雪を浴びて、しかし夕方になって帰社する段になってようやく、僕は何かを焦り始めた。焦らなければならない何かがあるんだけど、それがうまく形にはならなくて、どう思えばいいかはよく分からなかった。
16時半。帰社してすぐに、まるでエージェントが秘密のブツを渡すみたいに、菅野が机の下でそっと僕にその包みを手渡した。
「・・・あの」
「う、受け取って下さい」
「は、はい」
何となくその場でまじまじ見ちゃいけないような雰囲気で、僕はろくに見ないまま鞄にしまった。ああ、今日の三つ目。
ありがとうもただいまも言わないまま席に着いて、机に律儀に並んだ義理チョコを見つめた。周りの全員にも置いてあるから、きっとフロアの女性陣一同からだ。これで一応、五個?うん、これなら何とか鼻血が・・・いや、まだどうかな。
・・・しかし、このチロルチョコも、どこぞの一同?
僕が二つを手にとってしげしげ眺めていると、菅野が察したようで教えてくれた。
「チロルチョコは佐山さん、もう一つは、あたしは知らないんですけど、スーツの方が配ってました」
「あ、これ佐山さんか」
僕はそちらを見て、おーいと手を振る。なかなか気づかないので仕方なく小声で「佐山さん!」と声をかけ、チロルチョコ片手に「ありがとうです!」と会釈した。向こうも軽く笑顔で会釈。ああ、派遣さんは「一同より」じゃなく、自分の島に自腹で配ってるのかな。っていうか菅野は島二つ分配るんだから、よく考えたらちょっと大変だ。一緒にそんなプランを練ってしまった手前、少し悪い気もする。藤井のチョコが千二百円と聞いて、すっかりおびえてしまったのだ。チロルチョコなら気兼ねしなくてむしろ助かった。
少しカンパすべきかな、なんて思ったが、何が楽しくて島の男連中のためのチョコ代を僕が出さなくちゃいけないんだ。まあ、これは別の形でお菓子でも差し入れすればいいかというところで落ち着き、わざわざ言い出すこともしなかった。菅野だっていい大人なんだし、それくらい自分で管理するだろう。別に僕は保護者でも何でもないんだから、これ以上首を突っ込んで面倒見ようなんて、きっと余計なお世話だ。
しかも、これからまさに恋敵になるんだし・・・。
でも別に、特別菅野に対して憎いとか何もなかったし、告白を止めなきゃとも思わなかった。僕は誰の行動もコントロール出来ないし、たとえ出来てもほんの一部で、百パーセントじゃないならそれはないも同じだ。きっと僕が少々介入しようとしまいと物事は勝手に進んでいって、なるようになるし、ならないようにはならない。風邪で遠足を休んだって仮病で体育祭を休んだって、僕の実情に関係なくすべての行事は予定通り行われてきたわけで、だから今更何をどうすることもあるまい。
何となく、二人とも無言だった。「ただいま」と帰ってきた横田が僕たちを見て、「夫婦喧嘩は何とかも食わないって・・・」と別に伏せなくてもいいところを伏せたが、僕は苦笑いを漏らすだけで、何もつっこめなかった。
何だか気まずくなったので、僕は久しぶりにトイレに逃げることにした。何といってもこれから黒井に声をかけなきゃいけないんだし、いったい何を話したものか。
持参した歯ブラシで歯を磨く。何かの本に書いてあったっけ。洗顔、歯磨き、排泄行為は逆撫でされた人間の感情を落ち着かせる・・・。うん、その全部をやってのけようか。そしたらきっと、大丈夫、かな。
しかし、全部こなしてなお、腹の底に緊張は横たわっていた。僕もあいつに好きって言いたいだけかな、なんて本音がべろりと顔を出すから、あわてて蓋をした。好きな人に好きだなんて、年中無休で言えないデーだよ藤井さん。
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